731部隊「コレラ作戦」

― 犠牲者2〜20万人・阿鼻叫喚の生き地獄 ―


まず、731部隊がらみの「コレラ作戦」 からとりあげましょう。

1 三者揃い踏みの「コレラ事件」


 この事件に関する証言は、手記集『三 光』、元朝日新聞記者・本多 勝一と元時事通信記者・長沼 節夫の共著『天皇の軍隊』(朝日文庫)、それに抑留者10余人の「供述書」のいずれにも取り上げられています。
 つまり、「手記」「供述書」「戦後証言」のすべてに記録されていて、「3者揃い踏み」の大量殺害事件というわけです。
 ですが、この事件は「まったくの作り話」というのが調査から得た私の結論で、月刊誌「正論」ほかに書き、単行本にも収めてあります。

(1) 富永中帰連会長の反論
 ところが、富永 正三・中帰連会長は同誌に寄せた反論で、次のように断じます。

〈これは先にも述べた通り、「戦場で犯した犯罪行為は口が裂けても話さない」の鉄則通り、
千葉氏を中心に「口裏を合わせ」てウソの証言をしているのである。
戦場経験のない田辺氏にはそれが分からない、ということである。〉


 この事件が私が言うように「作り話」となれば、中帰連として黙っているわけにいかなかったでしょう。なにせ、「すべてが事実」と声高に主張する「手記」も「供述書」も「戦後証言」も、その信頼性が崩れてしまうからです。
 戦場で犯罪を犯した兵は、口が裂けても話さないのが「鉄 則」だと富永会長はいうのですが、もとより事実であるはずがありません。

 仮にこの鉄則が事実だとしたらおかしなことになってしまいます。事件当事者から信頼すべき「証言者」は一人として存在できないことになってしまうからです。
 第一、話さないはずの「犯罪行為」を抑留者が講演などで話していることだって説明がつかないでしょう。もっとも彼らは「撫順の奇跡」だというのでしょうが。
 まあ、こんな議論をいくら重ねても始まりませんので、以下の検証をご覧ください(文中の「千葉氏」は後出)。

(2) 第59師団について
 250余名という最大の抑留者を出した59師団について、簡単に触れておくことにします。
 59師団は1942(昭和17)年4月、独立混成第10旅団(略称、独混10旅=どっこん10りょ)を基幹に山東省・斉南(さいなん)で編成され、第12軍に帰属しました。
 師団は2つの旅団、8個の独立歩兵大隊を基幹に編成され、ほかに通信隊、輜重隊などがありました。8個の独歩大隊のうち、第41、42、43、44の4個大隊をもって第53旅団を、第45、109、110、111の4個大隊をもって第54旅団を編成していました。

 師団は終戦直前、北朝鮮の「かん興」に転進し、ここで終戦を迎えました。ほとんどがシベリアで強制労働を強いられ、藤田 茂師団長(中将)と2人の旅団長(少将)を含む250名が戦犯として中国に移送されたのでした。
 藤田師団長は帰国後、中帰連の初代会長となり、日本軍糾弾の先頭に立ちました。

 下表は「コレラ作戦」の当事者とされた独歩44大隊(第53旅団)の職制です。

独歩44大隊の職制

大 隊 長   広瀬 利善中佐
第1中隊長 斉田正人中尉  第2中隊長 蓮尾又一中尉
第3 〃  福田武志中尉  第4 〃  川原公雄中尉
第5 〃 中村 隆次中尉  機関銃中隊長 久保川助作中尉
機関銃小隊長 小島 隆男少尉 歩兵砲 〃 中野 登中尉


 なお、富永反論にでてきた「千葉氏」は調査に協力いただいた第44大隊の中隊長・千葉 信一中尉で、44大隊戦友会の会長でした。

 千葉信一はこの「コレラ事件」当時、別部隊に所属していましたが、小島隆男中尉(機関銃中隊中隊長)が証言した「8000人強制連行」当時は、小島中尉と同じ44大隊にあって第4中隊長だったのです。
 「濡れ衣は自分たちで晴らさなければ」という信念から、同部隊にかけられた複数の出来事の調査に積極的に協力してくれたのです。この章の ⇒ 8000人強制連行を参照ください。

