― 反日報道の原点「中国の旅」 ―
昭和前期(〜1945年8月)を中心とするわが祖国を、日本軍・民が犯したとされる残虐行為をとおして断罪し、いわれるところの「反日史観、自虐史観」 へと導きました。その最大の要因は、1971(昭和46)年8月から朝日新聞が連載した「中国の旅」 であったと断じて間違いないものと思います。
「中国の旅」という一新聞社の一連載(約40日間)をもって、ただちに反日史観、自虐史観が形成されたわけではもちろんありません。当時の風潮は中国の文化大革命にも影響を受けたのでしょう、「なんとなく左翼気分」も手伝って、大きな影響力を持たせる一因になったのだと思います。
「天下の朝日」が報じて大反響を巻き起こしたとなれば、一部を除くほとんどのメディアがバスに乗り遅れるなとばかりにさらなる日本軍民の悪行発掘に精を出したことでした。
また近現代史を専門とし、歴史学会をリードする左派系の大学教授がソレっとばかりに日本断罪で足並みをそろえます。日教組が牛耳る教育界も「平和教育」という大義名分のもと、教科書、授業をとおして、日本軍・民の残虐行為の生徒への叩き込みが加速しはじめました。
社会党(現・社民党)、共産党などの政党および政党人、法曹界に籍をおく人、作家や文化人、有識者からも、少なからぬ人たちが連載の影響を受け、進んで日本糾弾に走りました。こうなれば、日本断罪という流れは決定づけられます。あとは黙っていても反日史観、自虐史観は完成します。
ですが、日本断罪の原点であった残虐行為自体、中国をはじめ各地で聞き取ってきたもので、当然なされるべき検証はごく一部を除いて行われなかったのです。実に驚くべきことです。
先にも引用しましたが、藤岡 信勝・拓殖大学教授(新しい歴史教科書を作る会会長)は、高校生時代に読んだカッパブックスの『三光』(日本兵が中国で犯した残虐な行為を懺悔した14の記録を集めたもの)を例にとり、「第2次世界大戦はファシズム陣営対反ファシズム民主主義陣営の戦いであった、などという歴史の大枠の説明よりも、右のような具体的なナマナマしい証言が、はるかに深く歴史のイメージを規定している ことに、右の例から思い至るのである」( ⇒ 決定的一冊 )と記し、体験にもとづいた分析を加えています。
日本軍民の残虐行為が事実上、歴史イメージを規定し、反日史観、自虐史観を育てたというわけでしょう。
そりゃあそうでしょう。あんな目を背けたくなるような残忍な行為が、日本軍・民の手によって日常的に行われたとなれば、日本の行動にも理があったなどという言い分が説得力を持つわけがありません。ただ下を向き、昭和の歴史を全否定し、次いで国家の存在自体を否定的に捉えることになって何の不思議はないと私は思っています。
以下、朝日新聞が戦前、戦後をとおして、どのような報道姿勢をとってきたか、代表的な例で経過を見ておきたいと思います。
便宜上、「中国の旅」連載の1971(昭和46)年で区切り、これ以降を先に記し、戦前を含む「中国の旅」までを後に記すことにします。多少、記述に前後はありますけど。
戦前について一言記しておきます。“日中15年戦争”の出発点になった満州事変(1931=昭和6年)を契機に朝日の論調が劇的に変化したことです。事変以前の論調は軍縮を支持するなどリべラルなものでしたが、事変を境に軍部と歩調を合わせる方向へと大きく舵を切ったのでした。そして、1945(昭和20)年8月の敗戦まで、軍部ベッタリ報道、戦争推進報道にみがきがかかることはあっても、決して元に戻ることはなかったのです。
敗戦直後からGHQ(占領軍総司令部。所在地は東京・日比谷の第一生命ビル)によって行われた 「戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画」 (WGIP)について、すでに概要は記しました。「中国の旅」について記す前に、「南京大虐殺」 を例にとって振り返っておきましょう。
終戦4ヵ月後の12月8日から、GHQはこの宣伝計画にそって、「太平洋戦争史」 (全十回)の掲載を始めるよう新聞各紙に命じました。
もちろん、12月8日の初回は、日本人の誰もが知っていた日米開戦の発端、真珠湾攻撃の日に合わせたものでした。
この連載は後に単行本(写真右)となりますが、学校教材として使用が命じられたため、10万部が売れたとのことです。
連載の初日、まず「南京虐殺」が取り上げられました。日本人が「南京大虐殺」の存在を知ることになった初めての報道です。
〈 このとき実に2万人の市民、子供が殺戮された。4週間にわたって南京は血の街と化し、切り刻まれた肉片が散乱していた。婦人は所かまわず暴行を受け、抵抗した女性は銃剣で殺された。 〉(1945=昭和20年12月8日付け「朝日」)
GHQの絶対支配下におかれたNHKラジオも利用されます。「太平洋戦争史」をドラマ仕立てにして、「真相はこうだ」 が新聞連載開始の翌日(12月9日)から放送されます。もちろん、新聞とラジオの相乗効果を狙ったものでした。
「南京事件」のところでは、銃を撃つ音、暴行を暗示する女性の悲鳴などをバックに、「大虐殺。南京では1度や2度ではない。何千回となく行われたんだ」 のセリフが繰り返し入れられていたとのことです。
あまりに日本将兵の実感と離れていたというか、ウソで固めた放送内容だったためでしょう、NHKに抗議が殺到します。このため放送は10回で終わりますが、すぐに化粧直しをし、「真相箱」 として登場しました。今度は質問を受けて答えるという形式をとります。
