城野 宏「証言」

― 「三光作戦」証言の信頼性 ―


 中国抑留者を大別すると、ソ連から中国に引き渡された組(撫順組と呼ぶことがあります)と、戦後、閻 錫山(えんしゃくざん)の要請によって残留し、共産軍と戦ったものの破れて捕虜となった組(太原組)とがあったことは既述したとおりです。
 城野 宏(じょうの ひろし) は「太原組」で、起訴された45人の1人でした。ですから、今回「自筆供述書」が公式サイトで公表されました。

 日本残留軍というのは山西省省都・太原(たいげん)に司令部を置いた第1軍(司令官・澄田中将、兵力5万9000)の一部(1万程度)ですが、残留が命令であったのか、あるいは志願であったのか、また澄田中将ら上層部の不明朗な動きなど問題は少なくありません。この日本軍の残留工作に城野が深くかかわったことは間違いないところです。

 この問題は、恩給問題などともからみ、1956(昭和31)年12月3日に国会でも取り上げられました。今回のテーマと離れますので深追いは避けますが、残留軍の降伏とともに、残留軍を指揮した今村 方策大佐(独立混成第3旅団高級参謀、今村 均大将の実弟)の自決があったことだけを書き加えておきます。


1  「最後の戦犯」


 城野は東京帝大法学部を卒業したあと兵役につき、中国の山西省を主な任地としました。1985(昭和60)年12月に亡くなりましたが、朝日、読売、毎日など多くの新聞がその死を報じました。

 読売新聞の訃報欄は簡潔に戦前の経歴を書いていますので、紹介します。
 死亡時の肩書きを「城野経済研究所所長」としてあり、

〈戦前、中国国民政府の政治顧問補佐官を務め、戦後も、
山西省の残留日本軍部隊の副司令官として国府軍とともに、人民解放軍と戦った。
中華人民共和国特別軍事法廷で、禁固18年の判決を受けたが、
刑期半ばの39年、釈放され、帰国した。当時、「最後の戦犯」 と呼ばれた。
著書に「中国学原理」「謀略の人間学」などがある 〉


 と記述し、また朝日新聞は肩書きを財団法人スポーツ会館会長、日本アラブ協会副会長としています。

 左画像(1964年4月8日付け、朝日新聞)は城野宏(中央)、斉藤美夫、富永順一郎の3人の帰国(香港経由)を報道したものですが、空港ロビーで3人は、「撫順の収容所にはわれわれが出たあとは日本人は1人もおらず、あとは中共の国内犯が服役しているだけだ。正確なデータが知らされたわけではないが、戦犯としてはわれわれが最後だったと思う」と語っています。
 厳密にいえば、3人が最後ではないのですが、それはまたの機会にしたいと思います。

 城野宏が帰国後に各方面で活躍したのは間違いはなく、だから葬儀に各界の著名人を含む1000人以上が参列したのでしょう。
 ここで問題にするのは、あくまで日本軍の残虐行為についての「証言」ですから、戦後の業績がどうの、活躍ぶりがどうのということと、基本的に関係ありません。
 まれにですが、抗議がきますのでこの点を明確にしておきます。

2 城野証言の影響


 帰国後、3年足らずで出した『山西独立戦記』(左画像は改訂版『祖国復興に戦った男たち』、オリジン書房、1978年)は好評だったようで、陸士出身の作家・村上兵衛(故人)が絶賛したとのことです。
 「著書37冊、情勢判断の論文200」の目録が手元にあるのですが、これを見るかぎり、戦記物はこの1冊だけだったようです。そして、この目録に載っていない「証言録」こそ、ここで問題とするものなのです。

 『日本人は中国でなにをしたか』(潮出版社)が1972(昭和47)年に発行されました。
 この本は季刊雑誌「日本の将来」第2号(潮出版社、1971年9月)に掲載された「総特集 軍国主義への国家構造」という特集のなかにある「日本人と三光作戦」というタイトルのレポートを、加筆の上で単行本にしたものです。その内容はといえば、城野宏の「証言」でほぼ占められているのです。

