朝日は何を、どう報じてきたか( その4 )

― 手のひら返した終戦以降 ―


 1945(昭和20)年8月15日、日本は降伏しました。どうひいき目に見ても、軍事的には完敗といってよいでしょう。
 私は東京の北の端(東北線の赤羽駅近く)で終戦を迎えました。終戦の年、大規模な爆撃に何度かあい、大人はもちろん、幼くして命を絶たれた人が少なくありませんでした。なかでも、爆弾の破片で大怪我をした同い年の城田君のことは、どうしているかとなにかにつけ思い出します。一生直らない傷を背負って、さぞつらい思いをしたことだろうと。
 未曾有の敗戦となれば、治安は悪化、混乱状態にあったかというと、少なくとも私の周囲ではそのようなことはなく、むしろ静寂だたように記憶します、大人が見れば、この静寂さの意味を説明できるのでしょうが。
 ヤミ屋が多く、またコソ泥の類はあったでしょうが、凶悪犯罪はほとんど起こらなかったように思います。問題は食料難にありました。都市部の、とくにツテを持たない一般庶民の食糧難といったらお話にならないほどで、飽食の今、説明してもピンとこないでしょうからやめにしておきます。
 一つだけ、書いておきます。日本の食糧自給率が30%台と低く、食糧安保上の問題としてしばしば話題になります。たしかに大問題です。ただ、自給率30%の意味するのは、痛みを分かち合って大部分の人が、30%程度の食料にありつけると思ったら大間違いです。
 おそらく10%の人は相変わらず飽食をつづけ、残る90%はほんの少し、ときにはまったく食料にありつくこともなく、ひもじい思いをすることを意味します。このことは嫌というほど目にしてきました。

 本題ですが、はしょって言えば、朝日にかぎらずわが方の大新聞といえば、満州事変以降(1931=昭和6年)は軍部に寄り添い、戦争を鼓舞しました。敗戦後の昭和20(1945〜)年代になると、今度は手の平を返すように占領軍に色目を使いました。また、1960年代の安保闘争以降はソ連、中国などの社会主義勢力にまるで正義が宿るかのごとく、進んでお先棒記事を書き連ねたのでした。そのうちから一つ、二つを紹介します。

     1    東 京 裁 判 ・・・ GHQに迎合

     (1)  今度は「浅薄な決意」で国民を煽る
   終戦翌年の1946(昭和21)年5月3日、東京裁判(極東国際軍事裁判)が東京市ヶ谷にある陸軍士官学校講堂において開廷されました。
 4月29日、東条 英機(とうじょう ひでき)・元首相以下28名が、「平和に対する罪」に抵触するA級戦犯として起訴されました。この日は昭和天皇の誕生日にあたっています。
 約2年半を経た1948(昭和23)年11月12日、東京法廷は25名全員を有罪とし(松岡 洋右ら2名は病死、大川 周明は発病のため判決ナシ)、東条元首相以下7名に絞首刑、16名に終身禁固刑などの判決を下しました。
 朝日新聞は判決に関し、どう報じたのでしょう。翌11月13日、「平和決意の世界的表現」と題した社説を以下のように掲げました。

〈 平和に対する罪 をたゞし、人道に対する罪 を論じて判決を宣することは、
平和と人道に対する強い責任の自覚をもつもののみがなしうることである。
この意味において極東国際軍事裁判という形式をとった東京法廷の最終意思は、
戦勝諸国の平和宣言を意味するものというべきである。東京法廷の意図と含蓄は、
実に、一個の国際裁判という内容を超えたひろがりと深さとをもつものといわなければならない。・・・
われわれは東京法廷を構成する戦勝諸国の平和に対する崇高至純の熱意に全幅の信頼をさゝげ、
定められた平和国家への大道を、安んじて直進せんとするものである。・・・ 〉
〈 この際銘記しておきたいことは、この裁判が、
被告らに指導された軍国主義的な過去の日本の完全な清算を要求すると同時に、
われわれ国民が未来に建設すべき日本の姿を明確に平和国家として規定するものだという点である。
しかもこの要求と規定は、今後決して再審の機会を与えられることなく、
いつまでも日本国民の行動を制約するものだということである。
そしてわれわれは進んでこの制約に服するものである 〉