「日本が南京で行った暴行についてその真相をお話し下さい」の問いに対する回答(抜粋)は次の通りです。
〈 この南京の大虐殺こそ、近代史上稀に見る凄惨なもので、実に婦女子2万名が惨殺されたのであります。
南京城内の各街路は、数週間にわたり惨死者の流した血に彩られ、またバラバラに散乱した死体で街全体が覆はれたのであります。・・・この間血に狂った日本兵士らは、非戦闘員を捕らへ手当り次第に殺戮、略奪を逞しくし、・・・。
日本軍兵士は、街頭や家庭の婦人を襲撃し、暴行を拒んだものは銃剣で突き殺し、老いたるは60歳の婦人から、若きは11歳の少女まで見逃しませんでした。・・・〉
GHQは日本軍の悪逆な行為をあの手この手で執拗に言い立てます。もちろん、彼らに都合の悪いこと、例えばこの放送に対する活字による反論等は検 閲 によってカットさせます。反論を認めず一方的に言いまくる、こうした一連の過程は日本人の洗 脳 工 作 といえるものでした。
このような工作を進める一方、裁判は進行していきました。結局、判決(1948=昭和23年11月)は、「日本軍が占領してから最初の6週間に、南京とその周辺で殺害された一般人と捕虜の総数は 20万人以上 」 となりました。
こうして東京裁判も終わり、その後、サンフランシスコ対日平和条約の調印・発効(1952=昭和27年4月28日)をうけ、日本は再出発しました。この日の東京は風が強く、ホコリっぽい校庭で校長から話がありましたが、声がよく聞き取れなかったと記憶しています。当然、GHQによる検閲はなくなりました。
さて、「南京大虐殺」はどうなったのでしょう。メディアは報道を継続し、日本軍の責任追及に出たのでしょうか。
飛び飛びですが、8月を中心にいくつかの新聞を調べたことがあります。ですが、「南京大虐殺」報道にお目にかかれませんでした。おそらく、報道はなかった、あるいはあっても見落とす程度の目立たない記事ではなかったかと思います。
留意しておきたいことは、「洗脳工作」の効果をより発揮させようとすれば、、「万人坑」 や「従軍慰安婦」 などは、GHQにとって絶好のネタだったに違いありません。ですが、この時点でヤリ玉にあがった事実はなく、また東京裁判で問題になったこともありませんでした。この意味は大きいはずです。
ところが約20年を経た1971(昭和46)年、GHQにとって代わったかのように、日本軍の“旧 悪” を告発し、断罪する人たちがでてきたのです。口火を切り、先導役をつとめたのは間違いなく 朝 日 新 聞 社 です。
・ 「集団ヒステリー状態」
この年の8月〜12月まで、現地ルポと称する「中国の旅」の連載をもって、朝日新聞社の日本軍断罪の一大キャンペーンがはじまりました。報告者は本多勝一記者(当時)でした。
連載は平頂山事件 にはじまり、万人坑、南京、三光政策 の4部に分け報じられました。
各部は約10回でしたから、通算で約40回、40日間の長期連載になりました。
また連載とともに、「アサヒグラフ」「週刊朝日」「朝日ジャーナル」 など、朝日新聞社は手持ちの活字媒体を総動員します。
例えば「週刊朝日」は「大河ルポ 中国の旅」 と題して、「防疫惨殺事件} などを、本多記者に同行取材した古川万太郎記者が報じました。
これらは後に単行本、文庫本『中国の旅』(共に朝日新聞社)になりますが、「中国の旅」連載こそ、われわれの歩んだ現代史を貶めた原点であり、しかも中国のプロパガンダをあたかも事実であるかのように装った悪質なルポであり、報道の名に値しないものであったと断言して誤りはないと思います。
報道時の日本人の反応を終戦時、陸軍少尉であった 山 本 七 平 は、「集団ヒステリー状態」 と表現しています。
「集団ヒステリー状態」、いかに強烈なインパクトを日本人が受けたかがよくわかります。読んでいて気持ちが悪くなったと感想をもらす人もあるくらい、想像を超えた日本軍の残虐さであふれかえっていたからです。
例えば「南京大虐殺」 。犠牲者は30万人、殺害手段となると、強姦のうえ殺害、生き埋め、火あぶり、さらには肝臓を抜き取って食うなどの凄まじさでした。民間人も負けてはいません。炭鉱や工事現場で労働者を酷使し、使えなくなれば生きたまま捨てた「ヒト捨て場」万人坑。ここには、万、十万単位の犠牲者を各地で出したといいます。
さらに、単行本『中国の旅』の写真版と称する 『中国の日本軍』 (双樹社、1972年)も出版されました。ここに掲載された日本軍民が殺害したとする大量の白骨遺体の写真は、視覚に訴えるだけに強烈な印象を読者に残したはずです。
問題を深刻にしたのは、「中国の旅」報道が加害者とされる側から裏づけを取らない一方的なものだったにもかかわらず、新聞記者、学者、研究者の多くが、つまり情報を発信する側にいる人たちが、このルポを事実と信じてしまったことでした。
・ われもわれもと中国へ
日中国交回復(1972=昭和47年9月)の後、訪中の制約が少なくなるにつれ、新聞記者、学者、研究者らは競うように、日本軍の残虐行為を求めて中国に渡りました。そして、人間とは思えない日本軍の冷酷な行為がこれでもかこれでもかとばかりに報じられたのです。これらもまた、「中国の旅」同様、ほとんどが日本側の取材を欠いたもので、本多記者と同じ轍を踏んだものでした。ですから「中国の旅」の内容と大同小異だったのは当然のことでしょう。
もちろん、この間、異論も反論もありました。しかしその声は小さく、また肝心のメディアは無視します。となれば、日本軍民断罪の流れは動かしようもありません。
・ やがて教育現場に