(3) かりにの話ですが
 かりにの話ですが、一人の男がある家の住人を殺害した容疑で捕まったとします。たくさんの目撃者が現れたため、警察は男の犯行と断定しました。
 ある人はその男が家に入るところを目撃したと証言し、別の一人は血のついた刃物を手にしたまま、その家から出てくるのを見たと証言します。また、凶器と思われる刃物を買ったのは間違いなくその男だと金物屋の主人が名乗りでました。
 そればかりか、逮捕された本人が自分の犯行だと自供までしました。
 ところが後日、この男にはアリバイがあって、しかも検死の結果、病気を苦にした自殺死だったことがわかりました。

 すると、どうなるのでしょう。目撃者が偶然にも同じように、男を見間違えたのでしょうか。ですが、それではその男が自供したことの説明がつきません。
 となると、男を見たという証言者と犯行を認めた男は、なにか共通の利益のために「ウソをついた」 、あるいは、他の何者かの意思のもとに、「全員が虚偽の証言を強要された、あるいは誘導された」と私が考えても、多くの人は「もっともだ」と認めてくれるものと思います。

 以下の検証例はこの例え話にとても似ているのです。
 しかも、10余人が一致して「私も犯行に加わった」、あるいは「犯行を目撃した」などと「事件」を認めた証言が、実はウソだったと証明できる唯一の例と思います。これが「グループ認罪」という手法の結果と考えられる点で、非常に重要なものと思います。


 もう一つ、つけ加えておきます。
 2000(平成12)年12月、松井 やより・元朝日新聞記者を代表とするNGO「戦争と女性への暴力 日本ネットワーク」(略称、バウネット・ジャパン)の主催で 、日本軍性奴隷制を裁く「女性国際戦犯法廷」と称する裁判が東京の九段会館でが行われました。この模擬裁判がとんだ茶番であったことは明らかになっています。

 この異常な法廷の模様をNHKは、「問われる戦時性暴力」で好意的に取り上げたため、物議をかもすことになりました。この番組に中国戦犯だった2人の兵士が加害者証言として登場する予定で、すでに収録が済んでいました。
 ところが、これを見たNHK教養部長が「違和感がある」と難色を示したため、最終段階でカットされ放送されなかったのですが、番組スタッフはギリギリまで放送するように頑張ったと聞いています。
 2人の証言者の一人が、このコレラ事件の当事者の一人である金子 安次上等兵でした。

2 コレラ菌を撒いて運河を決壊


 山東省臨清県の県都・臨清(りんせい)には第59師団隷下の独立歩兵第44大隊(以下、独歩44大隊と略記)が駐留していました。
 1943(昭和18)年9月のことです。一帯は連日のように雨が降りつづきます。
 市の西側を「衛河」(えいが)と呼ぶ幅数10メートルの運河が流れていました(左写真は第5中隊長室から中村中隊長が撮影)。
 この運河の東側は日本軍の支配がおよぶ地域、逆に西側は共産八路軍の勢力下にあり、日本軍にとって頭の痛い地域でした。そこに大雨のためあふれるばかりに河が増水します。

 絶好の機会とばかりに日本軍はこの河に「コレラ菌」を流し、ほぼ時を同じくして現地人の哀願を尻目に堤防を決壊させてしまいます。この洪水のために一帯は阿鼻叫喚の生き地獄になったといいます。日本軍は用意周到、堤防決壊に先立って付近一帯にコレラ菌を撒いておきました。
 狙いどおりにコレラが流行すると、日本軍は部隊を動員、「コレラ作戦」を開始します。村に行ってはコレラ患者を追い立て、まだコレラが発生していない村に患者を追い込む作戦です。そうすればコレラが蔓延し、一帯の農民を根こそぎ絶やせるからというわけです。

