教団論のための教学論

小野文b

 

T 充治園教学の試練

 

1 憂宗上申書

 

平成8年11月中旬、尾道の岡田正人という在家居士から、「憂宗上申書」なる宗門批判書が送られてきた。一読後、その的確なる指摘に立場の違いを越えて共鳴し、「俗法門」、いまだ衰えずと、「寺法門」の正統を自負する筆者はライバルの正体をとらえたかのような思いで、何度もうなずいた。

「上申書」は真間山弘法寺貫首酒井日慈上人の「宗名変更」の提言に激怒して書き始められている。貫首の提言とは、『現代仏教』誌(ニチレン出版刊)1996年9月号に、掲載された次のような意見書である。

法華経を信奉する日蓮聖人は、あくまで釈迦牟尼世尊のお弟子である。つまり、同じ法華経を信仰する者として、その末席につらなる我々からすれば、まことにおこがましい表現ではあるが日蓮聖人は偉大なる兄弟子なのだ。法華経の祖師はあくまで釈迦牟尼世尊である。やがて宗門も21世紀を迎えようとしている。そして又、平成14年には立教開宗750年という意義ある年をむかえる秋、日蓮聖人より帝都弘通の直命を受けられた直弟子の日像聖人が「法華宗」の幟印を翻翻とひるがえし、宇宙の教えとして法華経を獅子吼された、士気まさに天をつく充実感に溢れた昔日の宗名にもどすべきではないかと私考するものである。勿論、日蓮聖人が超人的な偉大な人物であることは言をまたないが、宇宙の教義を説く法華経であるのに個人名を宗名にしているかぎり、ともすると、その教義よりも、魅力に溢れたその人物の強烈な個性に目をうばわれ、法よりも人に没入してしまわないとはかぎらない。日蓮聖人直弟子の日像聖人が、師より直命を受けて名のった宗名が「法華宗」であったという歴史的事実を再認識すべきだ。(中略)各聖、各位、「日蓮宗」から「法華宗」へと脱皮しようではないか。(同誌寺院版、98〜99頁)

本山の貫首ともあろうお方が、ずいぶん軽率な発言をしたものである。その意図するところは充分理解できるが、「日蓮宗」から「法華宗」へ宗名を戻す論拠が、日蓮本仏論に対抗するためという後ろ向きの姿勢では、貫首自身の信仰を問われかねない。新居日薩初代日蓮宗管長の「日蓮宗宗号布達」に、

日蓮宗の儀は宗祖日蓮法華経に根拠の釈迦所立の宗旨を祖述するなり故に所依の経に依て之を云はば法華宗と称し能弘の人に依て之を云はば日蓮宗と称す是れ日蓮宗名の原本なり

 とあり、近代の再出発において、日蓮法華宗は能弘の人に依って「日蓮宗」と単称することになった経緯が了解できる。これは至極当然で「天台法華宗」が古来から「天台宗」と名乗っている先例があり、日蓮の立てた法華の宗が、「日蓮宗」と公称するのは仏法上の成り行きであったのである。問題は、日蓮系各派の中で、一致派と呼ばれる身延系がいち早くこの「日蓮宗」の宗号を登録してしまったことである。一致派にとっては新居日薩の大手柄といえるかもしれない。その日薩は周知の通り、加賀の優陀那日輝の立てた充治園の出身であった。

 ところが、岡田氏はこの「上申書」の中で、酒井貫首の提言を、近代日蓮宗の学祖優陀那日輝の悪弊と激しく批難する。

六老僧をはじめとする700年来の法華宗内の、実に多くのこ僧方のうちにも、日輝学僧ほどの悪僧は、他には見られますまい。これほどの悪師を現在の日蓮宗の宗学の祖師とされていることは、全く理解し得ないところです。この宗学で教化され、"マインドコントロール"の網中にある日蓮宗は、宗名は日蓮宗であっても、実質は日輝宗であると惟われます。(中略)本山の貫首さまである酒井日慈上人も、現在の宗学(優陀那宗学ー筆者注)で成長されていることは当然です。その故だと存じますが、日蓮宗内の現状の"本尊観説""宗祖説"も、前記した日輝学匠説と相通じているご論説のように惟われます。そのうちの一説には、宗祖日蓮聖人を、末法の時代に於ける、日蓮宗の祖師であり、大恩ある大師匠と信仰されているのではなく、「おこがましい表現」とことわってはあっても、「日蓮聖人は偉大なる兄弟子なのだ」と論説されてあります。大師匠(宗祖)と末代の弟子であるはつの弟子とのケジメもなく、宗祖日蓮聖人を、兄弟弟子扱いにされているご説はいただけません。(同書3頁)「日蓮宗」から「法華宗」へ、宗名変換の論旨に優陀那日輝のマインドコントロールをみるというのである。そして結論として、日輝宗学の学智を以て、ご遺文を読めば、このような誤りの謗法を生じます。日輝宗学の魔性のマインドコントロールで、宗祖のご聖文は正しく読めますまい。大謗法の、現在の日蓮宗は、日輝宗学がその原因であると惟察されます。(10頁)

岡田氏の経歴はわからないが、明治の田中智学居士の優陀那宗学批判を、現代に聞く思いである。近代日蓮宗の充治園教学(大檀林教学、寺法門)と国柱会教学(居士教学、俗法門)の対峙がこの平成年間にも火花を散らしている事実に、「日蓮の宗」の宿命を痛感するのである。

酒井貫首は、この、日輝に狂わされたとの批判にはとうてい承服しないであろうし、そもそも優陀那流の色分け自体、時代錯誤と一笑にふしているかもしれない。しかし、筆者は、貫首の所説を追いながら、その柔軟で、創造的な発想と、自由で進取な宗教的見方に、優陀那宗学=充治園教学の最大の特徴を見出すのである。貫首の意識下に(遺伝子内というべきか)、「日蓮宗」の明治再出発以来の、優陀那門下の開明的宗学論の蓄積と、指導者養成の百年の悲願の流伝を見る思いである。ただ皮肉なことに、充治園門下が全力を注いだ単称「日蓮宗」の、宗名変更論から、近代日蓮宗の本質が現われたことである。しかし、考えてみると、これがまた充治園流の充治園流らしいところかもしれない。彼らは時代に合せて教団を創造しようとした。常に既成の教団の枠を越えて新しい時代を見つめていたのである。

立教開宗650年は、今から約100年前、明治35年、1902年のことである。充治園のリーダ日薩・日昇の膝下にあった浅草実相寺の酒井日慎、後の池上本門寺貫首、日蓮宗管長が、初めて宗会議員に当選し、脇田尭惇・本間海解の充治園一門とともに、大崎谷山丘に日蓮宗大学林設立を図った年である。100年後、開宗750年に向かって、彼らの法脈に連なる教団の一責任者が、このような激をとばしている。

長い歴史の変遷の中にあって、時の流れをのり切る為に、堪えがたきを凌ぐ時代があっても已むを得ぬことであが、暗い時代をすぎたならば一刻も早く夜明けの鬨を告げるべきではなかろうか。つまり、今、その黎明をむかえたのである。鬨を告げるのは今だ。(前掲、酒井日慈投稿文)

在家居士の独特な嗅覚から、岡田氏が「日蓮の宗」の危機を察知して、「憂宗」のやむにやまれぬ諌言を全国に発したのもむべなるかな。彼の真意もはっきりしている。「現在の日蓮宗の宗学が、日蓮聖人の教授された宗学でないことを、いや日蓮聖人に反逆した宗学であることを証明するため」(前掲書、2頁)だという。本当に「日蓮宗」の宗学は宗祖に対する反逆の教えか。すでに田中智学が充治園門下を前にして、反逆者と断罪していた。

