祝!五輪出場
【極私的"中田"アマチュア論】〜サッカーへの情熱・手本に〜
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二大会連続の五輪本大会出場が決まった。これは素直に寿ぎたい。
周知のように、出場を決定した先日の対カザフ戦で、中田英寿選手は将に「格の違い」を見せ付けていた。おかげで、普段彼がプレーするイタリアのセリエAがどれほどレベルが高いかがよく分かった。テレビでは分かりにくかっただろうが、特にプレーの判断の速さには舌を巻いた。前半、味方がボールをカットされると見るや、即時に危険なコースに自らがタックルに入っていった。その瞬間、思わず隣のサッカー仲間と顔を見合わせてしまった。そして、両者絶句。だが友人の次のセリフに少々引っかかるものを感じたのである。「ヒデはプロですねえ…。」
うーん、確かに凄いプレーだが、ヒデはプロかねえ?(と心の中でつぶやいたのだ。)中田選手のファンには怒られそうだが、彼がプロ(らしい)かどうかの判断はそれほど単純ではない。
「スポーツ」が「良いものである」という立場に、長らく根拠を与えていたのは「アマチュアリズム」という言葉であった。一般にそれらは「フェアプレー」とか「友愛の精神」等として表れる。ところが他方、プロフェッショナルに対するものとして語られることがある。問題は後者である。
かつては、日々の糧を得るために働かなければならない人達にとって、何の生活保障もないままスポーツに没頭することは許されなかった。そこで働くのを休んだ分くらいを保証してやろうというのが、そもそもプロの始まりであった。アマチュアであることを許される人達は、当然の如く報酬を得る人達を軽蔑し、同じ場で競技をすることを潔しとしなかった。つまり余裕を持たない一般大衆に対して、充分な財力を持ち、従って余暇を楽しむことができる特権階級である階層が、自分たちだけでスポーツを独占しようとし、それを隠すため「アマチュアリズム」という言葉を利用したという否定できない歴史があった。
「アマチュア」が報酬を得る「プロフェッショナル」に対応する資格だと捉える考え方は、競技の普及や発展とは本来全く関係がなく、ましてや「アマチュア」こそがスポーツの真髄であるという考え方と混同して論じられると、どうしても現状と遊離した分かりにくい議論に流れる傾向にある。
この点ワールドカップの創始者として知られているジュール・リメ、国際サッカー連盟第三代会長が今世紀前半には早くも警鐘を鳴らしている。リメ氏はその「回想記」の中で、「アマチュアという言葉はスポーツ用語に導入されるとともにその言葉自体の意味が変わってきている」が、「本来の意味ではアマチュアはそれに付加した言葉によってそれぞれの分野への好みを意味するだけのものである。」つまり「サッカー・アマチュア」とは「サッカー好き」と同義語であると喝破しているのだ。そしてアマチュアを"資格として"取り扱いその内容について規定しようという議論を、「こうした議論は、まったくむなしいもので」「重要なのはスポーツ、特にサッカーのもつ社会的価値、人間的価値である。」と言い切っている。
70年代になってアマチュアリズムがなし崩しに壊れていき、74年にアマチュアリズムの権化であったIOC(国際オリンピック委員会)の憲章から、出場資格として遵守され続けていたその字句が抹消された。それに先立つこと30年も前に、リメ氏は既にその欺瞞性を指摘していたのである。
因みに1914年に開かれたFIFA総会において、スイス代表から提出された「オリンピックのサッカー競技をアマチュアの世界選手権として認める」という動議が採択された。しかし各国協会によりアマチュアの解釈がまちまちであったため、リメ氏は「審査も定義も難しいアマチュアリズムの束縛から開放された大会」として、ワールドカップ創設の必要性を強く感ずるようになる。(もっとも大会の誕生は更にそれから16年を要すのだが。)
アマチュアをオリンピックの参加資格として規定してしまったため、プロフェッショナルと対立した外部から判断できる属性として理解されるようになってしまった。それがこのコトバを更に混乱させていたように思う。アマチュアとは本来「精神的な姿勢や考え方」に関する名称なのである。スポーツを愛し敬う事を第一義に考えるのであれば、プロとして収入を得ていようが立派なアマチュアである。日頃から精進し競技に全力を傾ける真のプロは、同時に立派なアマチュアなのである。この点において、中田英寿選手はアマチュア選手の手本だと言えよう。
まったくの私見ではあるが、報酬を得ているという点以外では中田選手はプロではないのではないかと考えている。なぜか。彼が見る者に対する「表現」としてプレーをしていないからだ。少なくとも、彼の言動からは、「いいサッカーをしたい」ことは伝わってくるが、「いいサッカーを見せたい」という気持ちは読み取れない。「自己実現」の場であって、「自己表現」の場ではない。中田選手にとって、サッカーは自己実現の場であって、自己表現の場ではないのだろう。「見せたい」という意図の強さが、「プロか?アマか?」を分ける最も基本的な部分ではないだろうか。
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