 著者の「平岡正明+特別取材班」は次のように書きます。評論家の呉 智英は、平岡を「新左翼3馬鹿」の一人と形容しました。

〈『潮』7月号、“特集 大陸中国での日本人の犯罪”によって、
われわれは三光の具体的側面について、さらに多くをつけくわえることができた。
まだ足りず、さらに多くの証言が、日本人の骨にしみこむまで集められねばならないが、
ひとまず、この段階でわれわれは三光の軍略的な全体像をつかむ仕事にとりくんだ。
この方向での研究をわわれわれは多くを城野 宏(山西野戦軍副司令官)に負っている。〉


 城野証言はこのような文脈、つまり「三 光 作 戦」の「軍略的全体像」の証言者として登場するのです。
 なにより、山西野戦軍副司令官という日本軍の上層部と思える肩書き、それに東京帝大卒業という経歴などから、読者は彼の「証言」を信じたことでしょう。

 潮出版社が創価学会系の出版社であることは周知の事実です。月刊誌「潮」も、上記にある「大陸中国での日本人の犯罪」など特別企画を連発していました。編集長は池田 克也
 「潮」誌上での日本軍告発が評価された結果かはわかりませんが、出世して国会議員になったのは事実です。ご記憶にあるでしょう、リクルート事件で有罪が確定し、公明党を除名となった元衆議院議員です。

 1971年、72年という年にご注目ください。
 朝日新聞の「中国の旅」連載と同時期、また「天皇の軍隊」が月刊誌「現代の眼」に連載された時期とも一致します。
 この頃は、日中国交回復が取りざたされ、創価学会の動きが活発であったことは、知る人ぞ知るでした。
 つまり、日本軍の悪逆ぶりが、これらのメディアによって一気に国民の目の前にさらけ出されたのです。そして、城野証言によって、600万?とも言われた創価学会員の歴史イメージに影響をあたえたのは間違いなく、また現在の公明党の歴史認識に少なからずかかわっていたのだと私は考えています。

3  「三光作戦」証言・・晋西北作戦


 以下、城野が語る日本軍の残虐行為を中心に、信頼性がどの程度のものか検証いたします。

(1) 儘 滅 作 戦
 まず、大きな「証言」から紹介します。
 1940(昭和15)年、北京の北支那方面軍司令部で兵団長会議が開かれ、第1軍司令官・飯塚中将(篠塚中将の誤り)が中心になって「晋西北作戦」が下されたといいます。
 この作戦では、大前提として 燼滅作戦を実施すとなっていて、末尾に注意事項として次のように書いてあったというのです。原文通りの引用です。

〈 @ 敵地区に侵入せば、食料すべて輸送するか焼却し、敵地区に残さざること。
 A 家屋は破壊又は焼却すべし。
 B (原文はおぼえていませんが)敵地区に人を残すな、
敵と協力するおそれのある人間は治安地区に居住させる等の手段を講じて、
その場に存在させないように、というイミのことが書かれてありました。〉


 そして、この作戦命令にもとづいて、独混3旅(独立混成第3旅団)を中心に山西省一帯で「燼滅作戦」が行われたというのです。その実態はといえば、次の通りです。
 なお、「三光作戦=燼滅作戦」という論法は「中国の旅」、つまり本多勝一説で、その影響は今日まで及びます。

〈男はみつけしだい殺す。命令には女は殺せとはかいてないが、これは、わざわざかくまでもないというこだけのことで、
部落をこわし、男を殺してしまえば、女、子ども、老人が残るわけです。
しかし、敵地を無人化するのが目的だから、どこかへつれていくのがたてまえなんだが、彼女らを養う食料もあるわけじゃない。
 慰みものに使ったあとは、殺してしまうのが普通でした。
こうして、命令というものは、うけた者によって、既定事実がつくられ、どんどんエスカレートしていくわけです。
しまいにはこんな論理がまかりとおっていました。
 “ 女は子どもをつくる。子どもは将来抗日分子になるであろう。殺すべし。
子どもは成長したらこれまた八路になる。殺すべし”とね〉


