広瀬一郎氏のコラム
第1回 (静岡新聞 8月4日掲載)
【祭りとしてのW杯】 〜 楽しむことが出発点 〜
#@「祭りとしてのW杯」2002年へのスタート地点
「ワールドカップ(以下W杯)とは何か」という質問ほど難しいものはない。
質問する側がW杯を知らないか、というと十中八九知っていてその上で「何か」と聞いて来るのだから、考えようによってはタチの悪い質問だと言えなくはない。
ほとんどの人はTV等を通じて一度は見たことがあろう。まして昨年は日本もついに念願の初出場を果たし、最高視聴率は50%を超えたという。(衛星TVも入れれば3〜4%は上になるはずだ。)また大会前の5月にはW杯関連の本が凡そ100種も出版され、大きな書店ではそのためのコーナーさえ設けられていた。
では仮に「みんなやっていた」衛星放送で全試合を鑑賞し、100冊の本を全て読破したとして、W杯が何かという質問に過不足なく答えられるようになるだろうか。残念乍らそうはなるまい。何故か。そこが今回のテーマ「2002年へのスタート地点」になる。
現在のW杯には大きく分けて3つの顔がある。
第一は競技、つまりサッカー。無論これが事の始まりであり中心である。
第二はビジネス。チケットを売る興行であり、スポンサーを募る広告の場であり、マーチャンダイジングがあり、またTV番組として取り引きされる放送権の売買があり、そのために撮影し画像を衛星等で諸国に配信する仕事があり、その他諸々のビジネスがそこに広がっている。
確かにこれら2つの分野は重要ではあるし、説明もしやすい。しかし世界中の圧倒的な人達にとって、自分達が当事者として関与しながら説明のしにくい第三の側面がある。それが「祭り」という顔だ。
人々が日常を忘れ、利害得失を捨て、時には仕事や家族や恋人さえ忘れ、4年に一度熱狂する世界最大の「祭り」。それがW杯だ。そう考えると説明がしにくいというのも多少は納得がいくだろう。祭りに説明は不要だし似合わないではないか。そこにあるのは人々を興奮に誘う不思議としか言いようのないあるエネルギーなのだ。
例えばW杯の度ごとに報道される「フーリガン」と呼ばれる与太者達の暴力的行為について考えてみよう。「一体何故、昼間からビールを飲んで酔っ払い、暴れて喧嘩をしたり、商店を壊したりするのか?」と眉をひそめ「日本人には理解できないね」等とおっしゃる。ほー、本当にそうでしょうかねえ?では「地車(ダンジリ)祭り」の岸和田は日本ではないのだろうか?毎年電柱や商店の看板や民家の塀が壊されていませんか?或いは死者さえ出している諏訪の「御柱祭り」はどうだろうか?あるTVのインタビューに「諏訪の者の血が騒ぐ」と地元の人は答えていたが。
W杯も同様、4年に一度世界の人の血が騒いでしまうのである。それを「世界最高のサッカーが見られるから」等と説明するのも当を得ているとは言い難い。はっきり言って64試合の中には凡戦も少なくないし、W杯の決勝以上に質の高いサッカーのゲームなどいくらでもある。それでもやはりW杯はbPなのであり、世界中の老若男女の血を騒がせるのだ。そしてそれは「W杯だから」としか答えようのないものなのだ。
その世界最大の祭りが、3年後の2002年についにアジアで日韓共催として開かれるのだ。これからの3年間に亘る関係者のご苦労は大変なものだ。しかし、忘れて欲しくないのはW杯が楽しい「祭り」だということ。運営する側が楽しまず、苦しくて嫌な「仕事」としてだけ事を進めれば、「祭り」自体が本当に楽しくなるはずがない。
7年に1度の諏訪大社の祭りが終わった直後、準備と実施で疲労困狽しているはずの運営関係者達が、如何にも嬉しそうに「次が待ち遠しい」と語る時のあの充実した至福の表情。それと同じものが、2002年の大会終了後に関係者の方達の顔に見られることを祈らずにはいられない。またそのために私達も当事者の一人として21世紀最初の「世界祭」を大いに盛り上げ、大いに楽しもうではないか。そしてそれを私達の出発点としたい。
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