優陀那師あっての日蓮宗ではなく、日蓮宗あっての優陀那師である。祖師と優陀那師との主張が斯うも違ったということは、祖師に対する反逆ではないか。

新居日薩の末葉である筆者はこれに答えなければならない。この厳しい批判に答えることが、「日蓮宗」の教団論を構成すると私考したのである。以下は、私的な「日蓮宗教団論」の一試考である。ただし、酒井貫首の宗名変更論を補強するものではない。実際問題として「法華宗」の宗名は、現存する法華宗各派と大同団結でもしなければ名乗れるものではない。貫首が日蓮門下の大合同をめざしているのならば、その時に、教義の修正意見を提案して味方に参じたい。ただ理念的に「法華宗」を掲げるのならば、当たり前のことなので、偏屈な居士教学に弁明する必要もないであろう。筆者が問題にするのは、「日蓮宗」にとって、優陀那宗学是か非かの、二者択一の議論である。優陀那宗学こそ日蓮「宗」の教義として是認してきた宗学徒として、教団存亡の危機を迎えた今日、果たして彼の思想が正しかったのかどうか、再検討しながら、教団の明日を見究めたいのである。この個人的観点から言えば、酒井貫首の提言は「日蓮宗」にとっては重大な意味を持つ特筆さるべき事項であり、その勇気ある発言に心から感謝したい。

 

2       平成の殉教者

 

平成9年7月3日、ネパール、ルンビニで、仏舎利平和塔を建立中の、日本山妙法寺の僧、生天目日喜上人が、56名の暴漢に襲われ、頭を撃たれて即死した。

生天目師は銃弾六発を浴び、このうち一発が頭部を直撃し即死状態だったという。室内が荒されていないため生天目師を狙った犯行と見られている。(『仏教タイムス』1997・7・10号)

ネパール政府は単なる強盗と発表したが、その背景には民族紛争、仏教迫害の要因が横たわっているようである。イスラムの原理主義者か。ヒンズーの保守派か。仏教の興隆を阻止せんと実力行動を起した者がいたのではないか。少なくともそう疑わせるいくつかの事実がある。実は筆者は2年前にルンビニの日本山妙法寺を尋ねて、生天目上人にお世話になったことがある。その時の上人からの手紙の一節を引用する。

釈尊御誕生の聖地、嵐昆尼苑に、ささやかながら日本山妙法寺の道場が完成致しました。この道場が嵐昆尼苑復興の礎、起点となり、狭くはネパールの平和、広くは世界の平和を御祈念申し上げ、また嵐昆尼仏舎利塔がすみやかに涌現致し、21世紀の平和の本尊となり、御釈迦様、御師匠様への報恩の一滴となります様、これからも心を新に益々精進してまいりたいと念願致しております。(1995・3・16)

平成時代の殉教に、頭から水をかぶせられたような思いである。仏教の平和が、どんなに尊く、そして困難なものか、44歳という若さで凶弾に倒れた生天目日喜上人が、身をもって示している。筆者だけではない、日蓮宗全体が、その死の突きつけた重さに苦悩すべきであろう。日本山妙法寺の僧俗も<日蓮宗>の宗徒なのである。

開山故藤井日達山主の宗号論に、

日本山妙法寺が自ら天下に向かって「日蓮宗」と公称する所以は、漢土の天台智者大師を高祖とせる法華経の宗門が自ら高祖の名によって天台宗と唱えしが如く、吾もまた日蓮大聖人を高祖と仰ぎ奉るが故に、能弘の人を所立の宗に命じて日蓮宗と称するなり。(中略)官許日蓮宗の公称は正大なるに似たれども、還って高祖日蓮大聖人の自ら公称し給いし宗号を隠没するの恐れあり。依て日本山妙法寺は且く世界悉壇の利益を念うて「官庁」なんどに対して日蓮宗と称することあれども、元来官許公称の意味に非ず高祖大聖人の所立の宗門なることを知らしめんが為のみ。故に日本山妙法寺は宗派局限対立して統官に摂属せらるるが如き必要の為の宗号を要することなし。官許公称の宗号に対しては日本山妙法寺は無宗号をもって面目とすべし。もし強いて仏教の中の一宗号を撰ぶべしと謂わば高祖大聖人の御妙判に従いて「妙法蓮華経宗」と名付くべし。或はまた「仏立宗」とも名付くべし。或はまた法華宗とも名付くべし。宗号は官許を得べき所以なし。

藤井山主は明治37年大崎の日蓮宗大学に入学し、優陀那宗学の正統後継者清水龍山について天台・宗乗を学んでいる。清水龍山は充治園出身の紀州感応寺上木日令の弟子で、教学上優陀那師の孫弟子に当り、藤井日達が入学した年に大学林の教授に就任した。山主の著作には「宗学の恩師清水龍山先生」と諸処に記され、龍山の自坊日本寺にも出入りしていたようである。しかし、充治園の思想・行軌には心を動かさなかったようである。充治園の信行の中心、唱題読誦は、堂内における観心正坐行であったが、日達師は、

日蓮大聖人の宗旨の肝心を「立正安国」と称して国難の警告、精神的救護をもって、一大事とし給えり。その国難を払い日本国を持つべき精神的救護の方法として撃鼓宣令の弄引をもって南無妙法蓮華経と天下万民一同に声を惜しまず大音声に昼夜朝昏、市中山林、到る所に唱え奉るべしと仰せ給いぬ。

と堂外における撃鼓唱題を信行の中心にすえ、諌暁折伏を排した充治園の信心為本に対して、「高祖日蓮大聖人の宗門は、内立正安国の諫暁を行い、外万国に日本の仏法を光被せしむるにあり。一天四海皆帰妙法とはすなわちこれなり」と破邪顕正の行動をそのまま信心とする。充治園の教学が『観心本尊抄』を依拠の遺文とするのに対し、日本山の思想は『立正安国論』をその宗教の指針としている。出家主義と在家主義の相違はあるが、心情的には充治園より国柱会に近かったのではないか。次の文はそれを示している。

田中智学と申す者あり。自ら出家還俗の身となり候いしかども、護法扶宗の志念広大にして国柱会を創立し、純ら日蓮宗の威信を宣揚せられ候。この国柱会の一統が自ら日蓮宗と名乗りたりとて、なんら「妄り」がわしきこととは申すべからず候。

ただ国柱会と違うところは、日本山は文字どおり「死身弘法」を世界に実践したということである。7月8日の渋谷道場での生天目上人の葬儀に、導師を勤めた日本山の長老塙行幸師は、宗祖の『佐渡御勘気紗』、仏になる道は、必ず身命をすつるほどの事ありてこそ仏にはなり候らめと、をしはからる。既に経文のごとく、口罵詈 刀杖瓦礫数数見擯出と説れて、かかるめに値候こそ法華経をよむにて候らめと、いよいよ信もおこり、後生もたのもしく候。死して候はば、必ず各各をもたすけたてまつるべし。

を披露して、さらに一門の不惜身命の覚悟を求めた。現代にこのように御遺文を色読している教団があるのかと、粛然して頭を垂れた。優陀那和上の宗学はこういう立正安国の実践とは、反対の方向に向いて構築された面がある。その営みは「合理的観念論」で実証をともなわずと批判されるものであるが、信念をもって「日蓮の道」を変えようとしたと推察するのである。日薩和上はそれを体して、清廉、純信、高徳な不受不施の行者釈日正師を弾劾し、不受不施の宗義不可として、その独立に断固反対した。今の世に管長日薩が出現したならば、優陀那宗義をもって、日本山の撃鼓宣令を認めないであろう。世間を惑わす危険大として、そのマイナス面を危惧したであろう。事実、充治園門下が恐れていた立正安国の落とし穴が、今(平成9年現在)一般社会を大騒ぎさせている。