 戦前も、そして戦後も、保身が身上とはいえ、屈託のない変わり身のはやさに感心します。この判決を「戦勝諸国の平和宣言を意味するもの」と位置づけ、戦勝諸国が〈 平和に対する崇高至純の熱意 〉 を持つ国家だと解釈し、それゆえに、日本は何も心配することなく、安んじて平和国家の道を直進しようと朝日は言います。
 一言でいえば、熱に浮かされたような内容、実に気色悪い社説です。昨日まで軍部に擦り寄り、さんざん戦争を煽った、それこそ「A級戦犯 」に値するくせして、今度は手の平を返したように無条件に戦勝国に擦り寄ります。
 こんな浅薄な論説を恥ずかしげもなく書けるのは、敵の回し者でもなければ偽善者だけにしかできないことでしょう。判決が、「平和と人道に対する強い責任の自覚をもつもののみがなしうること」 と持ちあげるに至ってはまったくアホかいなと思います。オベンチャラもここまでくると芸かもしれませんが。

   (2)  現実は社説と逆に進む
 1年も経ない1949年9月には、ソ連は原爆実験のうえで原爆保有を宣言しました。1年半後の1950年6月、ソ連を後ろだてに北朝鮮が南進、朝鮮戦争が始まります。韓国から援助の要請をうけたアメリカ軍が地上軍を送り、さらに北朝鮮を援助する共産中国が大量の兵力を投入するといった具合でした。
 ソ連、アメリカなど戦勝諸国が「平和に対する崇高至純の熱意」を持つなどと考えること自体、とんだお笑いぐさで、日本の目と鼻の先でドンパチが始まり、冷戦時代に突入していったのです。第一、「平和に対する崇高至純の熱意」を持つアメリカの広島・長崎への原爆投下とどう整合するというのでしょう。東京法廷の最中だって、ソ連とアメリカはつばぜり合いをしていたのです。
 製造業ならとうに倒産したでしょうに、こんな粗悪品を市場に出して結構、繁盛するのですから、メディアの世界とはしょせん「虚 業」なのでしょう。

     2    在日朝鮮人の帰還事業

 南北に分断された朝鮮半島をめぐる報道で、韓国の新聞記者が日本の新聞報道を、ユーモラスに次のように評したのだそうです。

 ワラ葺き屋根の農家があると、韓国(南)の場合は「貧困の象徴」と書き、
北朝鮮(北)の場合は「民族の伝統の象徴」と報じます。
また、南に高層ビルが並ぶと「見せかけの繁栄の裏にあえぐ庶民」というわけで、
その「あえぐ庶民」にスポットを当てて報道、
北に同様のビルが建てば「整然とした美しい街並み、自然と調和した未来都市」と讃えるのだというのです。


   (1)  目的にあったものだけを見る
 この指摘、かなり実態を言い当てていると思います。北朝鮮を進歩的国家と捉えては賛美し、逆に韓国を遅れた国として否定的に見る、朝日・毎日にかぎらず日本のほとんどの新聞がこのような2重基準のもとで報道してきたことは疑えない事実と思います。
 たしか、アメリカ人記者だったと記憶しますが、平壌(北朝鮮の首都)の街を歩くと、身体障害者の姿を見かけない、また食べ物の臭いがしない、これは不自然ではないかと報じたことがあります。どこの国の都市を歩いても、食べ物の臭い、障害者の姿はつきものなのでしょう。たしかに、テレビで見る平壌市民は若い層ばかりで、ツエを突いた老人も、車椅子に乗る老人も目にした記憶がありません。
 日本の新聞記者は平壌に行きながら、どこを見て報道をしているのかと、週刊誌などで面白半分に突つかれたことがありました。記者を職業にしている以上、当然気づいてよいことでしょうし、気づかないのならば、記者としてのセンスに疑問符をつけられて当然のことかもしれません。
 日本の多くのメディアが北朝鮮の内情をそれこそコテンパンに報じるようになったのは、金 正日自身が日本人拉致を認めた小泉訪朝以降のことだったでしょう。この傾向はNHKにはっきりでていて、それまでは拉致を北朝鮮の仕業と認めることを拒否し、したがって報道もお得意の「NHKスペシャル」 といった大型番組を組むことはなかったのです。そしてあたりさわりのない報道に終始したように思います。