 「運河決壊作戦」と「コレラ作戦」は狙い通りに成功をおさめ、「供述書」によれば、「2万人」「20万人」ともいう犠牲者を出す一大惨事となったのでした。

3 「事件」の証言者たち


 上述したように、この「出来事」を記したものはいくつかあります。

(1) 手記集『三 光』
 まず、『三 光』(1957年発行)ですが、難波 博少尉の手記「陰謀―衛河の決壊」がその一つです。
 59師団所属の第53旅団情報主任だったという難波 博少尉は、旅団長室において田坂旅団長から

〈この衛河の増水を利用して、八路地区に水を流し込んで、八路も農民も一挙にやっつければ・・、
徳県や津浦線は守れるし、一石二鳥と言うもんじゃよ。ハッハッハッ 〉


 と決壊場所を選定するようにいわれます。
 「なんと名案だろう」と思った難波少尉はその場所を選定すると、それを聞いた旅団長は 「よろしい!それで電報を打て」 との命令を下します。

 少尉は退庁すると飯も食わずに酒と女を求めて料亭に出かけた、とみずから「手記」に書いています。つづいて、どういうわけか難波少尉は決壊現場に居あわせ、次のシーンを目撃します。
 堤防を決壊しないようにと懇願する農民に、「どけ、邪魔だてするとみんな射ち殺すぞ」と「小島」は威嚇し、あるいは「手向かうと命がねーぞ」と兵隊は脅し、シャベルで殴るなどしてとうとう堤防を切ってしまう光景を。

(2) 『天皇の軍隊』
 『天皇の軍隊』(朝日文庫)にも記述があります。文庫本の220ページから始まる「第10章 18秋魯西作戦」がそうですので、お持ちの方はお読みになってください。
 こちらの方はコレラ菌を散布したのは731部隊であることを強く示唆しています。そして、ここに自ら堤防を決壊させた張本人、小島 隆男少尉 が登場し、次のように話します。

〈小島少尉は円匙(えんぴ、小型のシャベル)を持っている5、6人の部下にその堤防の土をえぐらせた。
堤防の規模や様子は、東京でいえば多摩川べりの土手あたりを思わせた、と小島氏は述べている。
堤防は上面の部分で約8メートル。このような堤防がそう易々と切れるだろうか。
 「それは非常に簡単で、5、6人がかりで10分ほどで終わってしまいました」 と小島氏はいう。〉


 この小島少尉は難波少尉の手記に現れる「小島」と同一人物ですから、堤防を切った本人と目撃者双方の証言がそろったことになります。
 小島少尉(終戦時は大尉)のこの事件に関する帰国後証言はこれにとどまりませんでした。いばらぎ県つくば市で行った講演で731部隊がかかわっていたと明確に証言しているのです。

 ハル・ゴールドが書いた『証言 731部隊の真相』(濱田 徹訳、廣広済堂出版、1997年)のなかに「皇軍大尉 小島隆男」としてその「証言」が収められています。
 ハル・ゴールドはニューヨーク生まれのアメリカ人で、東京オリンピックのときに来日、日本に興味を持ち、京都に長く住んでいるとのこと。小島証言を以下に抜粋します。

〈私たちは731部隊とも協力しました。・・
コレラ菌は対象地域に撒きました。まず、病気が発生したことを確認し、対象地域に入ります、
日本軍が侵入すると中国人たちは逃げて、新しい人たちにつぎつぎに感染させ、
われわれの計画通りに病気を蔓延させます。死者の死体や動けない人々が、あたりに横たわっていました。
夏になると蝿がたかり、ぞっとする光景でした。
私たちは2週間この作戦を続け、任務成果報告書に中国人およそ2万人がコレラで死亡したと記入しました。
兵員1200人がこの作戦に従事し、そのうち200人が保菌者になったことが確認され、
50人が発症し、5人が死亡しました。・・ 〉


 水色をつけた記述は、他の証言と照合のうえ、ちょっと考えればおかしいと気がつくはずです、

(3) 14人にのぼる「供述書」
 さらに、44大隊の将兵が中心にして14人という多数の抑留者が、この一連の日本軍の蛮行が事実であることを「供述書」の中で、明確に認めています。それに被害者だという中国人の証言もあります。
 以下、4人の「供述書」の一部をご覧ください。

