広瀬一郎氏のコラム   第7回 (静岡新聞 9月22日掲載)
【電動車椅子サッカー大会】  〜 W杯版パラ五輪の夢 〜

パラリンピックと言えば、昨年行われた長野冬季五輪直後の大会を覚えている方も多いだろう。当初、NHKは毎日30分程度のダイジェスト放送のつもりであったのが、直前の世論の盛り上がりと、一般の方から寄せられた「放送時間が少なすぎる!」という抗議の電話のおかげで、一挙に放送時間が拡大された事も記憶に新しい。NHKというところは、この一般視聴者からの抗議の電話に滅法弱い。もっともスキーの滑走種目で現役NHK職員の女性が優勝し、結果的に自局のPRに大いに貢献することになったのは将に望外の喜びではあったに違いない。
今やパラリンピックが、「オリンピックを開催した年に開催都市で行われる障害者の国際スポーツ大会」であることは常識だが、この大会が64年の東京五輪から始まったことを知る人はそれほど多くはなかろう。
その起源は、48年のロンドン五輪の開会式の日に、英国のストークマン・デビルという病院で行われた、障害者のリハビリとしての車椅子使用者16人によるアーチェリー競技大会に溯る。次の五輪の際オランダが加わり、第一回の国際大会としてストークマン・デビル競技大会が開催され、60年のローマ五輪の際に大会直後に五輪施設利用することが実現した。89年に設立された国際パラリンピック委員会ではこれをパラリンピックの第一回大会と規定しているが、正確に言えばこの大会までは名称がまだストークマン・デビル競技大会のままである。そしていよいよ64年の東京五輪の際に、大会名パラリンピックが初めて採用され、これ以降五輪の開催地で五輪競技施設を利用して開催されることが恒例となったのである。
なかなか日本もやることはやっている、とほんの少し誇らしくなるではないか。ところで「五輪にはパラリンピックがあるのに、W杯には無いのか?」
至極もっともな疑問だが、答えは「未だ無い」のである。そこで「パラリンンピックが日本で始まったんなら、車椅子のサッカー大会を2002年に日韓で始めようじゃないか」と有志が行動を開始した。前置きが長くなったが、今日はその紹介をしよう。

日本電動車椅子サッカー連盟の資料によれば、電動車椅子サッカーはアメリカ・カナダなどでは「パワーサッカー」と呼ばれ、80年頃に重度身体障害者のスポーツとして誕生している。日本では82年に大阪で同好会が発足し、95年の名古屋で第一回全国大会が開催され、今年は11月に熊本で第5回大会が予定されている。年々参加チームは増えているようで、ついに今年は全国大会出場のための予選大会が各ブロックで行われることになった。先日8月8日、その関東大会が横浜で開かれた。初めて見たその競技は、時速4.5キロと6キロの2種類の車椅子が各二台ずつの1チーム4人制で、直径70センチ程の皮製ボールを使用し、室内のバスケットコートを利用して戦われていた。
おりしも同じ日に隣の横浜国際競技場では、日韓の代表OB戦が行われた。こちらの方はTV等でも取り上げられたので、ご存知の方も多いことだと思う。96年の秋頃友人の加藤久氏から「W杯の共催決定にあたって、日韓代表OB戦で両国の盛り上げPRに協力したい」という申し出を受け、何人かの友人達と在日の方達とで、将に手弁当で鹿島スタジアムで第一回を行ったのが97年の5月であった。この辺りの経緯については後日また別途書く機会もあるだろう。今回は日本青年会議所の主催で行われたのだが、日韓の監督選手全員が試合前に車椅子サッカーの会場を訪ねてくれた。約40名の思わぬ来訪団に、選手や世話役のスタッフ達も大喜びであった。この競技と大会のことを教えてくれた友人の吉井氏や、選手達に根回しをしてくれた神田氏の苦労も報われたに違いない。筆者も仲介の労を取ったかいが有ったというもの。特に森孝慈元代表監督の「同じサッカーを愛するプレーヤーとして、これからも頑張ってプレーし続けましょう。」というスピーチには、館内にひときわ大きな拍手が起こったのが印象的だった。感激したと言っていた。 関東ブロック大会の事務局長で自らも読療というチームの選手である高橋君を始め、各選手達のひたむきなプレーを見ると、「2002年には日韓の電動車椅子サッカー大会をしたいんです。」と希望を語る高橋君の願いが実現することを願わずにはいられない。その実現はまた「パラリンピックの始まった国」にもう一つの称号が加わることにもなるはずだ。

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