多くの隠れファンを持つ、
朝日新聞がトルシエ通訳、フローラン・ダバディ氏を取り上げました。
 

2000.08.16

 
 

8月13日の朝日新聞朝刊 31頁「あなたが選ぶこの人が読みたい」のコーナーに「トルシエ監督に寄り添う通訳?」が掲載されていたわけですが、同氏には「サポティスタ」も以前から注目していました。
神田サッカーナイトにゲストとして招請したこともございます。
朝日の記事を引用しながら、同氏について語ってみました。(青字の部分が引用部分です)

目をぐりぐりさせ、鼻の穴をふくらませ、真っ赤になって何事かを「ほえて」いるフィリップ・トルシエ監督。そのわきで、青筋を立てて絶叫し始める青年がいる。
 「自分のすべてをかけろっ。(この状態は)かけてないよっ」「このままだと負けるよおっ、もっとがんばろうよーっ」
 生粋のパリジャンで、名はフローラン・ダバディー。身長一九〇・五センチ、細身の二十五歳。
(中略)

 サッカー日本代表の試合会場や合宿先で、監督の通訳をしている姿がまれにテレビに流れる。日本サッカー協会が監督のアシスタントスタッフとして契約した三人のうちの一人だ。

 二十三歳以下日本代表候補の柏レイソルの明神智和選手は「日本語がヘンになっちゃう時も るけど、ニュアンスはすごく伝わる」と言う。
 なにしろ、通訳していくうちに「どんどんトルシエになってしまう」のだ。口調が激しくなれば、フローランの声も上ずる。裏返ったりする。競技場控室で叫びまくるフランス人二人の姿は、身ぶり手ぶり、動き回る姿までそっくりだ。

 「監督が怒ってないところで怒ってる時があるような気がするんだけど……」。明神選手に言われるまでもなく、「トルシエにもやりすぎだよ、と笑われたことがある」と本人。「でも監督のコンセプトを完全に理解している自信がありますから」
 派手な身ぶりも興奮した口調も、「トルシエの心の旋律を伝えるため」の確信犯的行為だという。「少し役者じゃなきゃできないと思う、この仕事。俳優を見て育ったメリットかな」
    
 イブ・モンタン、カトリーヌ・ドヌーブといった映画人がひっきりなしに遊びに来る、そんな家の次男坊として生まれた。
 父親はジャン・ルー・ダバディー。数々の映画を手がけた著名な脚本家。母親は資産家のお嬢様でファッション雑誌の編集長だった。両親は八歳の時に離婚。以後三、四年ごとに父母の間を行き来して育つ。「おかあさんには悪いけど」、有名で美しい女性たちにいつも囲まれている父親を「結構、悪くないな」と思うような子だった。

 十六歳の時、パリの小さな映画館で小津安二郎監督の「東京物語」を見て、日本映画に魅せられた。翌年、伊丹十三監督の「タンポポ」を見た時は、本当に笑った。映画に出てくる日本の食文化に興味を抱き、辞書を引き引き、読破したのが漫画「美味しんぼ」。米国留学後、フランスに戻って東洋語学院で日本語、日本文学を専攻した。(「常用漢字はすべてOK、漢字かな交じり文は問題なく操れる」という実力だ)

この漢字読解力の高さは眉唾ではないらしい。トルシエの世界J-NETなどの討論系掲示板の代表監督論議の流れをリアルタイムにウォッチングして、トルシエに報告しているのは知る人ぞ知る話である。

 父親の存在は、誇りであると同時に「足かせ」でもあった。「保守的な仏社会では有名人の子は何をするのでも色めがね。『どうせコネでしょ』扱いです」
 (1)芸能界に入らない(2)フランスを出る。最終進路はこの二つの原則に沿う方向に、と決めていた。

 卒業後、日本で創刊された映画雑誌プレミア日本版の編集部に来ないかと誘われる。一九九八年、日本に渡った。

今も本職はプレミア編集者。監督のアドバイザー兼通訳役は、あくまで副業である。合宿時など不定期に時間を割いてこなしている。

 振り返ると、ひょんなことから始めた副業だった。
 日本に来てまもなく、CSデジタル放送のサッカー番組で解説者を務めたことがあった。母方の祖父が仏サッカー1部リーグのチームの元会長だった縁で、六歳からサッカーを始め、十六歳で足首を手術してやめたときは「主将で、かなり出来た選手」。その経験を生かしたアルバイトのつもりだった。(その際、「トルシエが逐語訳でなく、ストレートに気持ちを伝えてくれるフランス人のスタッフを探している」と耳にした。好奇心も手伝って、サッカー協会に履歴書を送り、採用されたのだった。

 当初、契約交渉も含めてトルシエの通訳は茂木哲也さんが担当したが、同氏はパリに自身のビジネスを抱えるため、常時滞日するわけにはいかない。
 初期のJビレッジキャンプでは女性通訳がその任を務めたこともあったが、「ストレートに気持ちを伝える」の点で難があり、フローランに白羽の矢が当たったわけである。(つらい時期もあった。九九年七月、南米選手権で

日本代表が2敗1引き分けの惨敗に終わると、雑誌やインターネット上の電子掲示板で「トルシエはマネジャーが外人だからだめなんだ。日本人選手のことがわかってない」と書かれるようになった。
 スポーツ評論家の何人かは「トルシエのそばにいるのは日本の文化も知らないフランス人だから」といった趣旨の発言をした。外国人だと日本のことが全くわからないなんてごう慢な考え方だ。「私の人生はすべて日本に回して生きていこうと決めて来た。だから、あの言葉は、くやしかったね。今でも嫌いです」

 フローラン氏は静岡の大学に留学中、同大学のサッカー部員としての生活を過ごしている。FWを務めていたらしい。

    
監督から自分の携帯に、電話がかかってこない日はない。それもたいてい、長い。だから徹夜が続く締め切り日直前は出たくない。「でも電源を切ると怒るんですよ」 この間見た試合でいい選手を見つけたんだよ。こんなおもしろいサッカーの記事を読んだんだよ。こんなテレビ番組への出演依頼が来てるんだけどどう思う?
 「分かるんですけど、僕もプレミアの仕事があって」と言えば、「本当にごめんよ。そうだよねえ、でもね、すごく緊急な話なんだ。実は」とくる。
 「ま、緊急な話だったことはほとんどないです。それもぜーんぶ、サッカーの話」。だがそんな、しつこくて頑固で仕事好きなところがまた好きで、思わず「そうですか」と相づちを打ってしまう。二十歳ほども違うのに、不思議とウマが合うな、と思う)

 プレミア誌の巻末の編集部員の欄にはフローラン・ダバディーの名前が確かにあります。

2002年ワールドカップまでトルシエ続投はほぼ決まったが、自身は去就で少し悩んでいた。本業との両立が難しくなってきたからだ。しかし協会関係者は「トルシエは、選手との関係にかかわる通訳はフローランじゃなきゃだめと思ってるようだ」。
 とりあえず九月の五輪に行くことは決まった。今度はシドニーで、トルシエが乗り移ったイタコとなって「お告げ」を絶叫することだろう)

 

 
     

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