ノンノン・マリア弦楽四重奏団演奏会 曲目解説
|
ヤナーチェク 弦楽四重奏曲第1番 「トルストイのクロイツェル・ソナタに霊感を受けて」 1923年、69歳のヤナーチェクにより作曲された。ヤナーチェクは歌劇の作曲家として知られるが室内楽も多数手掛けている。作曲された時期は大きく3つに分けられる。二十代前半の第1の時期、五十代半ばの第2の時期、そしてこの弦楽四重奏曲から始まる最晩年の第3の時期である。第3の時期は他に「弦楽四重奏曲第2番「ないしょの手紙」や弦楽六重奏曲「青春」など傑作が生れている。 ヤナーチェクは晩年、前述「ないしょの手紙」の送り主で骨董品商の妻であった三十八歳年下の恋人カミラ・シュテッスロヴァに心を寄せており、ヤナーチェクが彼女に送った手紙は600通を越えている。家庭的に恵まれなかったヤナーチェクがカミラとの出会いによってこれら傑作群の創造する力とした事は想像に難くない。 この弦楽四重奏第1番の表題となっているトルストイの「クロイツェル・ソナタ」をヤナーチェクが扱ったのはピアノ三重奏曲などに次いで3度目である。小説の主人公が道ならぬ恋におちた妻を殺してしまうという筋にショックを受けた作曲者が、愛憎の恐ろしさや深刻さを独自の自由な形式で描いている。ヤナーチェクはカミラへの手紙で「わたしはロシアの文豪トルストイによって描かれたような、悩み、打ちのめされたあげく死に追いやられた哀れな女性の事を考えていたのです」と作曲の経過を語っている。 スメタナ四重奏団のヴィオラ奏者シュカンパによれば、第1楽章は劇の呈示部、第2楽章はヒロインを誘惑するヴァイオリニストの登場で劇の転換点、劇の頂点にあたる第三楽章を経て、第4楽章で劇は破局し、途中胸中をぶちまけたような高まりをみせクライマックスへと向かう。小説の作者が否定した真実の愛こそ価値のあるものであるという考え方がこの曲の結論になっている。
早坂文雄は1914年(大正3年)仙台市に生れ幼少のころ札幌に移住する。祖父の頃まで家は豊かだったがその後没落し早坂は貧しい中で育った。父親の出奔もあり進学を断念し中学卒業後働きながら独学で音楽を続けた。この頃に伊福部昭、三浦淳史と知り合い互いに意気投合する。早坂はピアノ、伊福部はヴァイオリンを弾き、伊福部が同好の大学生と組織した弦楽四重奏団と伊福部の兄の弾くコントラバスを加えてピアノ六重奏団を結成した。1934年(昭和9年)、「新音楽連盟」を創立し、第1回国際現代音楽祭を札幌で開く。曲目はすべて日本初演となる西欧現代作品で埋め、早坂はサティの《3つのグノシエンヌ》などを演奏した。 山鼻カトリック協会でオルガニストとして働くなか作曲した《二つの讃歌への前奏曲》が日本放送協会「祝典用管弦楽曲」懸賞に第2位入選し、1936年(昭和11年)1月に放送初演される。この頃から『音楽新潮』などに寄稿するようになっていく。また光星商業学校で音楽、美術、英語を教えるようになる。 1939年転機が訪れ上京し東宝映画に音楽監督として入社する。トーキーの分野で多く仕事をこなし名声を確立していく。戦後1947年映画監督の黒澤明と出会い黒澤映画の音楽を担当することになる。1951年には映画「羅生門」がヴェネチア国際映画祭で金獅子賞を受賞し、その音楽も大きな話題となる。 この弦楽四重奏曲は早坂の名が世界的になろうとするそんな時期に作曲されている。早坂の弦楽四重奏曲はこの1曲のみで、同じ北海道出身の伊福部には弦楽四重奏曲が無い。早坂は「汎東洋主義」を唱え、雅楽や能の構造に見出した日本的・東洋的な美学を作品に生かそうと試みていたが、唯一の弦楽四重奏曲として作風が室内楽の分野にどの様に反映されているのか興味深い。 曲は3楽章形式で第1楽章は非常にゆっくりとしたテンポでヴィオラの特徴的なリズムが全体を貫く。第2楽章はピッチカートで演奏される。原始的なリズムと音形が特徴的である。第3楽章は主題が力強いユニゾンで始まり野生味のあるリズムが全体を支配する。1953年(昭和28年)、以前より次第に悪化していた病勢により没。享年41。 この曲の楽譜は出版されておらず、ご遺族から楽譜の管理を委託されている日本近代音楽館に自筆譜の複写を快諾いただいた。
1876年52歳のスメタナによって作曲された。スメタナは1974年50才で聴力を失う兆候を自覚した。それはこの年の春に梅毒に感染したためであったが、全身に発疹が出たり幻聴と強い耳鳴りに悩まされながら完全に失聴し、10年後には発狂し悲劇的な死を迎えた。 聴力を失いかけてからのスメタナは全ての公的な地位から退き作曲に専念するほかなくなった。1976年にはプラハから60キロほどのところにあるヤブケニツェという村に娘夫婦をたよって隠遁し、そこで交響詩「わが祖国」や「わが生涯より」が作曲された。初演は1879年にスメタナが隠遁前に指揮をしていた国立劇場管弦楽団の中新メンバーによって行われた。 「わが生涯」という副題はこの曲がスメタナの自叙伝的な標題音楽であることから付けられている。スメタナが親しい友人ヨゼフ・スルプ=デブノフルにあてた手紙の中でこの曲に関して「私の人生の思い出と、完全な失聴というカタストロフィーを描いた」と語っている。また、それぞれの楽章に対する注釈も書かれており、それによると第1楽章は「私の青年時代の強い芸術愛好、ロマンティックな雰囲気、何かへの憧れ、それに将来への不幸の知らせをも描いている」。第2楽章は「ポルカ風の楽章で、私の心に楽しかった青春の日々を蘇らせる。その頃私はダンス音楽を作曲し、いたるところで熱烈なダンス狂として知られていた」とある。第3楽章は「のちに私の妻となった少女との初恋の幸福な思い出」。第4楽章は「民族的な要素を音楽で扱う道を見いだし、せっかく仕事が軌道に乗り出して喜んでいたところへ、失聴というカタストロフィーが襲いかかり挫折するところまでを描く」となっている。この楽章の終わりに近い箇所で、突然音楽が休止し不吉なトレモロの後にファーストヴァイオリンが高いミの音を弾き出す。これはスメタナの耳鳴りの音である。ここからが終部であるが、暗澹たる先行き、一縷の望みなどが交互に現われこの自叙伝は幕を閉じる。 |