 多少、大げさな点を割り引いても、大筋で事実なら日本軍に弁解の余地はなかろうと思います。もっとも、「女は子どもをつくる。・・殺すべし」という理屈ですが、ほかでも読んだことがあります。ですが、いずれも中国抑留者の話しでした。
 城野証言、実は根本的なところからして変なのです。

(2) 最終階級は中尉
 まず、城野は軍レベルの作戦命令 を見てなければこのような証言はできませんので、相当に地位の高い軍人であったと思うのがあたりまえでしょう。現に、「山西野戦軍副司令官」 という肩書きをみずから使っているのですし。
 ですが、城野の終戦時の階級は陸 軍 中 尉なのです。しかも、陸軍士官学校出身の中尉ではなく、幹部候補生から将校となったのです。

 細かいことは省きますが、初年兵の第1期教育終了後、幹部候補生の選抜試験を受け、合格者は陸軍予備士官学校で約10ヶ月間の教育を受けます。そこで見習い士官となり、ほぼ半年後に少尉に任官、と同時に予備役に編入されます。
 ただ、戦時中は即日、召集という形をとっていましたので、引きつづき在隊したのです。

 歩兵中尉といえば下級将校の部類に入り、200人ほどを率いる中隊長がせいぜいですし、幹部候補生の中尉ですから、昇進も大尉どまりが相場と決まっていました。ごくまれに少佐まで進級という例もありますが。
 となると、軍レベルの作戦命令を見るなど、まずあり得ません。北京の兵団長会議をうんぬんできるような地位ではもちろんありません。
 では、「山西野戦軍副司令官」 という肩書きは何なのでしょうか。

 この肩書きは日本軍のものではありません。上に記したように、終戦後、いわゆる「山西モンロー主義」を唱える国民政府系の閻錫山と第1軍との間で残留の取り決めができました。このとき、閻錫山の出した条件の中に、元日本兵は「3階級特進」させるという項目がありました。
 具体的には、兵は一律に中国側の准尉(少尉の下)に、伍長は少尉、軍曹は中尉、少尉・中尉は大尉、あるいは佐官・将官に昇進するといった具合です。俸給はといえば、准尉で1万1千元でした。

 自決した今村方策大佐は今村方策中将となりました。ですから、城野宏中尉が、城野 宏少将と報じられた例もあるのです。むろん、戦後のことで、日本軍の階級とは何の関係もありません。

(3) 残留特務団
 第1軍の残留のために「残留特務団」という名の組織(後に名称変更あり)が作られますが、1947(昭和22)年7月時点で、今村 方策・司令、岩田 清一・副司令、参謀長・相楽 圭二らと並んで、「司令部付兼政治部将校」という肩書きで城野がでてくるのです。

 話が前後しますが、城野は後に特務機関に移り、そこで閻錫山の軍事補佐官として懐に深く入りこんだようです。そして、岩田清一少佐(第1軍参謀)とともに、残留の推進に強くかかわったのです。
 特務団の組織替えが何度かあり、1948(昭和23)年9月、今村 方策司令のもと、岩田 清一副司令の後をついで城野が副司令(副司令官は明白な誤り)になりますが、このときは残留軍は共産八路軍(はちろぐん、多少格好つけてパーロという人も)の戦いに壊滅状態になっていました(翌年4月、残留軍投降)。

 残留軍については、独混3旅の大隊長であった相楽 圭二が中心となって書き残した『終戦後の山西残留・元第一軍特務団実録』(画像)に詳しく記述されています。
 私が相楽圭二に連絡をとっったとき、氏は病床にありましたが、夫人から、あるいは戦友から話を聞き取ってあります。
 以上の通り、副司令官ではなく、副司令が正しく、さらに言えば、このときの残留軍の名称は「砲兵教導総隊」でした。
 したがって、かれの肩書き(中尉)から軍レベルの作戦命令等を知る機会があったなどとは考えられないのです。さらに、決定的な証拠があります。