「中国の旅」で報じられた平頂山事件、万人坑、三光政策、南京大虐殺のいずれもが、百科事典に報道そのままの内容で記載されました。やがて歴史教科書に登場します。夏休みに文庫本『中国の旅』を渡し、読後感を課題とする学校も少なくなかったようです。また、写真集『中国の日本軍』を副読本として推薦する歴史教科書(高校)の例もありますから、教育現場に広く浸透したのは間違いありません。
詳しくは後述いたしますが、1967(昭和42)年から北京駐在の日本人特派員が「文化大革命を中傷した」などの理由で、次々国外退去処分になりましたが、朝日新聞一社がこの処分をまぬがれました 。このため、朝日が中国取材を半ば独占するなかで、「中国の旅」取材は行われたのです。
ではその取材の実態はどうだったのでしょう。当の本多記者が次のように書いています。
〈 本舞台での取材そのものは、ある意味では楽な取材だと言えるでしょう。レールは敷かれているし、取材相手はこちらから探さなくてもむこうからそろえてくれる。だから問題は、短時間に相手からいかに大量に聞き出すか、しかも正確に聞き出すかと、そういう問題になる。〉
「中国の旅」報道の実態を表したビックリ発言です。中国側が用意した"被害者"などから大量に聞き出してそのまま掲載したというのですから。まさに、中国側の手でレールは敷かれていたのです。しかも、このことに本多も朝日新聞社も何の疑問を持たなかったようで、「 楽な取材」 だったと臆面もなくいいのけます。
読者は「大朝日」 が報じたのだから、十分な調査をしたうえでの報道と思ったことでしょう。まさか、中国側の用意した被害者だけが取材源だったとは思いもしないでしょうから、とんだ食わせ物を読まされたわけです。
このうえ、加害者とされた日本側の裏づけ調査をまったくしなかった のですから、「中国の旅」記述がどのようなものか見当がつきそうなものです。
なのに、人がよいというのか、日本軍を叩くことが正義とでも思ったのか、報道関係者、学者、文化人をはじめ、ほとんどの日本人は信じこんでしまったのです。その様が「集団ヒステリー状態」 とあっては、なんともお話になりません。
証拠を一つご覧に入れましょう。
左写真は文庫本『中国の旅』に掲載されたものの1枚で、日本人経営の南満州の鉱山(南満鉱業)で、中国人労働者を酷使し、病気、ケガ、栄養失調などで使いものにならなくなると、ときには生きたままで捨てた「ヒト捨て場」 の発掘跡だというものです。
この「ヒト捨て場」を「万 人 坑」 (まんにんこう)と呼び、この南満鉱業の発掘例では、ここ1ヵ所だけで推定犠牲者が実に1万7000人 にのぼるとあります。
つまり、万人坑の一つひとつが万単位の「ヒト捨て場」で、南満鉱業には分かっているだけで5ヵ所の万人坑があるといいます。
一方、満州最大の炭鉱、満鉄・撫順炭鉱には約30ヵ所の万人坑が存在し、推定犠牲者25万〜30万人 とされました。「中国の旅」の効果に味を占めたのでしょうか、中国はこのほかにも多数の万人坑が存在し、例えば大同炭鉱 には20ヵ所あって、推定犠牲者を6万人 とし、現地(山西省大同市)に大きな記念館まで建ててしまいました。
ところが何を思ったのか、つい最近(2006年)、さらに大同炭鉱の調査をしなおした結果、犠牲者が15万5千人 になったと中国は言い出しました。そのうち歴史教科書にも15.5万人と書くに違いありません。あるいはすでに書いてあるかもしれませんが。
撫順炭鉱、南満鉱業、大同炭鉱以下、これらの万人坑は100%でっち上げ だと私が言ったら信じますか。おそらく、まさかと思うでしょう。
ですが、間違いなくでっち上げなのです。少し調べ、考えさえすれば分かることだと思うのですが。だから、日本の歴史教科書から記述が消えたのです。でも、日本の歴史百科事典には大学教授が臆面もなく事実として記述しています。
かつて、ここに勤務した人など関係者にとって、万人坑の存在は寝耳に水でした。朝日連載に対して抗議の声があがったのは当然のことでしょう。
撫順炭鉱に勤務した久野健太郎は、万人坑なるものは存在せず、また同鉱に関する「中国の旅」記述は事実と著しく異なるなどと、自著を添えて本多記者に抗議の手紙を送りました。
本多記者はどのように答えたのでしょうか。「追記」の部分を引用します。(左写真は本多記者の返信)
〈 ・・・また私は中国側の言うのをそのまま代弁しただけですから、抗議をするのであれば中国側に直接やっていただけませんでしょうか。中国側との間で何らかの合意点が見つかったときには、それをまた本で採用したいと思っております。 〉(1986年3月9日付け書簡)
人を愚弄した回答だとは思いませんか。
いったい誰が取材し、誰が書いたというのでしょう。取材し、書いた本多記者と掲載した朝日新聞社が記事の責任を負うのは決まりきった話ではありませんか。
自らの責任をそっちのけにしてこのようなことをヌケヌケと書く、しかも相手は1902=明治35年生まれですから、このとき83歳か84歳のお年寄りですよ。卑劣さもきわまれりと思います。
朝日新聞社への抗議の例はこれだけではありません。ですが抗議に対して朝日は、無視あるいは玄関払い を以って応じました。
こんな怪しげなルポを核にして、朝日は日本軍叩きの先導役をつとめ、われわれの歴史を貶め、中国に「歴史カード」をもたらす大きな原因となったのです。
「中国の旅」報道とほぼ時を同じくして、「天皇の軍隊」という題名のもう一つの連載が始まりました。「現代の眼」という月刊誌です。今は廃刊となっていますが、当時はよく売れていたものです。
