南 京 大 虐 殺

―30万人説を広めた朝日と大学教授―


 「中国の旅」連載が引き起こしたかずかずの害悪のなかで、最大のものが「南京大虐殺30万人」でしょう。ご承知のように、「南京虐殺」という出来事を私たちが最初に知ったのは東京裁判を通してでした。
 「南京虐殺」についての詳細は、( ⇒ 9 南京虐殺)をご覧いただくことにして、ここでは「30万人説」がどう蔓延していったのかに焦点を絞り、記述していきます。

1 中国が主張した犠牲者数


 中国は当初、犠牲者数(被殺害者数)は「43万人」 だといい、東京裁判でもこの数を主張しました。ここでいう中国とは国民党政府(=蒋介石政府) のことです。

 というのも、上海戦につづく南京戦は日本軍と蒋介石軍との戦いでしたし、終戦当時、中国を支配していたのは中華民国で、米、ソなどとともに戦勝国として名を連ねていました。一方、現在も何かと問題になるのは、中華人民共和国(共産中国)との間です。戦勝国であった中華民国は共産党軍との争い(国共内戦)に敗れ、中国大陸を追われて台湾に拠点を移したからです。

 43万人の内訳は、第6師団関連で23万人、16師団関連で14万人、第9師団とほかの関連で6万人とのことでした。もとより、この数に根拠があるはずもありません。ですが、検定で意見がついたものの「犠牲者40万人」と書いて申請した日本の歴史教科書もありましたので、信じている人がいるのかもしれません。
 このほかに、「30万人以上」 としたもの(南京戦犯軍事法廷における谷 寿夫中将に対する判決)など、いくつかの例があります。

2 東京裁判の判決は


(1) 「20万人以上」と断罪
 一方、東京裁判の判決文のなかに2つの数値がでてきます。その一つは以下のとおりです。

@ 女、子供を含む非戦闘員 12,000人以上(最初の2〜3日の間)
A 便衣兵(一般人になりすました兵隊) 20,000人
B 捕 虜 30,000人以上
C 南京からの避難民 57,000人

 以上を単純に加えれば、日本軍による犠牲者数(被殺害数)は11万9,000人以上 となりますから、「約12万人」 という数が使われることもあります。このほかに、約20,000件の強姦事件が市内で起こったと判決は決めつけます。
 もう一つは、「20万人以上」とするものです。

〈後日の見積もりによれば、
日本軍が占領してから最初の6週間に南京とその周辺で殺害された一般人と捕虜の総数は、
20万人以上であったことが示されている。
 これらの見積もりが誇張でないことは、埋葬隊とその他の団体が埋葬した死骸が、
15万5千人におよんだ事実によって証明されている。〉


 以上の判決を一覧にしたものが下表です。

東京裁判判決内訳


 東京裁判の法廷が、犠牲者「20万人以上」と判断した根拠は、埋葬隊が埋葬したとする遺体15万5千体の存在を認定したことによります。

(2)「南京大虐殺」の定義
 「南京大虐殺」は中国がいう 「南京大屠殺」 と同じでしょうが、定義といいますかその具体的な範囲が問題になることがあります。その範囲の主要部ともいうべきものが、この判決文に書いてあります。

@ 時 期 最初の6週間
 南京占領後の6週間というのですから、1937(昭和12)年12月13日〜1月下旬となるでしょう。
A 場 所 南京とその周辺
 つまり、南京城内とその近郊となります。
B 犠牲者 一般人と捕虜
C 犠牲者数 判決は20万人以上ですが、中国の主張は「30万人以上}

 ですから、共産中国が主張する「南京大虐殺」(南京大屠殺)は、上記の範囲において「30万人以上」が殺害されたというわけです。

(3) 埋葬団体の崇善堂と紅卍字会
 中国の主張する15万5千体の遺体ですが、埋葬団体と埋葬数の内訳を見ておきましょう。まず埋葬団体は「崇 善 堂」「紅 卍 字 会」 の2つで、この2団体でほとんどすべての遺体を処置したことになっています。

 前者の崇善堂(すうぜんどう)が埋葬した遺体は11万2,266体、後者の紅卍字会(こうまんじかい)の埋葬数が4万3,123体ですから、合計すると15万5,389体 となります。ですから、20万人上という判決文の根拠となっていて、法廷は中国が提出した資料を100%信じ、判決を下したことになります。

 ところが、11万2千余体という膨大な死者を埋葬したとする崇善堂ですが、この団体が存在していたのは確かなのですが、この時期、「ほとんど活動を行っていなかった」ことが、証明されたといって間違いないでしょう。

 ですから「30万人虐殺説」はもちろん、20万人などという数は、この1点だけからも成立するわけがないのです。ですが今なお、「20万人以上」「30万人」などという数字が中国の教科書ならいざ知らず、日本の歴史教科に記述されているのです。
 崇善堂と紅卍字会については、 ( ⇒ 南京事件7−3)をご覧ください。