(4)「兵団長会議」出席は不可能
 一応の調べが済んだ時点で、月刊誌「正論」(1996年12月号) に「三光作戦の教科書削除を要求する」という一文を書きました。
 すると、城野とは「50年来の親友で死ぬまで一緒だった」という原嶋 実から穏やかな言い回しながら抗議文がとどきました。そこには2人の略歴が次のように書いてありました。

 1938(昭和13)年12月、東京・目黒の輜重兵第1連隊留守隊に2人は入営、戦後も城野のもとで仕事をしたというのですから、城野をもっともよく知る1人だったことに間違いないでしょう。
 城野は英語、中国語がペラペラ、「軍事的知識も豊富、情報分析力も抜群」であったから、「北京における軍略会議にも第1軍の代表として(陸軍中尉の肩章で)出席、激論を交していた」というのです。
 ちなみに、原嶋は中国など外地勤務の経験はありませんので、城野から聞いた話なのでしょう。

 抗議文を読んでみて、城野証言を中心した上記の書籍『日本人は中国で何をしたか』、あるいは平岡論文「日本人の三光作戦」を読んでいないのでは、と思いました。なにしろ、同封された城野の出版記録37冊のなかに書いてありませんので。
 そこで、問題部分のコピーを同封し、「証言」をよく読んで欲しいと返事を書きました。すると、次の回答がとどきました。

〈半世紀前の歴史の真実は、いづれが正しいのか、部外者の私には分かりません。
というのは、城野氏から三光作戦なる言葉、一度も耳にしたことが無かったからです。〉

〈ご指摘の平岡正明氏著『日本人は中国で何をしたか』がありました。しかも、「城野宏様 平岡正明」と付表がついていました。
一気に読んでみましたが、なんと中身は城野証言だらけ・・・救いようなし。〉


 文中の・・・も原文です。
 おそらく、予想外の城野証言であったため、その戸惑いから「救いようなし」と書いたものと私は受けとめました。気を取り直したのか、その後も、インタビュー自体を疑う内容の手紙、城野の優秀さを強調した手紙がとどきました。
 ですが、書き送ってくれた城野の軍歴が、何より雄弁に城野証言を否定していたのです。

 軍歴の要点だけ書きますと、
1939(昭和14)年5月1日、甲種幹部候補生合格。10月26日 久留米予備士官学校入校。
1940(昭和15) 年7月1日、教育終了とともに見習士官となり目黒の原隊(輜重兵第1連隊)へ。
1940年10月15日、北支派遣転属となる。見習士官のまま赴任し、現地着後、11月15日、現地で少尉任官

 城野の北支出発時、見送ったときの写真を持っていることから、この軍歴は十分、信頼できると思います。
 なお、北支派遣先は調べたところ、第37師団輜重兵37連隊(山西省運城県)でした。
 となりますと、城野が1940年の兵団長会議に出席することは時間的に不可能ですし、まして、少尉になりたてのホヤホヤ、輜重連隊という職務から考えて、ある話ではないこと明白でしょう。

 なお、1941年1月12、13日に兵団長会議が開かれたという記録があります。ですから、1940年末の兵団長会議開催はまず、なかったと思いますので、この点からも城野が会議にでたり、作戦命令を見る機会はまったくなかったと結論づけてよいはずです。

 付 記 2014年7月、中国から、城野を含む45人の「自筆供述書」がネット上で公開されましたので、詳しい軍歴は判明しました。
 

4 “お馴染み”の残虐証言


 41師団、59師団(強制連行)など、城野証言は多方面にわたりますが、独混3旅の残虐行為をひとつだけ紹介します。というのも、上に記した兵団長会議で決まった晋西北作戦にもとづいて行われた一例として証言されているからです。
 少し興味をお持ちの方なら、どこかで見かけたお馴染みの「証言」といってよいでしょうか。