熊沢京次郎という筆名で書かれましたが、本多勝一記者 と長沼 節夫・時事通信記者との共著です。
連載後すぐに単行本(写真左)となり、のちに本多、長沼の実名をもって文庫本となり朝日文庫(写真右)に加えられました。この本も『中国の旅』と同じように、強い感染力を持ったウイルス です。
ほんの一部を読んだだけで、日本軍が軍紀などと縁のない「ならず者集団」であったかがわかります。いや、「ならず者集団」ならまだましです。残忍な手口による殺人、女とみれば強姦のうえ殺害するなど、まさに鬼畜以下の存在です。
しかも、戦地にいた将兵(将校と兵士)の口から、「これでもか、これでもか」と語られているのですから、少々おおげさかなと思う人はあっても、大朝日の花形記者の名を見て、おそらく信じたことでしょう。そして、これらが事実なら日本軍はまさに鬼畜以下の存在、何をいわれようと仕方がないのかも知れません。
・ 娘を殺害、油で炒めて副食に
とにかく、例を一つ見てみましょう。榎本 正代 という名の曹長の証言です。できるだけ、先入観を持たないようにお読みください。
伊藤 誠少尉が率いる1個中隊約70人はとある山村に宿営する。1日目は部落から略奪してきた食料で何とか間に合わせたが、2日で食いつくした。手に入るものは畑の野菜ぐらい、ブタ・ロバ・ニワトリなどの動物性蛋白源がまったく見当たらない。そこで、「そうだなあ、オイ、ひとつやっちゃうか」 と伊藤中隊長は言うと宿舎を出ていった。そして、以下に引用する「人肉食事件」になったというのです。
〈 ほどなく中隊長が戻ってきた。彼が連れてきたのが、年のころ、17、8歳と見える中国人の娘だ。(中略)少尉が少女のうしろに回り、どんと榎本曹長の方に突き飛ばすのと、曹長の短剣が少女の胸を刺すのと、ほとんど同時だった。(中略)
2人は目配せをし合っただけで、無言のまま、たちまちにして少女を「料理」してしまった。最も短時間に「処理」できる部分として、2人は少女の太股の肉のみを切りとって、その場でスライスして油でいためてしまった。1個中隊分といっても、最前線にあっては70人ほどだったのだが、人肉の分量は意外に多く、各人にふた切れは渡りそうに思えた。 〉
この話、おおむね事実と信じますか。それとも、信じられませんか。信じるにしても、信じないにしても、その理由を考えてみていただけませんか。
この残虐話を例にとり、「酒鬼薔薇聖斗」で有名になった「神戸児童殺傷事件」の原因が、われわれがこのような日本軍の暴力に向き合わなかったことにあるとした論考を、毎日新聞に寄せた著名な精神科医 (野田 正彰教授)もいるのです。
この話は、 榎本 正代証言 に書きましたのでご覧ください。
・ 証言者はすべて中国戦犯
このような残忍な例があとからあとから出てくるのですから、話半分にしても日本軍のメチャクチャ振りにゲンナリさせられます。ですが、ご存知ない方も多いと思いますが、これらの話が事実だとするには大きな問題が横たわっているのです。それは戦後、中国に戦犯として抑留された「中国抑留者」 (中国戦犯)に関わる問題なのです。
『天皇の軍隊』の証言者がことごとく中国抑留者という事実です。この事実を知らなければ真実がわからず、落し穴になっているのです。このことを指摘したのは、おそらく私が最初だろうと思いますが、別項 ( ⇒ 11 中国戦犯証言を検証する) にまとめてありますので、こちらもご覧ください。
同じ時期に、「中国の旅」「天皇の軍隊」という2つの連載。そして単行本・文庫本『中国の旅』『天皇の軍隊』と写真集『中国の日本軍』の発刊。これらを真に受ける学者、教職員、文化人たちとくれば進む道は一本、いかに現代史が歪んでいったか見当がつくはずです。
でもなぜこの時期(1971年前後)に、また何を目的に、突如(?)として朝日新聞社は日本軍断罪に力を入れたのでしょうか。これには文化大革命(以下、文革。1966=昭和41年〜1976年)との関連を考えないわけにはいきません。
・ 当初の論調に違和感はない
朝日新聞が当時、文革を高く評価したのは周知のことですが、文革開始直後からというわけではありませんでした。当初は文革批判あるいは文革を懐疑する記事も結構、多かったのです。文革の始まった年の暮、朝日は社説で次のように書いています。
〈 中国が、民主主義を志向するわれわれと異なる道を歩んでいることは、隣国として重大な関心をもたざるをえない。また、今後の中国の動向が、大国主義的、膨張主義的色彩をもつのではないかという点については、特にそうである 。 〉(1966=昭和41年12月27日付)
社説は、文革をとおして将来に向けた中国の「大国主義的、膨張主義的色彩」に懸念を示しています。2010年代に入った今日、軍事力を背景にした東シナ海、南シナ海での海洋権益獲得行動は、社説の懸念どおり中華帝国の膨張主義が現実になったことを示しました。
また、毛沢東思想のみが正しいとし、異なる考え方を受け入れない点、一党独裁の欠点などを突いて、文革のあり方に疑問を投げかける記事もありました。
この社説の7、8ヵ月後の1967(昭和42)年7月から8月、中国各地で造反派同士、赤の武闘が激化しました。広州では迫撃砲や機関銃までが使用され、広州市とその周辺は無政府状態になるなど収拾がつかなくなり、しまいに解放軍が投入されて秩序が維持されるといった具合でした。