@ 矢崎 賢三・見習い士官
 難波少尉は「44大隊の調査によると」とし、〈被災住民は70万人、死者は3万人、コレラ流行による死者などが2万2500人にのぼった〉と供述、他のある者はコレラ菌を撒いたと書き、ある者は堤防決壊に手を下したと供述しました。

 もっとも詳しい供述を残した一人、矢崎 賢三見習い士官(独歩44大隊歩兵砲中隊)から、一部を引用します。
 田坂旅団長の命により、広瀬大隊長は陰謀(コレラ菌を散布し堤防を破壊)にしたがって、

〈・・館陶に駐留する第2中隊長・蓮尾 又一には
臨清県尖家鎮付近の衛河北岸の堤防を決壊させるよう命じた。
同時に、9月中旬、臨清県臨清に駐屯する第5中隊と機関銃中隊の各1個小隊を派遣し、
総兵力約60人で臨清大橋に向けて出動した。
大隊長が自ら指揮をとり、第5中隊長・中村 隆次、機関銃中隊長・久保川助作と
小隊長・小島 隆男および4名の兵士に命じて、臨清大橋付近において
衛河北岸の堤防を幅50センチ、深さ50センチ、長さ5メートルにわたり円匙を使って切り崩させた。
洪水はここから堤防約150メートル押し流し、解放区に流れ込んだ。・・〉


 と実名を用いて供述をしています。
 つまり、中村中隊長が率いる歩兵1個小隊と久保川中隊長が率いる機関銃1個小隊が出動し、堤防決壊を実行したことになります。その結果、

20万人以上の中国人民と罪もない農民が
コレラ病菌によって殺害された

 と記し、死者20万人という膨大な犠牲者数を供述しました。

 幸いなことに、名指された蓮尾 又一・第2中隊長、中村 隆次・第5中隊長(上記写真の撮影者)が健在で、話を聞くことができましたので後述します。

A 菊池 近次・機関銃中隊
 〈1943年8月下旬、44大隊長広瀬利善中佐は本部将校以下10名、(第)5中隊長以下20名、機関銃中隊長以下20名を指揮して、八路軍と人民を殺害するため、衛河の増水期を利用して臨清県城付近、館陶県尖家鎮および南館陶付近の衛河を決壊させた。当時私は機関銃中隊の分隊員で、臨清県での衛河堤防破壊に参加した。
 このときの衛河堤防決壊では、約100万人と広大な地域が水害をこうむり、およそ2万の中国人が殺害された。 〉

B 金子 安次上等兵(機関銃中隊)

 〈1943年8月27日、臨清県焦家小庄において、44大隊長広瀬利中佐から、
衛河堤防を破壊し解放区を埋没させてコレラ細菌を散布せよ、との命令を受けた。
当時、重機関銃小隊長小島隆男少尉ら8名は破壊を行い、ほかの者は堤防を守っているかのように装っていた。
当時、私は重機関銃分隊上等兵で、その破壊活動に参加し、円匙で50センチ堤防を切り崩した
被害の状況については知らない。〉


 金子安次上等兵は中帰連の活動家の一人で、このほかにも強姦をはじめ多くの「加害証言」(著作あり)があります。

C 林 茂美衛生曹長(防疫給水班)
 〈59師団防疫給水班は1943年8月から9月にかけて、山東省館陶、南館陶、臨清などの地で一度、コレラ菌を散布したことがある。
 ・・衛河に散布してから川の堤防を決壊させ、その水を各地に流入させた。私はこの散布に参加した。細菌は私が44大隊軍医中尉・柿添 忍に渡し、人をやって散布した。・・〉

 4人の「供述書」を解説を加えずに見ていただきました。このほかに731部隊の出動を証言した菊池 義邦軍曹 (独歩111大隊機関銃中隊)もいます。

 金子安次上等兵は、上述したようにNHK の「問われる戦時性暴力」に、加害者証言として登場する予定でしたが、違和感のある証言のため、上層部の指示でカットされ、放送に至りませんでした。このカットされたと考えられる部分および他の金子証言がどのようなものかを知りたい方は、 ⇒ 他の金子安次証言 を参照なさってください。
 また、林 茂美衛生曹長は「従軍慰安婦」に関する討論「朝まで生テレビ」で、傑作な場面が紹介されていますので次項に紹介します。