(4) 「太平洋戦争」と「真相箱」
 終戦4ヵ月後の12月8日から、GHQ(占領軍総司令部)は「戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画」(WGIP)の一環として、「太平洋戦争史」(全10回)の掲載を始めるよう新聞各紙に命じました。
 12月8日の初回は、日本人の誰もが知っていた日米開戦の発端、真珠湾攻撃の日に合わせたものでした。

〈このとき実に2万人の市民、子供が殺戮された。
4週間にわたって南京は血の街と化し、切り刻まれた肉片が散乱していた。
婦人は所かまわず暴行を受け、抵抗した女性は銃剣で殺された。 〉
―1945=昭和20年12月8日付け朝日―


 GHQの絶対支配下におかれたNHKラジオも利用されます。「太平洋戦争史」をドラマ仕立てにした番組、「真相はこうだ」 が新聞連載開始の翌日(12月9日)から放送されます。

 南京事件のところでは、〈 大虐殺。南京では1度や2度ではない。何千回となく行われたんだ 〉 のセリフが繰り返し入れられていたとのことです。あまりに日本将兵の実感と離れていたというか、ウソで固めた放送内容だったためでしょう、NHKに抗議が殺到します。
 このため放送は10回で終わりましたが、すぐに化粧直しをし、今度は質問を受けて答えるという形式をとった「真相箱」 が登場しました。

 GHQは日本軍の悪逆な行為をあの手この手で執拗に言い立てます。もちろん、彼らに都合の悪いこと、例えばこの放送に対する活字による反論等は検 閲 によってカットさせます。
 反論を認めず一方的に言いまくる、こうした一連の過程は「日本人洗脳工作」 といえるものでした。

 このような工作が進められる一方で、東京裁判は進行していきました。
 結局、南京事件に関する判決(1948=昭和23年11月)は、「殺害された一般人と捕虜の総数は 20万人以上 」 と結論づけました。
 「WGIP」「太平洋戦争史」「真相箱」等については、(⇒ 朝日新聞は何を、どう報じてきたか )も参照なさってください。

3 相手にされなかった?「南京大虐殺」


 日本が独立を回復、再出発したのは1952(昭和27)年4月のことでした。これで報道に関するGHQの命令も検閲もなくなったわけです。
 ちなみに、前年の1951年11月に日教組 は第1回教研集会を日光で開いています(日教組の結成は1947年6月)。

 東京裁判の判決内容が事実であれば、また事実に近いのであれば、「南京大虐殺」をめぐる日本軍の残虐行為はさらに問題化し、新聞報道はもちろん、教科書記述に反映されないはずがありません。

(1) 新聞はまともに取り上げなかった
 ですが、新聞で取り上げられることはほとんどなかったようなのです。私自身、調べたのは一部で、全部に目を通したわけではありませんので、「報道はなかった」とまでは言いきれません。ただ、大々的な報道はなかったのではと思っています。

 朝日、毎日、読売はもちろん、参戦した師団、連隊の所在地にある地元新聞社も南京攻略戦に記者を派遣しました。
 ですから、その実態を目にした従軍記者、従軍カメラマンなどが多数存在したのです。
 なにせ、朝日新聞だけでも数十人の記者、カメラマンを南京戦に派遣していました。毎日新聞(東京日日)だって、同じ位の数の大取材団を送っていたのです。実態を知った記者が多数いた新聞各紙が東京裁判がいう「南京大虐殺」を信用しなかったために、報道がほとんどなかったとしても不思議はないでしょう。
 これといった報道がなかったということは、いわれるところの「南京大虐殺」が「なかった」ことを暗示しているといえます。

 少し話が古くなりますが、毎週日曜日の早朝、政治評論家の細川 隆元をメインに、論客を招いてあれこれ論じる「時事放談」というテレビ番組がありました。ご記憶の方も多いでしょう。
 細川は朝日新聞記者で、東京本社の編集局長の要職をもつとめ、戦後の一時期、国会議員になったこともあります。

 昭和60年頃だったでしょうか、この番組で細川は「南京大虐殺」を明確に否定していたことを記憶しています。否定の理由などは憶えていないのですが、南京事件に詳しい田中 正明(故人)によれば、放送日は1986(昭和61)年、終戦記念日前の日曜日だったといいますから、1986年8月10日放送と特定できます。

 そこで編集局長職にあった細川は南京戦に特派した記者を集め、虐殺事件があったのかどうか、一人ひとりに確かめたそうです。「見たこともない」などという結果をうけ、大虐殺を公の場で否定したのでした。
 この番組のものかどうか記憶がハッキリしないのですが、細川の著作に否定の記述があったことは間違いないと思います。書名は提示できませんが、「時事放談」を活字化した本だったように思えるのですが。