 

3       国家諌暁

 

平成9年7月16日、朝日新聞を除く全国紙・地方紙に、「日本国民に告ぐ」という全面広告が掲載された。創価学会と対立している富士大石寺系の信徒団体「顕正会」の国家諌暁の活動である。「日蓮大聖人に帰依しなければ日本は必ず亡ぶ」というこぶし大の活字が躍り、『立正安国論』の冒頭の真蹟写真がそのまま印刷されていた。よく読むと、浅井昭衛顕正会会長の本の宣伝である。

日本人はこの国に、久遠元初の本仏が出現されたことを知らない。日蓮大聖人こそ、三大秘法を以て、日本および世界の人々を救済される御本仏であり、全人類にとって、主君・師匠・父母であられる。この大恩徳の大聖人を、700年前の日本国は、誤解して流罪にし、ついには御頸を刎ね奉った。その大罰が蒙古襲来という「他国侵逼」の大難であった。日蓮大聖人に背けば、人も、国も、人類も亡びる。ゆえに開目抄の意に云く、「日蓮によりて日本国の有無はあるべし」と。そして今、改悔なき日本に、再び他国侵逼は迫り、国まさに亡びんとしている。その予兆こそ、大聖人御在世の「文永元年の大彗星」に次ぐ巨大彗星、「平成9年の大彗星」の出現である。

この夏、顕正会50万人の信徒は、日本国中に広宣流布の折伏活動として、この会長の本の配本運動を始めた。上は政・官・財の日本の指導者から、下は学校の先生、会社の先輩、町内の役員まで、『日蓮大聖人に帰依しなければ日本は必ず亡ぶ』は社会のすみずみにまで出まわっている。知らない人は、またすごい日蓮系の新興教団が出現したものだとうなっているにちがいない。もともとは大石寺の法華講の一つで、あの創価学会も逃げまわっていた保守強硬派のグループ妙信講が母体である。世界の宗教状勢からみれば、日蓮原理主義の勃興というべきか。日蓮系の中でも最も偏狭な大石寺門流、その中でも狂信的な妙信講が、世紀末の社会の不安感を足場に、顕正会として組織を整え、全国に、国立戒壇の見果てぬ夢を追って打ってでたのである。優陀那日輝はこの富士の一派が、彼らの独善的な野望のために社会を混乱させることを最も嫌った。

勝劣ノ一派ハ偏僻卑劣ノ道ナリ。富士ノ一派ハ僻中ノ僻、劣中ノ劣、卑俗中ノ卑俗ナリ。決シテ依用スベカラズ。富士門流ノ義ヲ用フル事甚シキ僻事ナルベシ。本迹ハ重々ノ格アリ、宗祖並ニ皆之ヲ用ユ。富士流ノ題目ト一部トヲ相対スル一辺ヲ取ルハ至愚ト云フベシ。釈尊ヲ捨テ、蓮祖ヲ取ルト云ハ仏法ニアラズ外道也。宗祖ヲ本尊トスルコト祖意ニアラズ。大ニ聖人大人立教ノ意ニ背クナリ。釈尊ヲ本尊トスルハ祖師自行化他倶ニ皆然カナリ。釈尊ニ依テ宗ヲ立テ、法華経二依テ宗ヲ立ツ。豈ニ釈尊ヲ本尊トセザランヤ。

日輝は、日蓮本仏論や国立戒壇論に赴く者を、「富士ノ穴ニ入ル」と厳責した。この富士門の邪義破折の延長線上に、あの『庚戌雑答』の立正安国論不用論が洩れたのである。

(日蓮本仏論の)富士流ハ邪義ナル故ニ天下不レ用レ之。(中略)立正安国論ハ当時既ニ其ノ用ヲ不レ為。況ヤ今世ニ至テ全ク其ノ立論ノ無実ヲ見ル。天下安泰ナルハ全ク武徳ニヨレリ。仏法ノ盛ナルハ第一ニ東叡山。第二本願寺。第三増上寺。第四禅門ナリ。我力宗ハ第五ニ居ルベシ。若シ然ラバ何ゾ殊ニ蓮祖ノ最尊ナルヲ知ランヤ。当ニ知ルベシ蓮祖ノ大功ハ釈尊ヲ尊奉セルト法華経ノ殊勝ヲ顕シ給フトニアリ。良ニ釈尊ノ仏タル所以ヲ知ルコト偏ニ天台ト宗祖トニ由レリ。若シ釈尊ヲ廃シ法華ヲ迹門ナンドト既斥セバ、誰レカ之ヲ信ゼン。仏法ヲステテ別ニ一道ヲ立ント欲セバ何ゾ仏子ヲ祖トセンヤ。蓮祖宣ニ仏子ニアラズヤ。

親友桓睿日智への私信の中で、大石寺の「釈迦脱仏日蓮本仏」のあまりにも頑迷な教理に激昂して本音を吐いてしまった。時・機・国を見ずに『立正安国論』を金科玉条のごとく振りまわす折伏法体主義者を否定したものだが、宗祖に対する不遜な発言になってしまっている。優陀那宗学の最大の問題点といえるであろう。創価学会や顕正会から、邪教身延派と攻撃される標的となるところである。もちろん教団内でも物議をかもした。しかし、「日蓮宗」は、敢えて優陀那輝師の宗学を「宗定」として採用し、近代教団が成立するのである。宗祖と輝師の間を埋める是正の作業は、充治園門下の仕事であった。これについては後述する。

顕正会の説は、日輝が否定した大石寺の僻事宗学そのものである。それが現代に再び提起されたということは充治園教学の存亡に関わる大事件である。一方で日本山妙法寺のような実践伝道者が続き、輝師畢生の思索『一念三千論』が机上の戯論のごとく色あせていく。明治の実践者から、「行・証の無い教理論などどのように堅固に構築したところで小乗の独善に堕するだけだ」との批判を改めて思い返すのである。充治園の教学が、立教開宗750年を前に、その根底から問われているのである。ということは、「日蓮宗」という教団が、維新の成立期より今日に至るまで、そして21世紀の未来に向かって、「日蓮の宗」として是か非か、裁定を下されることになりかねない。試練の時とはこういう意味である。

 

 

U 充治園教学の再検証

 

1       摂折論 

 

新居日薩(1830〜1888)の跡を継ぎ充治園学派の最高責任者となったのは、小林日董(1846〜1905)初代日蓮宗大学林(立正大学)林長であった。日董に宗義の大綱をまとめた『日蓮宗綱要』の著がある。その中から「摂折二門」についてみてみよう。

本宗古来折伏を主とするは、蓋し末法の初め闘諍堅固権実雑乱す、此時に膚って本門の大白法を弘布せんと欲す、豈折伏を主とせざるを得んや。然るに今や文化日進万国の交通自由なり。是に於てか外教者も布教伝道に従事す。故に今時は機に随ひ、国に随ひ、適宜に二門を応用して四悉檀の益を得せしめ、令法久住せしむるを以て弘経者の本意とす。故に宗祖云く、「末法に摂受折伏あるべし」(開目抄)