また12月末になると、劉 少奇・国家主席らを攻撃するため、劉の「十大罪状」を告発する壁新聞が北京大学をはじめ市内にはり出されるなど、攻撃の度合いはエスカレートしていきました。文革は、餓死者3000万人ともいわれる大躍進運動の失敗などで国家主席の座を劉少奇に譲らざるをえなかった毛沢東が、劉一派の手に握られた権力を奪い返そうとする「奪権闘争」であることを示す事情が明らかになってきたのでした。
ところが、1967(昭和42)年の夏頃から朝日の論調がガラリと変わり、文革を評価し、肩入れしだしたのです。
・ 広岡体制で一転 文革評価
美土路昌一社長が病気で退社、後を継いで広岡 知男 (左写真)が専務から社長に昇格、全権を握ったのは1967(昭和42)年7月のことでした。同時に「戦後左翼のシンボル」(青山 昌史・元朝日常務)とも言われた森 恭三 を論説主幹に任命します。もっとも主導権は社長になる前から握っていて、いわゆる「朝日紛争」(創業家、村山家との経営権をめぐる争い)で村山長挙社長を追放した1964(昭和39)年頃と言われています。
以降、広岡は社長として10年、会長として4年、1980年までワンマンとして朝日新聞に君臨したといいます。ですから、文革時代の中国報道は広岡社長の強い影響下にあったといってよいのでしょう。
朝日OBで社長秘書役、研修所長などを歴任した本郷 美則は、広岡知男社長が「今日の左翼偏向路線の基礎を築いた」 と断じています。
終戦直後、社会主義者らが読売新聞を乗っ取ったことからも分かるように、朝日社内もまた左翼人が幅を利かしていたのは確かでしょう。ただ、広岡社長、後藤 基夫・東京編集局長の2人がとくに親中派ではなかったし、また編集幹部も同様であったと朝日OB(佐々 克明、後述)は指摘します。
どうも広岡に対するこの指摘は確かなようで、広岡社長は「体育系」(東大野球部出身)で特定のイデオロギーは何もなく、「権力志向の人間」(本 郷)だったと言っています。その広岡が体制を敷いてから、中国ベッタリ報道へと傾斜していったのは客観的な事実です。
広岡の社長就任直後の1967(昭和42)年8月11日付け社説は、「激動1年の中国に思う」として次のように書かれています。
〈 文化大革命が社会主義理論に重大な問題を提出していることは明らかである。この意味で文化大革命を、わが国政党にみられるような、政策論争をともなわない派閥争い的な意味での権力闘争とみる考え方には、われわれは組しがたい 。・・・
中国がいま進めている文化大革命は、近代化をより進めるための模索といえよう。いまだに近代化への道を捜しあぐねている国々に、一つの近代化方式を提起し挑んでいるともいえる。 〉
これが同じ新聞の社説とは思えないほど、様変わりの変化でした。一転、文革を近代化を進めるための模索と位置づけ、遅れた他国にとっても参考になるといわんばかりに評価したのです。以降、記事も文革肯定に変わり、一気に中国に寄り添っていきました。
蛇足ながら付け加えておきますと、中国ベッタリ記事に多大な貢献をしたのは、秋岡 家栄北京特派員というのが定説になっています。秋岡記者は戦前の東亜同文書院の出身、このため中国語に精通していたようで、北京に赴任したのは1967(昭和42)年秋でした。
秋岡は朝日社内で伝説的(?)な存在で、有名というより悪名高い方なのですが、社内では「広岡社長直属」といわれるほどの存在で、秋岡の打電した記事は社内チェックにかからず素通りで紙面に載ったといいます。広岡社長あっての秋岡だったわけです。飛ぶ鳥を落とす勢いの秋岡特派員がつまずいたのは、林 彪(りんぴょう、国防相)失脚をいつまでも否定しつづけた大失態にあったことはよく知られています。
さて、広岡社長、編集局長らがとくに親中ではないとすると、何が原因で文革を肯定し、中国すり寄っていったのでしょう。いろいろな見方があると思いますが、「営業政策」ないしは「商業政策」から導きだされた「必然偏向」 だったと朝日OB(後述)が指摘しています。説得力のある見方だと私は思っています。
・ 朝日を除く日本人特派員、国外退去処分
1964(昭和39)年4月、日中間で記者交換の合意が成立、9月には日本側9社9人、中国側7人が任務につきはじめました。ところが、1967(昭和42)年9月、北京駐在の日本人特派員が次々と国外退去処分になる事態が発生します。時期から見れば、朝日論調が変化した約1ヵ月後のことです。
処分の理由は、報道が「文化大革命を中傷し、国内状況をゆがめ、反中国の行為にでた」 とのことでしたから、報道内容が気に入らなかったのでしょう。逆に考えれば、まあ真っ当な報道をしていた証ともとれます。もっとも、新聞に載った毛沢東の似顔絵が気に入らないというのが発端だったとの名解説(?)もありました。
まず1967年9月、毎日、産経、西日本の3社3人が、10月に読売、日本テレビの2人、翌1968(昭和43)年6月に日経が、さらに1970(昭和45)年9月にはNHK、共同通信社の2人が処分を受けて、結局、9社中8社の特派員が国外退去処分になりました。
ですが、朝日新聞記者だけが退去の対象から除かれましたから 、1970(昭和45)年10月以降は、北京駐在の特派員を持つのは朝日新聞社1社 となり、北京情報を独 占することになったのです。
・ 広岡社長、訪中の狙い
朝日だけがなぜ、追放されなかったのでしょうか。
1970(昭和45)年3月、つまりNHK、共同通信、朝日を除く6社6人が退去処分をうけた後のことですが、広岡 知男社長が訪中しました。
