〜「市民クラブ」横浜FCの2年(3)〜

間に合わなかった、待てなかった=ソシオの成長

2001.01.13

 
 


 99年末における予算編成に関するミスが、仮に百歩譲って「仕方なかった」ものとしよう。しかし、そのあとの処理、つまり組織としての横浜FCの対応がもっと問題が多かった。この時点で、問題は「カネの扱い方」から、「リスクを管理する組織体制」の問題に拡大していくことになる。
 まず、辻野社長はこうした一連の失策を隠すため、役員会という会社組織の通常の最高意志決定機関をなんとかやり過ごそうとした。本来ならば、ミスがあったことを役員会で報告した上、役員が一致団結してやり繰りに当たるというのが普通である。ところがそうならなかった。なぜか。横浜FCの(出資したという意味での)創業者は辻野社長、宮崎氏、鈴木氏の3人である。この3人は当初、辻野氏の熱意と人当たりの良さ、宮崎氏の企業経営の手腕、鈴木氏の人的ネットワークとバランス感覚という、それぞれの持ち味を生かす形でクラブを支えていた。ところが、99年8月頃から、様々な原因によって3人の連携が崩れ始めていたのだ。その詳しい経緯についてはここでいちいち触れないが、どれも非常に些細な考え方の違いから3人の間に対立感情が醸成されていたこと、そしてその3人のうち誰も他の2人を説得して協力を取り付けるに足るリーダーシップと説得能力のある人物がいなかったということに尽きると思う。程度の差こそあれ、この点では3人とも同じである。
 このころ、ソシオ側は「ソシオ研究会」を開き、会員内の行政・コンサルティング・会計などの専門家を集めて、クラブのガバナンス(統治)の仕組みを整備することを検討していた。横浜FCはいくらソシオによって支えられているとはいえ、現状でその法制度的な保障はまったくない。ソシオは実質的には会社に会費を振り込む会員の任意団体でしかなく、会社の重要な経営方針に関与する権利は、株式を持つ3人の創業者にはあっても、ソシオには理事会と会社の「協定書」以外に、何もないからである。3人の経営陣が少しでも判断を間違えれば、それを組織的にフォローすることができないというリスクを横浜FCは抱えており、それを誰もが恐れていたのだ。
 当初ソシオ研究会(その後持株会検討会に改組)が考えていたのは、横浜FCの株式を持株会というかたちでソシオが持ち、株主権限の行使を通じて会社に経営の透明性、健全性を求めていくというものだった。検討会の中では「ソシオの民主的な決定を生かすために、横浜FCそのものをNPO(特定非営利活動法人)化してはどうか」という意見も出ていた。ただ、これは従来のJリーグのクラブでNPOが運営主体であるケースがないためと、J昇格を目指している最中に株式会社からNPOへの事業譲渡という「運営主体の変更」をするのは良くないのではないか、といった理由から見送られた経緯がある。

 本来、横浜FCが市民クラブという「社会の公器」であるためには、3人の創業者の個人的資質だけにクラブ経営を頼っている事態は好ましくないのは事実だ。このこと自体は、辻野社長自身も「Jリーグから『3人しかいない株主をどうにかしなさい』と言われた」と認めている。全日空事件の教訓を生かすならば、横浜FCの重要な経営上の方針は、資本の力によらない(つまり選挙で選ばれた)人たちが関与して決めるような仕組みを作るべきだった。それは、「責任ある立場からクラブの資金・運営の両面を支えていこうという然るべき組織を株主に入れなさい」ということと同義である。横浜FCの場合、この「責任ある立場からクラブを支える人・組織の集まり」のことを、「ソシオ」と呼んでいるわけだ。持株会という、資金を拠出しながら、資本の多寡ではなく1個人あるいは1組織が1票の投票権を持つという組織は、横浜FCを支える「責任」を、資本の論理から民主主義の論理に変換する装置として考え出されたのである。これは画期的な発明だった。
 しかし、創立1年目の会社には、こうした運営基盤づくりに対応するだけの余裕はなかった。ソシオが意見しようとしても、会社側の回答は「今は会社の基盤が脆弱すぎるので、多数の意見を聞いている場合ではない」であった。残念ながら、2年目になって幾人かの役員が入れ替わっても、こうした対応は変化しなかった。JFL参入とクラブの存続だけが課題であった1年目と、J2昇格を控え、ソシオの参画を含めた民主的なガバナンスの仕組みづくりが課題であった2年目を取り違えて、「会社のことは会社の中だけで決めていい」と勘違いしたのが、99年の後半に会社の運営に関わっていた、ほぼすべての人たちの根本的な過ちであったと言ってよい。

 
     

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