充治園の摂折論である。そして現代の日蓮宗「宗義大綱」に継承されている思想である。摂折妙用論は重・乾・遠以来近世「日蓮宗」の通格で、近代「日蓮宗」もその思想を積極的に受けついだわけである。日輝の「摂進折退説」はその代表的なものであった。その精神を一言で示せば、柔軟さ、ということであろうか。形式や教相にとらわれずに「柔和忍辱心」をもって、機に応じ、時に応じ、国に応じて弘経教化していこうとする自由な姿勢がそこにある。

その意味では折伏法体論はとらず、摂・折はあくまでも方法論の範疇で語ろうとする。法体は、十界常住、本有無作、中道実相の正法とするのであるから、事観の名目で自由な解釈が生れるはずである。教相より観心を重視する優陀那宗学の特徴である。当然日蓮聖人の教義から逸脱していく危険性もここにある。優陀那宗学はその危険を、教権で取りしまるのではなく、信仰者の主体に任せようとした。個々の仏・祖への信心から分に応じて選択させたのである。摂受から入ることがその条件であったが……。明治になって堰を切ったように日蓮宗の教師が社会事業、福祉事業に挺身していくのは、末法折伏の縛から解き放たれて人間として社会に出ていくことができるようになったからであろう。優陀那日輝の摂受とはそういうことだったのにちがいない。

自由ということは摂受の一辺にこだわることも本意ではないということである。新居日薩はそう考えている。恩師日輝は摂折妙用を強調するために摂進折退に偏りすぎたきらいがあると。日薩は充治園教学としてその点を修正しておきたかった。有名な明治8年6月の第一回本山会議(日蓮宗宗会)で、玉沢妙法華寺の物部日暉が、桓睿日智譲りの摂受論を強く主張した。優陀那和上と桓容の間で、摂受論がしだいに極論になっていくのを見ていた会議主の日薩は、真っ向から反対して激論を戦わせた。

此の時に石川日大と藤原日迦師との建白書より端なく、玉沢の日暉上人と和上との間に摂受折伏の意見大衝突を来し、和上は折伏論を主張し、上人は摂受論を主張し、旗鼓堂々互に相下らず、一座寂として水をうったるが如くであった。

参列した高僧たちも充治園の教学に眼を開いたのではないか。日薩の胸中には、摂受だ、折伏だ、という論争自体を頑迷固随として斥けるものがあったのかもしれない。

 

2       四箇格言論

 

創価学会・顕正会から、邪宗身延派と唾棄される「日蓮宗」教団は、宗祖日蓮の他宗批判をどのように受けとめているのか。これについて象徴的な逸話がある。日薩の「四箇格言読み換え事件」である。

「念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊」の四箇格言は、中世から近世にかけて、日蓮門下の旗印であり、信条であった。しかし優陀那日輝は全国から集まった学徒に対して、@時機の差別、A行用開遮、B偏執の過失を挙げ、宗祖の時代と大きく隔たった現今は、折伏の時ではない、四箇格言は用いるべきではないと断じて、「南面の学」という、創造的・開明的な宗学を講じた。

明治初頭、神仏合併大教院時代に、廃仏の非常時に仏教徒は互いに他宗を攻撃するのは慎もうとの約定を各宗で交わす際、この四箇格言が問題になったことがある。その時、周旋役の大内青巒が、「仏を念ずること間(ひま)無ければ、天魔も禅(しずか)なり。真(まこと)に亡国と言って、国賊を律すべし」と読み方を変えれば、お互いに手を握れるではないかと提案したところ、日蓮宗を代表して大教院に出仕していた新居日薩が、苦笑しながら「よかろう」と言ったという。これは大内青巒の息子の思い出の記であるが、この話題は大教院で大変な関心をよんだようで、当時はまだ若輩で大教院に詰めていた真宗の南条文雄が、その『懐旧録』の中で、「法華宗の日薩という人が四箇格言の新訓点を発明した。仏を念ずれば間(ひま)無く、天魔禅(しずか)なり。言(げん)(まこと)なれぼ国を亡す、国の賊律(おさ)まると読んだ」と特記している。この噂はその後四箇格言読み換えとして教団内で問題となり、日薩の会下から還俗した田中智学に、祖師への裏切りとして批難される素因になるのである。日蓮本仏論を唱える創価学会・顕正会も祖訓絶対の立場から謗法罪として許すことはしないであろう。

ただし、日薩はそのような批判に動じなかった。かえって諸宗との連盟の推進役となり、有名な「諸寺院連名建白書」(明治8年1月)を提出するのである。この人物は、十代に学を志して遠い北陸の地、私塾充治園に笈を負い、優陀那日輝に就いて、維新の時代に備え新生日蓮学を修めたものである。学成って、充治園の学頭を勤め、師日輝の遺志を継いで、動乱の東都に上京したのである。師の四箇格言遮止論を堂々と掲げた修正派であった。彼は明治5年に、旧弊の檀林を廃し、東京二本榎に宗教院を設立して仏教教育の拠点とし、再興日蓮宗の本部とした。日薩を首とする充治園の門下しか、この廃仏の嵐の中の舵とりはできなかったのである。宗教院(後の日蓮宗大檀林、今日の立正大学)では、充治園の学説が講じられ、儀礼も規則も教程も、すべて充治園が手本にされた。日輝がいち早く西洋の学術文明に目を向けたのに倣い、この学校は最初から普通学科が設けられ、仏教教科とともに英語・算数を中心に、西洋の教育学、論理学、心理学、生理学、物理学等が組まれていた。日薩は若手の俊秀を他山に次々と留学させ、偏狭な日蓮主義を打破しようと試みた。仏教を比叡山・高野山に学ばせ、英語を慶応義塾に、西洋思想を哲学館に、さらに海外留学の道を開き、直弟子孫弟子たちがアメリカ・イギリスに留学している。教育こそが仏教興隆の基であり、その教育は固随の保守的な教育であってはならない、というのが彼の信念であり、富士大石寺派等の頑迷な独善主義が排仏論を惹起させた一因と考えていた。

道独り弘まらず、必ず人に依る。今夫れ法統相続は、一宗命脈の係る所にして、最も緊要必須の事なり。而して法統相続は、其人を得て之を教育するに非んぼ、決して得可らず。之を農の、播種を為さずして収穫を望むに警ふ。(中略)方今文運大に開け、学術甚博く、且つ盛なり。我仏法独り旧を守って固随に終る可らず。

日蓮宗の他宗との協調で、近代社会に大きな功績を残したものに、福田会育児院、楽善会盲唖学校、監獄説教などがあり、仏教啓蒙運動の主役となった和敬会も充治園の門下が旗をふったのである。他宗批判より各宗協調に舵をまわした日薩の努力は、その後の門下生の活躍によって近代日本社会の発展史に特筆されることになったのである。

充治園教学を理念とした近代日蓮宗は、総理大臣を勤めた石橋湛山(1884〜1968)を筆頭に日本社会に開明的指導者を次々と送りだしている。優陀那日輝が宗祖の四箇格言を「巧弁権施已」といって、摂受開会を力説した

意図がある程度活かされたというべきであろう。

 

3       立正安国論

 

新居日薩の代表的著述「日蓮宗教義大意」(別名「日蓮宗大意」)の冒頭を記す。

器傾けば水溢る。国家穏かならざれば身安からず。故に法華本門の大教は、国土常住を明して衆生本有の果報を示し、先づ生前を安じて更に没後を扶けしむ。是を以て宗祖大士の言を建るや、立正安国を以て一宗弘化の実績と主夫れ国は法に依て昌え、法は人に依て貴し。然れば則ち国家の盛衰は、教法の正邪に由るか、須らく正法を弘めて国家の清寧を祈求すべきなり。所謂正法とは何ぞや。法華本門寿量の妙法蓮華経是也。