訪中の当面の目的は、「朝日記者の追放阻止」 にあり、さらには「中国報道の独占」 を狙ったものだと、朝日新聞OB・佐々 克明 (佐々淳行・初代内閣安全保障室長の実兄、また父君は朝日新聞記者出身) は、『病める巨像 ー朝日新聞私史』(文藝春秋、1983)のなかで指摘します。
そして、文化大革命を礼賛し、中国の代弁者になったかのような朝日論調が、この広岡社長の訪中によってより確固なものになったとし、以下のように記しています。
〈 広岡訪中の効果はてきめんであった。朝日新聞は、独占権と「人質」の安全保障とひきかえに、中国のプロパガンダの“エージェンシー” たることを請け負う羽目に陥ったのである 〉 と。
中国報道の独占権を得、新聞界のリーダーとして不動の地位を築くためにとった広岡社長の「営業政策」「商業政策」が、必然的に中国の走狗に成り下がったというのです。
・ 中国批判を許さなかった日本のメディア
となれば、 「中国の良い点を書き、悪い点を書くな」 という広岡社長の記者への指示は、むしろ当然の成り行きだったのかもしれません。中国にとって朝日ほど利用しやすい報道機関はなく、日本の言論界をコントロ−ルするにはいたって便利な存在であったに違いありません。
曽野 綾子 が産経新聞に連載しているエッセイで、「中国礼賛し続けた日本のマスコミ」と題し、起こったばかりの尖閣諸島での「中国漁船衝突事件」にからめ、マスコミの実態を以下のように暴いています(2010年10月29日付、一部抜粋)。
〈 今から40年前、産経新聞と時事通信を除く日本のマスコミは、絶えず脅しを受けながら、
特派員を受け入れてもらうために、完全に中国政府の意図を代弁する記事を書き続けた。
朝日、毎日、読売などの全国紙、東京新聞他のブロック紙などは、
中国批判はただの一行たりとも書かず、私たち筆者にも書くことを許さなかった。
私が少しでも中国の言論弾圧を批判すれば、
その原稿は私が内容表現を書き直さない限りボツになって紙面に載らなかった 〉
40年前といいますからまさに1970年頃になります。共同通信社を含むほとんどの新聞は、日頃の言とは裏腹に己の目先の利益のために紙面を中国に売り払ったのです。裏を返せば、紙面に載る中国関連物は、報道、論説、論壇等を問わず中国へのオベンチャラだけがまかり通ったことになります。
「北京の空は青かった」「ハエが一匹も見当たらない」「子供たちの眼は輝いていた」式の報道を私も読まされました。同時にアホくさいという反論も週刊誌などで読みましたが。
戦前の報道同様に、マスコミは自らの意思で商売を優先させ、部数獲得のために常軌を逸したのです。
曽野綾子は〈 私にいわせればマスコミは正気で「発 狂」していた 〉と表現、当時の報道の責任を厳しく問い、「マスコミは戦後一切の抵抗の精神を失い、今も部分的に失ったままなのである」と結んでいます。
私たち日本人は正気に「発狂」していた新聞を無邪気に信奉したがゆえに、彼らは部数を伸ばし、絶大な権力を得てモンスターにまで成長してしまったのです。朝日新聞社(所在地、東京都中央区築地)が「人民日報築地支店」だとヤユされたのも相応の理由があったのでした。
・ 日本軍国主義復活反対、日米安保解消を主張
では具体的に、中国の“エージェンシー”としての朝日はどのように役割を果たしたのでしょうか。簡単にいえば、
中国が主張する日本軍国主義復活反対の論陣を張り、 日米安保条約解消に向け力を注ぐこと
にあったでしょう。この2つは日中友好条約締結のいわば前提条件として中国が打ち出したものです。その条約締結は1972(昭和47)年9月、中国が嫌った佐藤 栄作首相の退陣を受け、次の田中 角栄首相の時に締結されました。
日本軍国主義反対
まず、「日本軍国主義復活」 に対する対応です。
日中間の懸案だった国交回復が取りざたされるなか、1969(昭和44)年11月、佐藤・ニクソン会談で 沖縄返還を約束した日米共同声明 が発表されます。このとき同時に日本の自主防衛力の強化にも言及がありました。
翌年に控えた日米安保条約の延長問題(70年安保)と、この「自主防衛力の強化」を念頭においてでしょう、周 恩 来首相は「沖縄の返還は全くのペテンだ」「日本軍国主義はすでに復活し、アジアの危険な侵略勢力になっている」 と断じ、佐藤 栄作 政権を攻撃します。
これに対し朝日新聞は、「われわれは、日本軍国主義がすでに復活したとまでは考えない。だが『復活』の危険な情勢にあることは、・・・認めざるを得ない 」 (1970=昭和45年4月20日付け社説)と中国の主張に寄り添います。
また、安保条約が自動延長になった1970年6月23日付け社説〈 「選択の70年代」と安保条約 〉では、
〈 「70年安保」で“被害意識”を強めているのは、中国をはじめとするアジアの国々であり、日本国民には“加害者”としての感覚がきわめて希薄である 〉
との認識を示します。1年後の「中国の旅」報道でたっぷり日本の加害を報道する予告だったのかもしれません。
また、〈 中国の「日本軍国主義」攻撃がたんなる政略的意図から出たものとみるのは誤りであろう 〉と中国の主張に精一杯の理解を示しました。
何んという目の曇りでしょう。中国の首相が政略的意図のない発言をすると考えるなど的外れもいいところです。
第一、日本のどこに「軍国主義復活」の兆しがあったというのでしょう。中国は1956(昭和31)年に核兵器開発を決定、核保有国を目指しました。そして1964年11月に水爆実験に成功、さらに1971(昭和46)年11月には20キロトンの原爆実験も成功しています。
