【評価低い個人プレー】 〜 突出許さない社会反映 〜
#B 日本代表に見る「日本問題」
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今年の南米選手権に日本はゲストとして初参加した。世界へのデビューは昨年のW杯で果たしているが、その時残酷なまでに見せ付けられた「世界との差」は、その後どこまで埋まっているのかが注目された。結果は2勝1分けで予選敗退。いやその結果よりもTVを通じて明らかになった内容の差に、愕然としたファンは多かったに違いない。サッカーの技術論は専門家に譲るとして、その戦い方から垣間見ることができる「日本問題」について考えてみよう。
例えば昨年6月20日の対クロアチア戦。おそらくはグラウンドレベルでは40度近くになったであろう過酷な条件の下、最後まで実によく戦った。(実際相手のクロアチアチームのディフェンダーの1人は、後半足がつって交代した。)但しブラジルを含め、決勝進出を当初から目標にしていたチームは、予選リーグとトーナメントでは全く異なった試合運びをしていた。2戦目のアルゼンチンも例外ではなく、対イングランド戦を見れば、日本の惜敗というのは単なる幻想でしかなかったと気が付かされたのであった。
といって岡田ジャパンの戦い振りにケチを付けるつもりも更々ない。あの戦力でよくぞここまでの戦いをしてくれたというのは、会場で観戦をした当時の偽らざる感想である。勝敗は時の常、だが敗者は敗戦の中から学ぶべき何かを見出さなければならないのもまた自明。
あの戦力で、と問題となるのは、攻撃。それも相手を崩すという段階ではなく、シュートという仕上げ段階に関わることだ。この点に関してTVの解説のためパラグアイに出向いていた友人の加藤久氏も帰国後に指摘していたが、今もって問題が未解決なままである。しかしシュートの弱さ、及び不正確さという点は、一重に個人の技量に関わっていると言って過言ではないし、代表に選ばれてから練習することでも、そこでトルシエ監督に教わることでもない。翻って現在Jリーグの中で強くて押さえの効いたシュートを撃てる日本人のフォワードは?と訊ねられると、ほとんどの人は答えに窮してしまうだろう。見当たらないのである。何故だろう。ここで私は子供たちにサッカーを教える指導者の顔を思い浮かべてしまう。
ある子供が強引に突破を試みたり、強引なシュートを放ち失敗すると、たいてい「次は頑張れよ」でなく、「なぜ、パスをしないんだ!」と咎め、サッカーがチームプレーであることを強調する。状況によらずドリブルやシュートよりも常にパスが称賛される。そしてそれは子供たちの判断力に少なからず影響を及ぼす。大人になっても頭の中で常にパスがプレーの最上位に位置されてしまっており、個人プレーは常に低い地位しか与えられていない。要は個人としての突出を許さない日本社会の構図はサッカーにも適用されているわけだ。そんな環境で強いシューターは絶対に育たないであろう。この結論に気づくと少し暗い気分になる。少年時の育成から手をつけなければ問題の解消はおぼつくまい。道は決して短くもなく、平坦でもないだろうが、他に取るべき道はない。
今まで機会の或る度に繰り返し述べてきたことであるが、スポーツは実によく社会を映す鏡である。スポーツを見ると必ずその所属する社会の問題が浮き彫りになってくるのだ。社会から隔離されたものでありえない以上、スポーツが抱える問題はその背景の社会が抱える問題を解消することなく片付くものではない。ここで私達は強いシュートを撃てるフォワードの不在によって、日本の教育の問題に思い至るのである。そしてこの関係は可逆的なものではないだろうか。つまり強いフォワードが育つようなシステムを検討することで、日本の教育システムそのものにとっても何がしかの良い影響を与えうるとのではないかと思うのだが。スポーツが社会を反映したものならば、逆にスポーツで社会のほうを変えてみせるぐらいの意気込みがあってもいいのかもしれない。 |
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