優陀那日輝の宗学と、日輝の門下生充治園学派の宗学(充治園教学―日輝から戦前の立正大学学長清水龍山までを総称)とには明らかに差があるように思う。この論文で、「優陀那宗学」と「充治園教学」と書き分けている意は、その点を考慮しているからである。もちろん日輝の講義した充治園であるから、弟子たちが師匠の宗義を継承したのは間違いないのであるが、明治維新期の近代国家成立期に教団の責任者となった新居日薩の思想、明治後期から昭和前期まで内外からの攻勢に日蓮宗宗学を守った清水龍山(1870〜1943)の思想、両者共に和上の祖述者を自任していたが、日輝の宗学とまったく重なるわけではなく、それぞれの場で、発展・深化させている点が指摘できる。

ただし、大筋としては執行海秀先生が論評したごとく、

日薩を初め、その門下の正統派においては、当時の宗学の権威者であったにもかかわらず、その教学はただ充治園教学の伝承に終始して、その間、独自性の発揮が見られない憾みがある。教学そのものは、充治園の学風を受けて自由性に立脚していたが、既成の学説を金科玉条とするところから、その結果においては、却って充治園の自由な学風が没却されていたのである。

日輝を越えるような思潮は生みだされなかったとの見解を否定するものではない。要は二人が師の「立正安国論無用論」に言及していない点をここでは問題にしておきたい。

前に引用したごとく、日薩は「立正安国」の思想を、「一宗弘化の実績とす」と定めている。それは「故に宗祖一宗建立の初に当て、先づ『立正安国論』を制して、之を時の執権北条時頼に建言して、法華の正法に帰依して、国家の静謐を祈求すべきこそ、方今の時に応機に適ひ、国家を安穏ならしむべきの急要なることを論述し、法華弘通の確標を定立す」ることで、新生日蓮宗の旗印はやはり『立正安国論』だったのである。この「教義大意」は、

されば『立正安国論』に曰く、「三界は仏国なり、仏国何ぞ衰んや。十方は宝土なり、何ぞ壊んや。国に衰微なく土に破壊なくんば、身は是れ安全心は是れ禅定ならん」と。抑も立正安国は一宗建立の大本なり。然れば即ち本門法華の宗旨は、本門三秘の正法を建立して、衆生成仏の根基を固くし、国土常住の真理を明にして、国家を安穏ならしむ。所謂先づ生前を安んじて更に没後を扶けしむ(立正安国論)と云者なり。之を本門法華一宗の大意とするなり。

と結ばれている。教権を握った管長の定めた「教義大意」である。近代日蓮宗の「宗憲」と呼んでもよいだろう。当然「立正安国ハ一時ノ権巧、今時ニ於テ全ク用無キカ」という日輝の発言は黙殺されていく。以後充治園門下は明治の近代国家成立期に、「立正安国運動」とも名づけられる布教活動を展開していくのである。大教院・大檀林の教育権を確立した充治園門下は、全国の俊秀を養成し、その弟子・孫弟子の中に多士済済の人物を輩出したが、どういうわけか一門の中から、日輝の観心論(宗教哲学・宗教心理学・宗教論理学)を継ぐものがでず、かえって宗学者より、宗政家・布教伝道家・宗教事業家を多く世に出した。管長日薩の充治園教学の修正が影響しているとみるのは早計であろうか。その修正が明治天皇制国家主義を容認していく過程で行われていったところに、立正安国思想が鎮護国家思想の色彩を帯びていくことを止めることができなかった。大教院の門下生から、国体論の田中智学、天皇本尊論の清水梁山が出て「反充治園派」を形成したのも、日輝宗学の発展とみることもできるのである。少なくとも異端は正統がなければ成り立たない。優陀那日輝を正統としたところに、田中智学、清水梁山の活躍する道が開けたのである。ところが近代日蓮宗教学の大勢からみれば、正統としての充治園教学は名ばかりで、異端としての智学・梁山の宗学が全国に普及していったのである。

日薩の直弟・孫弟子たちが智学の日蓮主義の講莚に列なるようになって、大崎の清水龍山は孤立していく。その状況と大崎宗学の成立について、教学史研究者執行海秀はこのように記述している。

(清水龍山は)自ら優陀那教学を継承し、その大成を以て任じたのであるが、日輝の教学に対しては、多少の修正意見がないではなかった。それは余りにも理性主義であって、渇仰すべき本仏が冷やかであるというようなことを講義の中で漏されていた。しかるに、清水の教学に対しては、山川等の批判はともかくとして、当時の学内においても、天台学の理を基調とするものとの声があった。殊に当時の欧米思想によって宗学を刷新せんとするものは、清水の教学を訓詰教学と鹿し、また時代順応派からは「宗門あるを知って国あるを忘れた」ものとか、「明者は理を尊び、闇者は文を守る、汝は守文の闇者なり」との罵倒を受けたのである。しかし彼はよく、国体迎合、時代順応説を斥ぞけ、「宗義あっての宗政なり、宗政の為めの宗義に非ざるなり」といい、大崎宗学の基盤を築いたのである。

清水龍山は日輝の行き過ぎを是正し(日蓮との距離を縮め)、日輝の美点をより深め(日蓮の宗教の思想的裏打)、日輝の行軌を掲げ(日蓮の信心の強調)て、近代日蓮宗教学を確固たるものにした。「日蓮宗」は、この優陀那日輝の宗学を純化させた清水龍山の日蓮教学を、教団として公認したことによって(日蓮宗大学=立正大学の宗学の最高責任者として、昭和18年1月8日、73歳で化を遷すまでその地位を追われることはなかった)伝統・教義・組織の統一が維持され、教団としての体裁を保って、昭和大戦の敗戦に対処したのである。戦時下、「立正安国」の曲解によって不敬罪で何度も告発され、特高警察の取り調べを受け、帝国議会でも問題にされながら、清水龍山は大崎の教学の権威を守った。その胸奥では、『立正安国論』を現代では無用と断言した優陀那和上の真意を、問いつづけていたのにちがいない。

 

 

V 充治園教学の課題

 

1       大崎宗学の動向

 

戦後、大崎の立正大学に設立された宗学研究所(後の日蓮教学研究所)に、宗門外の在家で教団とは関わりのない身で、研究員として日蓮教学に携わって以来、宗門の学者をその間近で見続けた、高木豊立正大学仏教学部教授は、現代日蓮宗教学の風景をこのようにスケッチされている。

昭和27年6月、立正大学仏教学部に奉職して以降、その警咳に接することのできた宗学者の諸先生を、ひそかに私は、3M・3Sとよんできている。3Mとは、望月歓厚・室住一妙・茂田井教亨の3先生、3Sとは、鈴木一成・執行海秀・塩田義遜の三先生である。塩田・室住両先生は身延で、他の四先生は大崎で、それぞれ研究と教育に尽痒されたのであった。これら6先生の宗学のそれぞれの位置づけをすることは、とりも直さず、現代宗学の諸問題を把握することになるはずである。(中略)明治以降の宗学――いったい宗学の呼称とその概念化は誰からはじまったのであろうか――を、人に約していえば、近代宗学は、風間随学・清水龍山・浅井要麟3先生ではなかろうか。これに、国柱会の田中智学・山川智応氏らのもう一つの系譜を加えてよいであろう。そして、現代宗学は、先の3M・3Sの6先生に約すことができよう。