   (2)  根底に流れる2重基準
 朝日、毎日にかぎらず日本の新聞が、同じような事象について、社会主義国に好意的に報じ、自由・資本主義国には批判的に報道する、つまり「2重基準」があったことは事実と思います。
 ソ連は平和勢力ゆえに所有する核兵器は「平和目的」であり、アメリカは戦争勢力ゆえにその核兵器は「戦争目的」と位置づけたのは左翼の論者たちでしたが、ここまで露骨に言わないまでも日本の新聞がソ連の核兵器(配備や威嚇)についてはあまり触れず、もっぱらアメリカの核兵器を批判していたのも一例と思います。
 ここには、社会主義(国)=善、資本主義(国)=悪 と考える 「社会主義幻想 」 が根底にあり、この幻想が判断の基準になっていたからでしょう。そういえば、「インテリは左翼であらねばならない」 と広言した朝日新聞記者がいたかと記憶します。
 社会主義幻想が顕著に現れた報道に、在日朝鮮人の北朝鮮への帰国事業がありました。

    (3)   「地上の楽園」と宣伝
 1959(昭和34)年に始まった在日朝鮮人の帰国事業は、日本と北朝鮮の赤十字社間で結ばれた「在日朝鮮人帰還協定」に基づくものでした。2年ほどの中断を経て1984(昭和59)年までつづきましたが、25年間の帰国者は、

日本人妻1800人、日本人の夫200人を含む 計9万3000人

 にのぼりました。もっとも9万3千人のうち7万5千人は最初の2年間に帰国しましたので、80%がこの2年に集中したわけです。
 金 日成( 金 正日の父親) 率いる北朝鮮は、朝鮮総連を通じて北は「地上の楽園」 などとさかんに宣伝しました。帰国者には高層アパートを用意し、各自は希望に沿う職場で働くことができ、また大学も無料で行けるといった良いことづくめの話でした。
 1959年頃の日本は、公団住宅に運よく入った入居者を 「 団 地 族 」 と称し、羨ましがられたことからも分かるように、住居問題は依然として深刻でしたが、衣食に関してはほぼ満たされた時代になっていました。
 12月14日、冬の新潟港を出た第1次船は朝鮮の清津に向かいました。乗船者の中にはすでに、「おかしい、話がちがう」 と感じた人も少なくなかったようです。
 というのも、乗務員の服装のみすぼらしさ、汚い船室、船中にただようトイレの悪臭などが、あまりに聞いていた話と違っていたからでした。
 清津港につくと一層、疑いが強まります。歓迎に出迎えた人たちの服装は貧困さを象徴するようなものだったからです。「子供は下半分が丸裸だった」 というような光景も見られたのです。ですから、「すぐに日本に返してくれ」と下船を拒む人が出たという話もうなづけます。
 下船を拒否した人は、「49号病院」という精神病患者を収容する病棟に入れられたとつたわっています。「49号病院」という名ばかりの病院は、収容者を2重の鉄格子の中に入れ動物以下の扱いしたことが、目撃者などの証言で明らかになっています。
 1960年初頭に帰国した朝鮮人が、早くも翌年の11月、北朝鮮に絶望して南に脱出した例もでています。