また中国の総兵力数は250万人、自衛隊の20万人と比べれば10倍を超えていました。日本の軍事力などは意思においても能力においても丸裸同然だったといってよかったのです。ちなみに、日本人は「安全と水はタダが当然」と考えていると指摘した『日本人とユダヤ人』(イザヤ・ベンダサン=山本七平、山本書店)の初版は1970年5月、ちょうどこの頃のことでした。
ですから、中国が日本の軍事力を心配するような状況下にありません。にもかかわらず、中国の主張に沿って、朝日新聞は日本の防衛力強化となればとにかく反対しつづけました。
安保条約解消を提言
さらに社説は、
〈 日中関係の正常化こそ、わが国の恒久的な安全保障の条件なのであり、“選択の70年代”の課題は、対米関係の調整に立った安保条約の解消 と、日中関係正常化への努力を並行して進めてゆくことであると思う 〉
とし、「日米安保条約の解消」にまで踏み込んだ主張を展開しました。日米関係より日中関係が重要 と明確に表明したわけです。もし朝日がいうように、安保条約が解消されていたら日本固有の領土である尖閣諸島など、有無をいわさず、力づくで取られたのは間違いないでしょう。
そして矛先は佐藤政権に向けられ、あからさまに退陣を要求しはじめました。上記の『病める巨像 』によれば、1971(昭和46)年6月から8月の報道は以下にみるように露骨なものだったといいます。
〈 今の佐藤政権の姿勢では、かえって日中関係打開への重荷。 〉
〈 佐藤政府のもとでは、日中改善の望みのないことを(中国政府が)示唆した。 〉
〈 訪中議員団は、佐藤内閣の下では、日中国交の正常化をはかるとは困難であるとの印象をもった。 〉
これらの報道を読み、朝日は中国のご用をうけたまわる新聞、「中国ご用達新聞」ではないかと疑問が起こっておかしくありません。さすがの朝日読者も呆れてか、一部でしょうが読者離れが起こったそうです。
・ 「中国の旅」は手土産
日本の軍国主義復活反対、自主防衛力強化反対、さらには日米安保条約解消、佐藤政権不信任と、たてつづけに朝日新聞は中国の主張に沿った報道を展開しました。
そして上記の目標達成を容易にする手段の一つとして、日本軍の残虐行為糾弾が日程にのぼったのではないでしょうか。この計画が中国側の示唆、ないしはそそのかしに朝日が飛びついた結果だろうと思っています。日本の防衛力強化を阻むのに、また“加害者”としての自覚の足りない日本人を目覚めさせるために、日本軍を叩くのが手っ取り早いと考えたのに違いありません。
つまり朝日は、中国と共通の理解に立っていることをつたえるため、平たく言えば中国への迎合、手土産に日本軍断罪が使われたのだと思います。
そして、中国が綿密にお膳立をした上に取材が行われました。ですから、本多自身が言うように「レールは敷かれているし、取材相手はこちらから探さなくてもむこうからそろえてくれる。だから問題は、短時間に相手からいかに大量に聞き出すか、しかも正確に聞き出すかと、そういう問題になる」という次第で、朝日新聞の半独占状態(1971年1月から日経新聞と西日本新聞が復帰)のなか、「中国の旅」連載が行われたのです。
結果は、日本人を「集団ヒステリー状態」 にさせるほどの大成功で、予想を上回る大反響だったと本多自身が書いています。中国もまた同じで、期待をはるかに超えた成果とほくそ笑んだに違いありません。
もちろん、中国がこの絶大な効果に味をしめないわけがありません。朝日をはじめとする日本のメディアと中国が、2人3脚で日本軍の残虐ぶりの糾弾に突き進み、やがて黄門様の葵の紋章入りの印籠のごとく、日本人が平伏する「歴史カード」 を中国は手に入れたのです。
ともあれ、朝日新聞社という一報道機関が独占的な立場を確保するため中国に擦り寄り、その目的達成の一手段として、日本軍断罪が使われたのは、まず間違いなかろうと思っています。そしてこれ以降も、防衛問題、歴史教科書問題、靖国参拝等々、朝日が中国プロパガンダの“エージェンシー”たる基本姿勢に変化が起こることはなかったのです。
・ また一転、厚顔な評価替え
ついでと言っては何ですが、文革がついえた後、朝日の臆面もない変わり身を書いておきます。
1976(昭和51)年1月に周恩来の死去、つづく毛沢東が9月に亡くなり、10年におよんだ文化大革命は終わりをつげました。党主席の座をついだ華 国鋒(か こくほう)の手で、文革を推進した江 清 (こうせい、毛沢東夫人)らいわゆる4人組を「反革命」の罪を犯したとして逮捕しました。文革の評価は一転して「革命」から「反革命」へと変わったのです。この後、中国は文革を「動乱の10年」として否定し、今日に至っています。
これに対する朝日新聞の変わり身を知るには、次の社説(1980=昭和55年11月21日付)の一節で十分でしょう。
〈 中国に与えた文革の傷はあまりにも深い。数百万の失業者が路頭に迷い、下放青年による北京駅爆破事件のような悲劇をひきおこしている。中国の近代化のためには、中国社会の安定が必要であり、国内を四分五裂させた文革のような事態が2度とおこってはならない。なによりも必要なのは、一派閥の利害ではなく、10億民衆の立場に立ち、いまわしい過去を清算する近代的裁判である 〉
さんざん文革を持ちあげてきたにもかかわらず、一転して「いまわしい過去」と評価替えをし、中国の新しい見解に乗ったのです。もちろん、文革を「世界史的意義」があるとした自らの誤りを紙上で総括し、読者に供することはありませんでした。
・ 日本の教育界に深刻な影響が
文化大革命は教育界や教育現場に多大な影響を与えました。