「大崎宗学」(充治園教学を継承した近代の学的営みを、その機関の置かれた場からこう呼ぶことにする)は、優陀那和上の祖述者清水龍山師が亡くなると、敗戦という嵐に直面した転換期とも重なり、大きく変貌していく。その最大の要因は、民主国家の成立という外圧よりは、清水名誉学長の後を継ぐ宗学者の質的相違という内圧の面が大きい。戦後の日蓮宗教学の責任者となったのは望月歓厚師(1881〜1967)である。師は反清水派と位置づけられる充治園教学の改革者である。充治園教学そのものを否定しないが、龍山師のような訓詰的在り方を「宗学」として評価せず、和上の合理的精神にならって、大胆に時代に合せて充治園教学を切開し、新たな日蓮宗教学を創造しようとした。

宗学の質別の基盤となる宗学者の態度を見るに、1に護教的態度、2に祖述的態度、3に復古的態度、4に組織的態度、5に批判的態度、6に創造的態度等が数えられるであろう。1の護教的態度は、(中略)多く註釈学的方法が用いられ、所謂、訓詰の学となる。これ一に批判と、自主とを欠くより生ずるところで、縦令、崇道尊祖の面に一往の尊さはありとするも、また宗学と称せらるべきものではない。

と彼は述べ、「余は和上を祖述する者、敢へて新奇を街はず」というのが口癖の清水龍山の態度を宗学とは認めず、宗学とは「自己に感得射照された仏祖の真精神(全人全教)を対象として、時代に立脚した自己の信仰的体験の方法によって宗教価値の世界を作り出す方法と規範とを学ぶ学である」とし、創造宗学こそ宗学本来の在り方であると、自己の宗学のめざす道を表明した。

6に創造的態度、(中略)宗学は、自己の信仰を対象とする学であるとすれば、自己が自己を宗学することで、創造の辞以外にはこれを表現することはできない。このような態度から創造する宗学は、勿論、哲学的な、社会学的な、文献学的な、また教義学等の方法を捨つべきではないが、これ等諸種の方法態度を総合推進するに、体験的方法を中軸としなければならない。即ち、時代精神に立脚し、学的な方法を駆使して、仏祖の全精神に根元的に一如した自己の信仰を批判し、反省して樹立した宗学を、反って規範として習修する生活である。

『日蓮教学の研究』は望月歓厚の代表作であるが、筆者は新充治園教学のテキストと見なしている。「大崎宗学」は清水龍山によって基が開かれたが、望月歓厚によってまったく新しい発展を遂げることができた。それを導いたのは望月の「宗学史研究」であろう。優陀那日輝も清水龍山も手を染めなかった、日蓮宗宗学の史的体系論を開拓していく過程において、日蓮教学の新しい地平を発見し、一挙に充治園の教学の上に樹立してしまったのである。この望月の宗学史研究が、いつ、どこで、誰の影響によって始動したのか、という問題は大変興味のあるところであるが、弟子であり、同志であった執行海秀によると、明治40年日蓮宗大学の教壇に立った島地大等の、「本覚思想史」「天台教学史」の講義が起点になったようである。望月歓厚は学生でその講義を聴講し、客観的、学術的「教学史」に眼を開かされたのではないだろうか。

その望月の日輝教学の総括を記しておく。

日輝の宗学は、宗門従来の墨守的教相、教理の学を排して批判的、進歩的の実際宗学を興し、その態度に於ては折伏排他の固牢を捨てて摂受開会の主義を取り、外観を捨てて内省を重んじ、破戒を誠めて持戒を勧め、以て僧風の向上を計り、無智闇愚を笑い、学解増進を貴び、即身是仏の体得を以て卑賎自屈を蔑ろしめ、自身法界の主なりとの自覚に住せしめんとしたものである。彼は自ら「儒学国学隆盛にして今の義を成ず、此れ時の然らしむる故也」と言える如く、当代に対応して彼の新宗学は建設せられた。即ち()僧家の向上を計りて外学に対向し、()仏教の利用実学を宣明して時勢に適応せしめ、()三学兼修を勧めて僧徒を覚醒せしめ、()摂受開会を主張して世に遅れず他に調和せんとするのである。

望月歓厚師の大崎宗学を継いだのは日蓮宗教学史研究の執行海秀師であった。浅井要麟師、鈴木一成師、塩田義遜師も清水龍山師の跡を追わず、それぞれ祖書学、文献学、思想史の分野を開拓し、大崎宗学を拡充、進展させていった。昭和32年、『日蓮宗読本』を編纂した頃の大崎の日蓮教学研究所は、勝劣派教学、大石寺教学、国柱会教学、霊断師会教学等の日蓮門下内の各派教学に対抗して一歩も引けをとらず、外の仏教各宗、キリスト教等の各宗教にも見劣りのしない豊かな内容をもった教学研鎖の場であった。唯一の弱点は、大崎の身内からでた「純粋宗学」の反旗であった。充治園教学の危機は、外からではなく、足元から、教学の根本を問う形で火の手があがったのである。

 

2       純粋宗学を前にして

 

筆者は望月歓厚・執行海秀先生の教学史研究の学統に列なる末学の徒で、新充治園学派を自負するものであるが、当然大崎宗学の中で、教学史研究という外側から中へ入ってくるものとは別に、最初から宗学につき進んでいた研究者がいた。先の高木先生の見た3M・3Sのうち、望月(『日蓮宗学説史』)・鈴木(『日蓮遺文の文献学的研究』)・執行(『日蓮宗教学史』)・塩田(『法華教学史の研究』)の諸先生は「大崎宗学=新充治園教学」で一つにくくることはできるが、清水龍山先生の門下生、室住一妙師と茂田井教亨師の位置づけは慎重を要する。共に教学史に足を入れずに純然たる宗学者として世に立った方である。高木教授は前掲の文に続いて、

もし、教学史研究を宗学者のもつ遠心力の作用であり、祖師への還流を求心力の働きだとすれば、(室住・茂田井)両先生の宗学的営なみは、むしろ、この求心力の発動にほかならず、この点において、両先生は共通するのではなかろうか。しかしまた、その求心力の発動のあり方において、両先生は、それぞれ個性的であられたのである。

清水・望月の宗学の客観的評価、ならびに比較検討は、その渦中にあった門下生では不可能であろう。戦後の大崎の宗学者は、どちらか、または両方の影響を受けて研究者の道を歩んでいたのである。その中で唯一人、大崎の卒業論文で、清水・望月ひっくるめて大崎宗学全体を真っ向から否定した学徒がいた。龍山の教え子室住一妙である。

昭和5年3月、立正大学の卒業論文として、「日蓮宗教学一般への省察」を書いて、現実的に、歴史社会を通観して、宗団と宗学の関連について究明し、結論として、宗祖に還帰せよ、根本教学の樹立へ、本質宗学の展開へと翹望したところ、不文不徳未曾有の骸動を以て辛くも卒業させていただいた。不文不徳と本人は卑下しているが、「宗祖に還帰せよ」「根本教学の樹立」「本質宗学の展開」の主張はその後も一貫して、大崎に放たれた。

祖山学院(現身延山大学)に奉職した室住一妙は、宗祖に還帰した根本教学・本質宗学を「純粋宗学」と名づけ、独特な語り口で深化させていった。「日蓮宗学新指針」(『棲神』20号、昭和10年)、「純粋宗学の理念とその展開」(『棲神』23号、昭和12年)、「即身成仏研究序説」(『棲神』24号、昭和13年)、「純粋宗学本質論の資料と問題」(『棲神』25号、昭和15年)、「新体制下における本質宗学よりの提題」(『棲神』26号、昭和16年)、「大信の発動―本質宗学に於ける主体性の規範1(『棲神』27号、昭和17年)、「宗学とは何ぞ―絶対自覚の学として―」(『棲神』28号、昭和18年)