 城野は言います。独混3旅のある部隊(部隊名がありません)が「山西省楼煩鎮というところでひどいことをしましたよ」と、ナマナマしくその残虐ぶりを再現します。

 〈ある民家にふみこんだら、妊娠中の若妻がいた。彼女を裸にして中庭でイスに縛りつけた。(略)
 見ると腹の中で子どもがうごめいているのがみえる。”あっうごくぞ、うごくぞ” というわけですな。
”好奇心” にかられた1人が、女の陰部にとうがらしをつっこんだ。女は痛さに泣きさけぶ。
それにつれて腹の中の子どもも動く。ある下士官が”腹のなかでどうなっているかみよう”とばかりに、
銃剣を陰部にさしこんで、下から徐々に裂いていったんですな。
ぴくぴく動く胎児をとり出して、しばらく観察して、”あっ汚い”とばかりに庭の石にたたきつけて殺してしまったんです。〉


 この光景、城野が実際に目にした上の証言なのでしょうか。これに似た話、抑留者の「手記」にもでてきます(「胎児 妊婦の腹を裂く」、『新編 三 光 』所収)
 独混3旅は山西省の北部・じゅん県(じゅんは、淳のサンズイを山に)に司令部をおきました。城野は37師団の輜重連隊所属でしたから、山西省も南部も南部、運城県が居場所ですので、独混3旅の出来事を目撃する機会があったとはとても思えません。
 といいますのも、城野のいる37師団と独混3旅の間には、南から順に、41師団、独混16旅、独混9旅が配置されていたからです。
 独混3旅も自動車部隊を持ち、輜重能力がありますから、南の端の37師団輜重連隊のお世話になることは、地理的条件(山また山)からありそうにないのです。それに、肝心の晋西北作戦が存在したのか、よくわかりません。
 もちろん、『北支の治安戦』(防衛庁防衛研究所戦史部編)なども見ましたし、41師団の主要作戦すべてと他師団の作戦も調べましたがわかりませんでした。

・ 独混3旅の反論
 独混3旅の戦友会(福島)に出席して話を聞きましたし、ほかのこと(毒ガス問題)もあって、独混3旅の将兵とは多くの知り合いがありました。ですから、相当程度のことは聞きとったつもりです。
 その中から、1,2を紹介して、この項を終わりにいたします。

 独混3旅の編成時(1938年3月)から同旅団にあって、後に同旅団の第8大隊第1中隊長を経て、1941年後半、第1軍司令部に勤務した沢田 重夫大尉 は、
 「共産軍は部落を要塞がわりに使って攻撃してくるので、そのような村を壊したり焼いたりしたことはあった。戦闘中、八路軍と村民の区別がつかないので、2、3人巻き添えになったことはあった。
 しかし、女、子どもを殺すなどとんでもない。独混3旅全体でもそんなことはなかったはずだ」と断じます。

 調べたところ、妊婦の腹を裂いたという「楼 煩 鎮}(ろうはんちん)という村は、第9大隊第1中隊の警備地区内にあったことがわかりました。
 100戸に満たないごく普通の村落だったといいます。
 1939(昭和14)年4月から41年11月まで、第9大隊第1中隊に所属した鈴木 基也 は、「当時は(楼煩鎮は)楼煩塞と呼ばれていたと思います。この分遣隊に僅かの期間配置されていましたが、残忍な行為があったことはありません。関知しておりません」と答えています。
 また、1940(昭和15)年12月から終戦まで同中隊にいた折笠 富士雄 は、同村は第1中隊の宣撫地区であったが、
 「こんな事、聞いた事も見た事もない」「宣撫地区に残忍な行為ができるはずがないと思う」「城野氏なんて名前も聞いたことがありません」
 と書き送ってくれました。

 宣撫地区で残虐なことをすれば、村民が八路側に回り、日本軍にとって益するものは何もないからというわけです。
 もう証明はいいでしょう。私は城野の大物意識、自己顕示欲が何でも知っているかのように、ごく気軽に話してしまったのだと思います。おそらく、まずかったとでも思ったのでしょう。だから「37冊の目録」に加えなかったのだと思っています。
 それに、こんなひどい日本軍(第1軍)なら、どうして戦後に閻錫山と組んで、山西省の資源を確保し、日本の再興を計るなどと城野は考えたというのでしょうか(前記、『山西独立戦記』)。
 それともこの話にもウソが混じっていたのでしょうか。

⇒ まえがきにもどる  ⇒ 検証目次 ⇒ 総目次