    (4)   見れども見えない報道人
 このような実態であったにもかかわらず、新聞報道は金日成賛美一色、「地上の楽園」 が事実であるがごとく、提灯(チョーチン)記事を書きつづけ、帰国事業を後押しする役目を果たしました。この時期に事実の一端でも報道されていれば、帰国希望者はきっと日本に踏みとどまったにちがいありません。そして一生を棒にふることもなかったはずです。
 第1次帰国船を取材するため 、一足先にホンコン・北京経由で朝鮮入りした日本の新聞(朝日、毎日、読売、サンケイ、共同通信の5社7人)はどう報じたのでしょうか。

「 ばく進する馬」 北朝鮮  よくはたらく人々  飛行場変じてアパート

 の見出しのもと、朝日新聞(1959・12・25日付)は以下のように報じました。

〈 ・・(爆撃にあった)首都平壌はすっかり新しく再建され、5階建て、6階建て、
長さ100メートルは楽にこすようなすばらしく大きい労働者用アパートが林立している。
300世帯くらいが1つのアパートに住むが、そういうアパートが何百とあってちょっと数え切れぬ。 〉

〈 日本に追いつく5ヵ年計画を千里の馬に乗せて
北朝鮮中がわき目もふらずに働いている。
こんなに働いてみんな不満はないかときくと、ある人はこういった。
「 冗談じゃない。働けば働くほど生活が目に見えてよくなる。
ボロボロの家から近代的アパートに移れた。家賃はタダみたいに安い。米もタダみたいだ。
目に見えて生活がよくなって行くのでうれしくてみんな働きたくなる 」 〉


 歯の浮くような記事を恥ずかしげもなく書いたのは、朝日の著名な記者・入江 徳郎 でした。入江(いりえ)は後にテレビ朝日のニュースキャスターになっています。
 他社の見出しを2、3拾って見ますと、
   〈 15万人の歓迎 不安も消えた“ 日本人妻 ” 〉 ・・・ 読売新聞
   〈 北朝鮮帰還 希望者増える一方 〉 ・・・ 朝日新聞
   〈 年々伸びる収穫 動乱の焼け跡からの出発 〉 ・・・ 毎日新聞

 といった手放しのものでした。これらを読んだ在日朝鮮人はわれ先にと帰国に走ったことでしょう。帰国時の所持金は4万円まで。日本に身寄りがなければ残りの資産は朝鮮総連に寄付させられましたから、この帰国事業で総連は莫大な資産を手に入れたはずです。
 そして5社7人の報道人は帰国後、『北朝鮮の記録 ― 訪朝記者団の報告』を著し、共同通信の記者は次のように書いたそうです。

 〈 「 5社7人がそろって朝鮮のことをほめるのはどういうわけだ 」
「 御馳走になって洗脳されたんじゃないのか」 「もうすこし悪口を書いた方が君のためだぞ 」。
われわれの書いたりしゃべったりしている朝鮮の報告によせられるこうした批判は、
そのまま読んだり聞いたりする側の偏見の裏がえしだといったらいいすぎだろうか。・・・
われわれの報告を信じがたいと思う人があるとすれば、それは日本の統治時代の朝鮮を頭にえがいて、
それをそのまま新しい朝鮮にあてはめて考えようとしているからではないだろうか。
偏見にとらわれた頭で現実をはかろうとすれば正確に反映できないのは明らかだ 」 〉


 報道人の社会主義国に対する強い思い入れが、いかに事実を見る目を曇らせているか、この例からもよくわかります。まさに「救いようナシ」 です。

 このほかにも、講和条約締結にあたってはソ連に擦り寄った例など、数多くありますが、ここで一旦、打ち切ることにしました。
   こうした「社会主義幻想」 を引きずり、朝日は中国の「ブンカク」(文化大革命) を賛美し、逆に日本をたたくために、裏づけ取材のない「中国の旅}連載へとつづくのです。

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