広瀬一郎氏のコラム   第4回 (静岡新聞 8月25日掲載)
【スポーツとナショナリズム】  〜 フーリガンに理なし 〜

#Cスポーツとナショナリズムに関する考察


〜国旗・国歌法制化とシドニー五輪最終予選に際して〜
「スポーツに国境はない」とはよく聞く言葉である。あるいは「スポーツは世界共通の言語である」なども。一体本当にそうなんだろうか。
私が疑問を持ったのは、一昨年のW杯アジア予選の時のことである。国立競技場に観戦に行くたびに、試合開始前に大きな声で胸をはって高らかに国歌「君が代」を斉唱する多くの若者達の光景を眼にした。実際に尋ねたことはないが、彼らの大半は学校などで国歌を歌うことを潔しとしないタイプに見える。無論右翼的には見えないし、むしろ国歌によって象徴される国家という存在を、日常の中では抑圧的に感じ、基本的には余りいい感情を抱いていないタイプのように見える。にも関わらずそういう彼らがスポーツの場でこそ、堂々と(何のてらいも無く)国歌「君が代」を歌い、ナショナリズムを表明できるというなら、それを是とするかどうかは別にして、「スポーツには国境がない」という冒頭のスローガンは明らかに嘘だ。(あるいはイデオロギーだ。)何故なら、ナショナリズムこそがここで問題にしている「心理的な国境」なのだから。

確かに「ナショナリズム」をくすぐられるのは、現実問題として心地がよかったり、逆に時としてそれを侮辱されたりすると激しい憤りを覚えたりする、将に琴線に触れる問題である。それは否定しようがない。むしろ問題なのはその区別や差が、政治的な制度に組み入れられることなのである。社会的に色々な集団が存在するのはむしろ健全だと言える。「社会」とは元来、異質な人間によって構成されているものなのである。肝要なのは、その区別が法的な権利の上での差にならないこと。このことこそが「健全なナショナリズム」の大前提になるべき事柄であろう。決して両者の混同を許さないことが必要なのである。
スポーツは、制度として異質な者を異質なまま許容し、しかも制度上では平等(フェアー)であるという形で、その判別を分かりやすく示している。それを支えるのが、「ノーサイド」という機能であり、「スポーツマンシップ」という精神なのだ。
ゲームが終わるまではどう熱狂しようが、終了の笛が鳴りノーサイドになった時、お互いの健闘を称え、敗者は潔く負けを認める。それが「スポーツマン」の真髄であり、それができないものを「スポーツマン」とは呼ばない。スポーツマンならば相手チームが全力で戦いを挑んでくるのは当然だし、国の代表チームが国家の威信をかけて戦う姿に敬意を感じるのは自然だ。昨年フランスに行く直前に会った際、代表キーパーの川口君は、幾度も苦い水を飲まされている宿敵韓国のセンターフォワード"チェ・ヨンス"のことを「尊敬できる」と語っていた。何故か。スポーツマンどうし理解し合えるからである。「相手に対する敬意」こそがスポーツマンの基本であり、それ無しではそもそもスポーツ自体が成り立たない。「スポーツマンシップ」こそが、インターナショナルなスポーツとナショナリズムの一見超えがたい溝を埋める鍵である。そこに「健全なナショナリズム=排他的でないナショナリズム」の可能性を見るのは、ただ余りにもロマンティックな楽観者の謗りを受けるだけだろうか。
しかし、この点について理解をし、その理解を如何に広げるかが、「フーリガン問題」に対処するための切り札ではあろう。決して警察や軍隊の動因がこの問題の最終解決にはなり得ない。「フーリガンは暴力的だから排除すべきだ」というだけなら、確かに法治国家における警察権力が関わるべき問題である。だが、フーリガンがスポーツにとって問題なのは、彼等が「スポーツの論理(=スポーツマンシップ)の破壊者」だからなのだ。「気持ちは分かる」とか「少し行き過ぎた行為」等と安易に理解を示してはならない。行為者達にもこの点をはっきり認識させなければならないのだ。「フーリガンはスポーツの破壊者であって、応援者の一形態などではなく、そもそも彼等にスポーツを応援する資格はない。」このことをどれだけ理解し、理解させられるか。21世紀最初の一大スポーツイベントが開かれるこの国の見識が試されるであろう。

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