4 日本側の反論


 調査には独歩44大隊戦友会の全面的な協力を得て行いました。
 この戦友会は上記、「8000人強制連行」の調査でも、千葉 信一会長 以下、多くの方の協力が得られました。なお、「8000人強制連行」の証言者・小島隆男中尉は、ここにでてくる小島少尉と同一人物です。
 まず、名指された2人の中隊長の「反論」を記します。

(1) 蓮尾 又一中隊長
 蓮尾又一第2中隊長は私の送った「供述書」など一連の資料を読んで、

〈小生の実名入りの「事実無根デタラメ記事」であることを、戦争生き残りの存命者の一人として証言したいと思う。
・・「館陶県館陶に駐留する第2中隊長・蓮尾又一には臨清県尖家鎮付近の衛河北岸の堤防を決壊させるよう命じた。」
とあるが、全く噴飯物で天地神明に誓って「ノウ」である。現存する本人(80歳)がいうのだから間違いない。
そのような話は聞いたことがない。命令を受けたことは絶対にない。一事が万事である。〉


 と真っ向から否定します。



― 1人おいて右から蓮尾中隊長、小川伍長、私 ―


また、村一帯にコレラ菌を撒いたという話についても、

〈 コレラ菌を散布する等と、とんでもない話で、
その中に多くの日本軍隊が駐留して居るので、
我が方に危険極まり無いことをする筈がない。〉

 と断じます。常識的に考えても至極、もっともだと思いますが。
 蓮尾中隊長のもとで、情報下士官をつとめた小川 皓三伍長(元日本べネズエラ協会理事長)は、「蓮尾又一氏の証言通り」と断言し、「館陶付近の決壊はなかった」と話しています。

(2) 中村 隆次中隊長
 また、中村 隆次・第5中隊長は、

〈 あの頃、連日の大雨で河川が増水し、
濁流は衛河の堤防をすずれんばかりに流れ行くので、 いち早く河川の堤防を巡視したところ、
警備隊より対岸の元中国県警が駐屯していた望楼の下付近より河水が漏れ、
危険を感じてその付近にあった船を持ってきて防ごうとしたが、濁流は岸を押し流してしまった。
堤を切り崩させた等、とんでもない嘘で笑止千万である。〉


 と証言します。
 つまり、抑留者証言と正反対に「堤防を決壊させたのではなく、決壊を防ごうとしたのだ」 というのです。
 また、林 茂美衛生曹長からコレラ菌を手渡されたという 柿添 忍軍医は病床にありましたが、夫人を通じて「コレラ菌を手渡されたことはない、コレラ菌を使う作戦は考えられない」との話をつたえてきています。

 私の会った44大隊戦友会のだれもが頭から否定していますが、抑留者の一人(新村隆一兵長・大隊本部)も「いくらなんでもそんなことはしませんよ」と笑いながら話してくれました。
 また、『天皇の軍隊』を読んで、「なんでそのような話をするのだ」 と小島隆男少尉に直接電話をした当時の部下、内田行男軍曹もいました。すると、「人にはいろいろあるから」との答えがもどり、意味がよくわからなかったと話しています。

5 作り話なのは明らか


(1) 両立不可能な証言
 この事件が事実かどうか、次のことだけで判断はくだせると思います。

〈 当時、私は重機関銃分隊上等兵で、その破壊活動に参加し、
円匙で50センチ堤防を切り崩した〉

 とした「供述書」を残した金子安次上等兵(前出)は、『天皇軍隊』(朝日文庫)のなかで、決壊を防ぐために自らも加わって出動したと次のように話しているからです。

 記述によれば、金子上等兵(本の中では兵長。上等兵が正しい?)は機関銃中隊、歩兵砲中隊各20人とともに、円匙だけかついで川の補強にでたというのです。
 望楼の周囲に掘った壕を補強するため、土をカマスに入れて土嚢(どのう)を作り、フンドシ一つで飯も食わずに作業をつづけます。
 3時間も経ったころ、堤防の上から菊池武雄少尉の「オーイ、荷物を持って橋の向こう側へ移れ」とどなる声を聞いて、隊員が木橋の上にさしかかったとき、「川が切れたぞお」という日本兵の声をききます。
 そして、「やっぱりカーブに当たるところがやられたんだなあ」と金子上等兵のわきで、だれかが言ったというのです。