純粋宗学とは、徒らな抽象的理論宗学ではない。勿論、布教とか、寺門経営とかの策略を授けるものではない。がそういう生きた活動運営の依って基づく所以を確め、実現し向ふべき目的を明め、更に態度を正し、方策を練る指導原理たるべきものであるとせば、具体的宗学の切実に要求せざるを得ぬものではなかろうか。純粋とは、まじりっ気のないことでさりとてかの無味乾燥な蒸溜水ではない。母乳のような、醍醐味、天の甘露ともいふべき滋養成分の精(エキス)のやうなものと見られる。宗学のエキスは、宗祖の純粋なる精神である。それをば厳密な方法で明確に、公正な態度で把握、表現していく所の学術であるといへようか。

宗祖の純粋なる精神に帰れ、との叫びは、清水宗学にも望月宗学にも致命的な打撃を与えるものであったはずである。田中智学の「宗祖に帰れ」はイデオロギー的復古主義で、時代に便乗した観が強いが、室住の「宗祖に帰れ」は純心素朴な復古主義で、信仰の原点を問いかけていたのである。龍山は優陀那和上のところに戻り、そこから出発している。歓厚は現在の場から過去に戻らず、日蓮も日輝も現在によび出そうとしている。龍山の訓詰は日蓮の訓詰ではなく日輝の訓話であった点、歓厚の創造は日蓮による創造ではなく時代による創造であった点、「純粋宗学」の理念と方向からみれば、「不純」であったであろう。ただ、戦前は室住の諌言はそれほど注目されたとは思えない。清水・望月の両師も、一徹な若者の理想論と気にもとめなかったようである。

敗戦のショックは大崎で生き残った望月師よりも、身延の若い室住師の方が深刻であった。純粋宗学の論理構造の中に、血気にはやって大東亜戦争を容認する八紘一宇的国家主義をとり入れてしまったからである。5年に及ぶ沈黙の期間があった。その間純粋宗学が誤りであったかどうか、孤立し孤絶した状態で祖師に独白し続けたのであろう。「純粋宗学という宗祖の精神のエキスに誤りがあるはずはない」、再度確信したのは、戦後の世相の混乱に宗教界も右往左往し、宗門人も新思潮に付和雷同している軽薄な有り様を目前にしたからである。

章句文字を摘要羅列して計我浅解し、軽しめ賎しめ、七花八裂して新々珍説を弄すること、随分と非科学的労作ではなかろうか。まことに畏るべき罪業ではなかろうか。修飾する時代迎合の術語を操り、憶想街学して得々たり、以て時代宗学となす。かうした諸法戯論の糞を食ふ狗犬の業をやめようではないか。深く従来の臭腸を洗潅しようではないか。要は無常迅速生死事大、焦眉毒箭の道心のもとに、「教は必ず行へ、行は必ず証へ」と、大道一貫して出発することである。純粋宗学はこの意味で、宗祖の大慈大悲の御精神に応へ奉るべく、一種の問題学的領域を、仏足頂礼の脳裏によく銘せしむべきである。

この激越な文は、室住一妙の戦後の第一声である。昭和25年11月4日、立正大学で開催された第3回日蓮宗教学研究発表大会で、「現代宗学の基本問題」と題して発表した原稿である。この大会の会長は宗学研究所所長望月歓厚であった。望月はこのような挨拶をしている。

本大会の目指す教学とは狭義の日蓮宗の教学ではなく日蓮宗を構成する全教学を考へているのであります。勿論その中核を為すものは日蓮宗学でありますが、仏教学はその骨髄を為し哲学文学の精神諸科学はその肉を為し社会経済等の社会科学はその皮を為し更に自然科学もその基盤に横はる底の円錐形の組織が要請されましょう。故に教学研究の発表はより広い分野からこれが為されねばならぬ筈であります。何かなる学問分野からもこれが人間完成の基盤として道義的に扱はるる限りそれはそのまま教学であると考へられます。かくして日蓮の教学に広い基盤の上に不動に直立する高峰的信仰の確立があるのであります。

「大崎宗学」の目指したものが、戦前戦後もかわらず一貫して求められていることがわかる。その底には優陀那和上のアカデミックな理性的精神が流れていることが理解されよう。ただ、宗祖への「恋慕渇仰」を信心の核とする室住一妙の「純粋宗学」にとっては不満であったにちがいない。室住の容赦のない優陀那宗学批判は、すでに他の論文でふれているので、ここで詳述はしないが、優陀那的姿勢、それは充治園教学―大崎宗学(清水・反清水両者共に)が継承してきたものだが、それこそが時代迎合の憶想街学を生みだし、純粋宗門を堕落させる元凶であると信じていた節がある。戦前もそうであったが戦後もこの両者の間には対話が成り立たなかった。少なくとも室住生前中(昭和58年寂)は、両者歩みよりがなかったと思う。

高木豊教授が指摘しているように、室住宗学の特徴は「独白」にある。創価学会との「小樽問答」(昭和30年3月11日)以降、宗門は室住を忌避し、もともと狽介な性格であった彼はますます孤立していった。昭和45年9月に起きた身延山宗祖像お首盗難事件は、室住と宗門の間の隔絶を決定的にした(室住一妙の遺稿集『純粋宗学を求めて』の中のお首事件に関する記述は編集者の政治的配慮からすべて抹消削除されている)。理想の純粋宗門を夢みていた室住は、孤絶した山中で独白せざるを得ないのである。純粋宗学は愚直とも思える作業で、室住の胸奥の中からつむがれていった。「仙人の独り言」と、俗界では椰楡をこめて噂をしていたのであるが。確かに仙人の独白のごとく、室住の文章は散文から偶頒へと時とともに飛躍し、晩年は日蓮聖人讃仰の詩歌に落着してしまった。独白は他者にとっては一方的であって接点がない。大崎宗学は身延のこの偏屈な行者を敬して遠ざけた。なにしろ望月歓厚学長の創造宗学を決して認めようとしなかったからである。

宗祖に随順すべき我々末代凡愚というかぎり、それらの云為思索も新しいとか創造とかいえるときこそ、果して正統かどうか、異端邪説かどうかの批判は当然出てくる。さらに批判の批判、再批判、第三批判等々。結末のつかない水かけ論で終ってはならない、とせば最後絶対の教権的基準はどこに求めるのか。そのときこそ、「宗祖御自身の教学」の純粋さがものをいうのではないでしょうか。教権自体は永遠に普遍にはたらくものとして、それを求めていく帰郷過程が、「宗祖そのものへの宗学」であろうと信ずる。これまでの宗学は創造的であった。その事実の上に成立つ学は創造宗学といわねばならぬという論だというならば、これからの宗学は純粋的でなくてはならぬ。この要請の下に成立すべき学は純粋宗学であらねばならぬ。

この対立は茂田井教亨教授が大崎宗学の第一人者になるまで続いたのである。日輝の充治園教学を修正改革して、時代に合せて発展させた新充治園学派にとって、大石寺の教学よりも、国柱会系の在家居士教学よりも、色読実践派の教学よりも、この室住一妙師の純粋宗学の方が数倍も重くかつ厳しい存在であったと思う。少なくとも室住先生のもとで始めて「宗学」を学んだ筆者はそう確信している。そして、それを誰よりも実感していたのは、室住先生と十代の時から机を並べて宗学を研讃していた、宿命のライバル茂田井先生であったろう。茂田井教亨という「大崎宗学」の最後の宗学者によって、充治園教学と純粋宗学は対話を始めた。日蓮宗にとってそれがどういう意味をもつのか、ここ10年で答えがでるはずである。

