【スポーツと教育】 〜 精神的側面から理解を 〜
|
第三回で「スポーツで日本人の変革を図るくらいの意気込み」について言及した。実は結構本気だ。
第一に教育の問題。では知識を教えたりする事とは別に、人格を陶冶する人格教育の可能性は、現在の日本のどこにあるのだろか。道徳教育を強化することで可能だろうか。そもそも今日アジアで日本が置かれている環境のもと、道徳教育の強化自体が可能か、大変疑問であると言わざるを得ない。そこでスポーツが浮上して来る。
但しスポーツを運動とだけ考えるなら、少々役不足の観は否めない。精神的な要素をスポーツに認めない限り、ほとんど可能性はないだろう。それをスポーツに求めることは決して不自然なことではない。我々には既に「スポーツマンシップ」という、スポーツの精神的な良き側面を表す言葉が身近に用意されているのだ。この言葉の真の理解が問題解決の出発点だと思われる。
娘の夏休みの宿題を手伝いながら、試みに国語辞典を開いてスポーツマンの意味を調べてみた。小学生用の国語辞典で、監修者は彼の金田一京助氏である。そこには「運動競技に秀でた人」等と書いてある。納得がいかない。自分の部屋に行って、およそ20年ぶりにほこりをかぶったオクスフォード英英辞典で同じくスポーツマンを引くと、最初に「Good fellow=良い奴」と記されているではないか。(彼我の差はこれだけ歴然としているのである。)スポーツマンシップとは決して大学の文学部哲学科に入って初めて学ぶことではない。「良い奴」になるために幼少時に身につける修養徳目なのである。これはまた決して学校だけで教わることでもない。スポーツに携わる全ての人間に共通した課題なのである。無論この点を無視して日本に「スポーツ文化」などという代物が成立するはずもない。
どうもスポーツは必然的に社会論、文化論に及ぶ。たしかに日本のスポーツを論じると、日本の社会的問題や文化的問題がより鮮明に見えてくる場合も多い。例えばそれは「公共性」という問題に端的に現われる。
官僚や大企業の汚職問題。或いはオウム真理教問題等。社会の至るところで起こっているモラルハザード(倫理の崩壊)の問題。更には子供達の教育現場の荒廃。これらは道徳的な問題と捉えられがちだが、むしろ我々の社会における「公共」観念の欠如、あるいは無理解という問題ではないだろうか。「アカウンタビリティー(説明責任)」や「ディスクロージャー(情報開示)」等の、現代日本における社会的問題解決のキーワードとして注目されている考え方も、公共(心)という社会的な背景にある概念を理解しなければ、所詮はうわべの猿真似に終わる危険性がある。制度やシステムだけで問題が解決するなどと思うのは愚の骨頂だ。必ずその制度を運用する人間の質が問題になる。その当事者に「公共」の概念が理解され身についていなければ、どんなに立派な制度を用意しようが、それは絵に書いた餅でしかない。
成る程スポーツの関係者は「スポーツは公共的である」と定義する。確かに「公共的」でなければ、スポーツ大会の開催を自治体が行う言われはない。しかしその場合の「公共性」とは一体何なのだろうか。それが充分理解された上で、様々な行事に税金が使われているのだろうか。そもそも日本の社会に「公共」という概念はあるのだろうか。あったとしても、自立した個人からなる「市民」が育っていない社会に「公共」の観念は根づくのだろうか。こう考えると、現在の日本に「公共的」な空間は存在するのだろうか。これらの成立していない社会において「公共的」な存在(であるスポーツ)とは、一体どんな意味があるのだろうか。
もし「公共」の概念が根づいたものでないなら、どうしたらそれを社会の中で確実なものにすることできるのだろうか。その方法はあるのだろうか。
これらの点全てにスポーツが100%応える事が可能だとは言えないが、一定の回答を提出できる事は確かだろう。スポーツが社会に対して寄与する可能性は来たる21世紀に向かい、ますます増大するだろう。言い換えればスポーツに対する社会的な要請は更に拡大することは間違いない。
もっともスポーツの側にその可能性に対応する準備がなければ単なる机上の空論、夢想に終わってしまうだろう。要請に対してそれなりの回答を提出しなければ、期待倒れという烙印が押され、社会はスポーツに対する要請をやめてしまうかもしれない。
|
|