 この話から、金子上等兵が堤防の決壊に加わっていないのは明らかですし、また日本兵が堤防を切るところも目撃していません。大体、堤防を切る陰謀があったのなら、また、コレラ菌を流す計画があったなら、補強作業に兵をだすわけがありません。
 つまり、中村隆次中隊長の証言どおり、日本軍は決壊を防ごうとしたと判断できるはずです。でなければ、「やられたんだなあ」という表現がでてくるわけがありません。
 金子は「供述書」の存在も、供述した内容も忘れていたために、本多勝一記者に「実体験」を話したと解釈するのが正解に違いないでしょう。
 ほかにもおかしな点はたくさん指摘できますが、ここまでで十分でしょう。

(2) なぜ14人が事件を認めたのか
 一つ、つけ加えておきます。なぜ、10人以上の人が一致して虚偽の「供述書」を残したのかという疑問についてです。
 戦犯管理所(監獄)に収容中、中国のいう「思想改造工作」 が長期間にわたって行われました。簡単にいえば「洗脳工作」です。この工作は段階を追って行われるのですが、「グループ認罪」という段階がありました。

 これは各人の「認 罪」が終わった後に行われるステップですが、おそらくここで「運河決壊とコレラ菌散布」が吹き込まれ、共通認識となって「供述書」に反映したものと思います。
 現に金子上等兵は、「この事件は中国側が言い出したものです」と私に宛てた抗議の手紙のなかでこう書いていますので。

5 蛇足ですが、お笑いの一席


 テレビ朝日系列で放送されている「朝まで生テレビ」に、面白い話があるとさきほど書きました。1997年2月1日放送では、「従軍慰安婦」が取りあげられました。
 出席者は秦 郁彦、西尾 幹二、藤岡 信勝、西岡 力(強制連行否定派)、吉見 義明、梶村 太一郎(強制連行肯定派) ら15人が出席しました。下写真の左端(または上)はその全景です。


 論争自体は何やらバトル風になって、まとまりのないものでした。
 途中、ベルリン在住のジャーナリスト・梶村 太一郎(写真4枚目)が、「自供した強姦集計表」 (左から2枚目)なるパネルを持ち出し、「強姦所」(慰安所のこと)で日本兵が自供したという強姦行為をとくとくと説明、糾弾しました。

 梶村の話によれば、「強姦集計表」は撫順で入手した某衛生准尉の「供述書」から集計したものだといい、中国人、朝鮮人慰安婦41名に対して、43回にわたる「強 姦 実 績」(右から2枚目)を日時、場所、方法、対象者、年齢、人数、回数と項目別に列挙したものだと説明します。

 某衛生准尉と名前が伏せられていましたが、秦 郁彦教授が後日、明らかにしたところによれば、某准尉というのは林 茂美衛生准尉のことでした。
 まぎれもなく、「運河決壊とコレラ菌散布」を供述した林茂美衛生曹長と同一人物でした。内容を不審に思った秦教授は林茂美元准尉に連絡をとったところ、

〈 病院に勤務していたので、向こうも困ったんでしょう。
お金を払っての慰安所通いを書かされたが、「強姦所」で強姦したと書け、と指導されました。
年齢を入れろと要求され、一々覚えていないと言ったのに書かされ、刑を覚悟したら無罪になった。〉


 と話したことを秦教授は書いています。まったくのお笑いです。
 この一例からも、「供述書」の信頼性は、きわめて怪しいものと考えて間違いないはずなのですが、朝日新聞、NHKをはじとするほとんどの報道機関で大手を振って歩き、中国戦犯の証言が日本軍糾弾の材料となって久しいのです。

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