1966(昭和41)年8月18日、『毛沢東語録』をかざした「革命的教師と学生」、赤い腕章をつけた毛沢東の親衛隊である「紅衛兵」ら100万人が天安門広場に集まり、楼上には軍服姿の毛沢東、それに周恩来、林彪らの指導者の姿がありました(左写真、左から毛沢東、林彪、周恩来)。
ここで「四旧」(旧い思想、文化、風俗、習慣)等の打破が呼びかけられ、学術権威もまた打倒すべき目標となったのです。
そして「造反有理」の理屈のもと、医師らをブルジョア思想の持ち主と糾弾、北京の銀座通り「王府井」を「革命道路」と呼び替えるなど、勝手放題の活動が始まります。10月には劉少奇、とう小兵の自己批判へと追いつめていきました。
「造反有理」の思想汚染は日本に飛び火、教師が生徒の評価を拒否するやら、集団団交により校長や教育委員長をつるし上げるやらして学校を興廃へと向かわせました。
学校長が教職員から陰湿な「妨害」「いじめ」にあった例は数限りなく、なかには自殺に追い込まれる例も見られるようになりました。もちろん、国旗と国歌は目の敵にされ、今にいたるも変化はありせん。
学校現場について書かれた本はいくつもありますが、最近出た『学校の先生が国を滅ぼす』(一止 羊大、産経出版、2009年)を読めば、世間知らずの独りよがりで固まった一握りの教職員が、学校を牛耳っていることに唖然とするはずです。著者は公立校の校長経験者で、自らの体験を記したもの。書名は大向こうを狙った大げさなものになりがちですが、この書を読めば、もっともな書名と思うことでしょう。
朝日社内には、今は分かりませんが親ソ派グループがあったのだそうです。聞きかじりですが、秦 正流(後に専務取締役編集担当)をリーダーとする一派で、中国に傾斜した文革報道を批判的に見ていたといいます。
文革報道の失敗( と言ってもあくまで社内評価であり、読者に詫びたわけではありません)が、親ソ派の巻き返しのチャンスになりました。というのも、文革時は親中一辺倒でしたので、ソ連が朝日新聞に冷たくなり 、モスクワ支局での取材が何かと不自由だったというのです。このことは『朝日新聞社史』 に載っているそうで、まったくお笑いです。
朝日は「日本のプラウダか」 と批判されたのもこの頃であり、ソ連寄り報道はいくつも例があります。ここでは北方領土についての朝日のスタンスを取り上げておきます。
以下は、朝日ウオッチャーで知られる片岡 正巳の論考「改めて問う朝日新聞の『戦後』責任」( 別冊『正論12号』、2009年)等を参考にしました。
・ 北 方 領 土
日本政府は1981(昭和56)年、2月7日を「北方領土の日」 と定めましたが、3日前の社説(2月4日付)で早速、〈 いたずらに「ソ連の脅威論」であおったり、右傾化へのバネに利用してはならない 〉 と水を差すように警告を発します。
「北方領土の日」制定の前日(2月6日)ですが、松前 重義・東海大学総長の「とんでも論考」を朝日は掲載しました。並みの新聞社ならまず載せない、つまりはボツにするに違いなく、この論考が朝日の言いたいことを代弁していたからでしょう。
〈 (日本政府は)閣議決定によって、「北方領土」を永久に残し、日ソ間の緊張を継続し、軍国主義への道を開こうという意図ではないか。・・・ ソ連は第2次大戦において、世界で最も大きい人的、物的犠牲をこうむった。それゆえに第2次大戦の結果にこだわるのは、決して理由のないことではないのである。北方領土問題は、ソ連にとって国際法の問題というよりは、多くの犠牲のもとにえた結果を失えぬという、国益と感情問題なのである 〉
何と倒錯したものの見方かと思います。北方4島の返還へ向けた日本の意思表示として「北方領土の日」を定めたのであって、どうして軍国主義の道を開くことになるなどと、たわけたことを書くのでしょう。
第一、ソ連が多くの人的、物的犠牲をこうむったといいますが、それはドイツとの戦であって、日本による犠牲などありません。日ソ中立条約を破ったのはソ連です。その上、日本将兵60万人を労働目的でシベリアに強制連行し、6万人以上を死に至らしめました。また、侵入した満州やカラフト(樺 太)で多数の日本婦人を凌辱、多量の物資を自国に持ち去るなど、勝って放題の振る舞いでした。そのあげくが北方領土の略奪でした。
そういえば、カラフトの真岡(まおか、もうか)で迫りくるソ連軍を前に電話交換手として最後まで職責を果たし、自決した9人の若き女性を描いた映画に「氷雪の門」(東映、1974=昭和49年)がありました。ですが、この映画は日本で上映されませんでした。何でも反ソ映画であるというのが理由でした。どうせ、ソ連大使館と左翼連中の差し金でしょうが、日頃「言論の自由」を振りかざすメディアが非をならせば、上映できたはずです。情けないほど圧力に弱い国かと思います。
さて、ソ連によって被害をこうむったのであって、日本に非はありせん。北方領土の返還は最低限の要求です。にもかかわらず、この種の知識人が結構、もてはやされていました。今も大して変わりはないのかもしれませんが。
朝日が中国同様にソ連によせる青臭い心情、つまり共産主義国家、社会主義国家には正義が宿っているという思い込み、だから日本が社会主義国になることを夢見て論陣を張ったのでしょう。
また、北朝鮮に対してもおかしな見方を繰り返しました。北を「地上の楽園」とばかりにもてはやし、北朝鮮に帰った人に塗炭の苦しみを味あわせました。わけても日本人妻が味わった苦しさは尋常のものではなかったのです。この問題は別項でとりあげます。
―2005年 4月 1日より掲載―
(2010年10月20日、大幅に加筆のうえ掲載)