 

3       日蓮宗学の現代

 

以下は、茂田井教亨の、同級生室住一妙をしのぶ回想録の一節である。

大正9年の春頃から下谷蓮城寺で開かれていた毎水曜日午後6時からの清水龍山先生の「開目抄講義」(信行会)には毎回出席して、宗学用語の片言を覚えた私には、中学2年の宗乗の授業は少々物足りなかった。校庭の隅で室住師と『開目抄』に出る"平等意趣"について語合ったことを覚えている。それから同師も蓮城寺へ通い、清水先生会下の一人になった。日蓮宗大学中等部から、昇格した立正大学の予科に入り、さらに学部を選んで進むとき、私は、あれほど憧れていた宗学に懐焉を覚え、国文科に行ってしまったのである。(中略)室住師は毎日のように私を教室に残し、文学なぞ何時でも出来るではないか、宗学へ戻れと意見し、忠告された。鉛色に曇った夕空を硝子戸越に見ながら聞いていた時の辛い思いは一生忘れられない。「俺はお前の死んだ親父に代って言っているのだぞ」といったあの一言は、どんなに私の胸を打ったことだったか!

清水龍山師も頑固だったが、門下の室住一妙と茂田井教亨も輪をかけたように頑固だった。室住が恩師清水・望月を徹底して批判していた頃、茂田井も大崎宗学から離れ、文学・哲学の道を歩んでいた。二人とも成長するにつれ充治園の清水の宗学に納得できなくなったのである。後年の彼らの充治園教学評から要約すれば、室住は日輝の「立正安国論無用論」に宗祖の教学との違いを見出し、茂田井は、優陀那宗学の中心「観心本尊」の解釈に、「台学寄りの宗学の誹は免れないであろう。清水龍山の宗学は、まさにその轍を踏襲したものである」と幻滅したのである。しかし、その後の二人の人生は対象的であった。宗学一筋に脇目もふらず宗祖の真実を求めた室住が、宗門教学の中枢からはずれ、外で理念と論理を求めた学問を積み重ねた茂田井が、龍山なきあと大崎に戻るや、日輝・龍山の思想に宗教性と宗学性の本質を再発見し、大崎宗学に新しい息吹きをふきこんで、日蓮宗教学の責任者の地位に就いてしまった。

宗教の本質は神学的組織の精緻さにあるのではなく、神を如何に見るかという主体的自覚にあるものであり、宗学の任務は、宗祖の見た神を宗祖によって自己が如何に見、それを如何に普遍化するかにあるからである。宗学上の論議には、論理的な二つの面が考えられる。自己の信仰的認識・宗教的体験の論理的自己表現が純粋宗学の本質であるとするなら、宗学的表現は、つねに論理的普遍化が要請されなければならない。しかし、それは哲学と異なり、論理的自己表現の自己は、宗祖における自己であり、自己における宗祖である、という非連続の連続的矛盾を含んだものである。すなわち、自己における自由は、恣意的自由というものではなく、宗祖における自由を自己において表現する自由という伝統性に立った自由である。この二面性、つまり、宗祖におけると、自己におけるとの同一体験における二面性の論理は、恐らく宗学の本質として規定されるものであろう。

ここに室住が嫌った個人の名を冠する宗学がまた誕生するのである。「茂田井宗学」は、清水宗学の足らざる部分、望月宗学の過ぎたる部分を是正し、両者を主体的に会通、それに茂田井的純粋宗学の思念を注ぎこみ、日蓮認識の日蓮的方法の論理で固めたもので、現代宗学にふさわしい実存的な体系と構造をもっている。

カール・バルトの神学や西田哲学、曽我量深の真宗学や上原専緑の日蓮認識論に影響を受けたことは確かであるが、その方向は、茂田井個人の宗学的姿勢によって決定されたものであることはまちがいない。しかし、「大崎宗学」の展開からふり返ってみると、優陀那宗学から清水宗学、清水宗学から望月宗学と、大崎宗学自身が自己実現のために要請した必然の結果として、望月宗学のあとに茂田井宗学が形成されたものと考えられる。

(寿量品の「我本行菩薩道」の解釈で天台の因寿説に対して果寿説を立てた問題で)本宗の学者で幕末に出た金沢の優陀那院日輝師は、当時としては極めて科学的態度と思える以上のような思考を廻らして、このような断案を下した師の勇気と見識は素晴しいものといわねばならない。しかし、このような断案を下した師の明晰な文章の中に、一つ欠けたものがあるように思われる。それは宗教感情の無視ということである。(中略)宗義学者の解釈には往往理路にのみ走って、宗教的感応、啓示という宗教本来の特質を忘れた面が出勝ちである。宗学は学問である。が、その学問は「如聞而修」の学問であることを忘れてはならない。

充治園教学も新充治園教学も、「宗教的感応、啓示という宗教本来の特質を忘れた面が」出がちであった。それを補おうとした茂田井宗学は、やはり「大崎宗学」の正系であったのである。もちろん室住は茂田井宗学も純粋宗学に直結しない不純な面をもつ個人宗学であると見て最後まで認めなかった。室住に言わせれば、茂田井の宗学論も「往往理路にのみ走って」宗教的感応を忘れている、ということであろう。ただし、室住の死後、室住の「純粋宗学」を世に紹介したのは、茂田井教亨であった。純粋宗学の最大の理解者であり、最強の批判者であったと思う。前述の室住一妙の「お首事件」の原稿を抹消したのは、日蓮宗勧学院院長茂田井教亨である。

「大崎宗学」は茂田井教亨先生が第一線を退いた時に終止符をうった。新充治園教学全盛期では考えられない『三大秘法抄』真撰説がとびかっている現在の大崎を、「大崎宗学」と惰性で呼ぶことはできない。立正の日蓮教学研究所の教授が全員、新設された勧学院の役職を得ているので、今後は日蓮宗の教学を勧学院宗学と呼ぶのが妥当であろう。その時、日蓮宗教団で近代の再出発以来正統の地位を占めてきた充治園教学が、その他の一つに、格下げになるのである。すでに実体はなくなっているのであろうが、名目上も「宗定」のレッテルをはがされる時がきた。教団を問い直す意味では良い機会かもしれない。教権の宗章をはずした時、雲散霧消してしまう程度の思想か、それとも鎖を解き放たれて新しくよみがえるのか。日蓮宗教団にとっても生死を分ける実験になると思う。

岡田氏の「憂宗上申書」には、再びあの『日蓮宗読本』を贈呈することで返答に代えよう。われわれの思考は日蓮聖人を光源として四方へ広がる遠心力の線上にある。日輝がひそかに仏教による全思想の総合統一を図っていたのにならい、小さなセクトにとどまらず、他との共存共生をすすめ、独善独断の教義をふりまわすことだけはするまい。

平成の殉教者へ、日輝の事理三千の論を送ろう。深遠な仏教の哲学がそこにある。仏界縁起の中の自己のいのちの

味が覚れるだろう。

顕正会の信徒に、石山伝承の戒壇本尊の真偽を問う。真の仏教は客観的な批評にも堪えられるはずである。他を諌暁するまえに自己を諌暁せよ。

みずからにも刃を向けなければならない。怠惰な日々を祖師に慨悔し、高慢不遜な言を先師に深謝する。

この拙稿はあくまでも私議私考、非礼をお詫びし、大方の御教叱を願いたい。