(2) 教科書記述は何時からか
 一方の教科書はどうなったのでしょうか。日本の教科書はもちろん、中国の教科書がどうかも気にかかるところです。

 まず、日本の教科書ですが、戦後すぐに記述されてもおかしくないでしょうに、南京事件は長いこと現れなかったのです。
 1956(昭和31)年、家永 三郎 ・元教育大学名誉教授(故人)が文部省に申請した高校用歴史教科書が検定の結果、不合格になりました。
 これを不服とした家永は、不合格本をそのまま『検定不合格日本史』(三一書房、1974年)として発刊し、検定の是非を世に問いました。もう遠い昔のことになりましたが、1965(昭和40)年に提訴されたいわゆる「家永教科書裁判」の前哨戦だったのです。

 ですが、この不合格となった教科書に南京事件の記述はありませんでした。家永教授執筆の教科書に南京事件がでてくるのは、ずっと後の1978(昭和53)年になってのことでした。その高校用教科書『新日本史』(三省堂)には、次のように書いてありました。

〈 南京占領直後、日本軍は多数の中国軍民を殺害した。南京大虐殺とよばれる〉


 同じ三省堂からでた世界史教科書 『三省堂 世界史』は1976(昭和51)年から、また学校図書の『高等学校 日本史』は1978年から取り上げられ、後者の教科書には次のように書かれていました。

〈 このとき日本軍は、おびただしい数の中国人難民・婦女子や武器をすてた兵士たちを殺害した(南京事件) 〉


 このように、教科書に南京事件が目につくようになったは昭和50年代に入ってからと思います。
 最初の登場はいつかというと、1974(昭和49)年だったと指摘(藤岡 信勝・元東大教授)されています。多分、この教科書は教育出版社の中学校用教科書ではないかと思います。私の調べたところでは、高校用より先に中学校教科書が取り上げていました。
 とにかく、1974年が最初で、1978年頃から多く取り上げられるようになったことは、大きな意味があると思いますので留意していただければと思います。

(3) 中国の歴史教科書は何時からか
 一方の中国の教科書はどうなのでしょう。私自身、とくに調べたことがありませんので、指摘されていることをお知らせします。
 まず、南京事件の究明に長くたずさわってきた阿羅 健一 は次のように指摘しています。
 1979年3月に発行された中華人民共和国の中学用歴史教科書(日本の中学、高校にあたる)を隅々まで点検したものの、南京に関する記述はまったくなかったといいます。
 また、藤岡・元教授は南京事件の教科書初登場は、1979(昭和54)年だったとしています。いずれにしても、中国教科書登場は、おおむね1979年以降と考えれば、間違いないものと思います。なお、南京の記念館は1985(昭和60)年に開館されました。

(4) 順序がおかしくないですか
 となると、少々おかしなことになってきます。
 なぜかといえば、早くから中国の教科書に取り上げられていて、後に日本の教科書に記述が現れたというのならわかります。それが日本の教科書が先、中国の教科書が後というのですから、どう考えたって話が逆でしょう。

 これをどう解釈するかですが、1971年以降、朝日が掲載した「中国の旅」を境にして、「南京大虐殺」など日本軍・民の残虐行為がにわかに国内で騒々しくなりました。その強い影響のもと日本の教科書記述に発展し、さらにここぞとばかりに中国が乗ったというのが素直な見方ではないかと思います。
 この間、多数の日本人ジャーナリスト、学者らが情報提供を含め、中国にご注進に及んだことでしょう。当たっていると思うのですが。

4 「中国の旅」登場


 東京裁判の法廷は犠牲者「20万人以上」などと断じ、責任者として松井 石根大将 に死刑判決を言い渡しました。ですから、この南京問題に関する大論争が国内で起こっておかしくありません。
 ところが、ここまでの記述が示すように、新聞はといえば、無視ともいえるほど紙面に現れませんでしたし、教科書にしても昭和50(1975)年前後になるまで、南京事件は取り上げられませんでした。
 このことは、日本軍の悪行を日本国民の脳裏に刻み込もうとしたGHQが策した洗脳計画(WGIP)が、今日言われるほどの効果はなかったということを意味しているのだと私は理解しています。

 ところが、朝日報道を境に状況は一変、「南京大虐殺」をはじめ、日本軍の目を覆う残虐行為が一気にクローズアップされたのでした。あたかも「集団ヒステリー」にかかったかのように、日本人は「1億総ざんげ」とばかりに日本軍民の非道さを口をそろえて糾弾したのです。

 この過程で、尻馬に乗ったのでしょう、「悪行」を掘り起こし、ひたすら日本軍を叩くために、「検証」「裏づけ」を無視して一斉に走り出したマスコミ、学者ら、なんとも情けない姿をさらしたのでした。
 彼らは社会主義国家が資本主義国家と違って、道徳的にも優れた国家と考えたためか、あるいは何か含むところがあったためか、中国のいうことに疑いを抱かなかったのかもしれません。

(1) 30万人説を流布
 その境となった報道は1971年8月末から翌年にかけて朝日新聞に連載された「中国の旅」でした。
 この連載後、ほんの数年で、日本の歴史教科書、日本の百科事典などに取り上げられたのは決して偶然ではないと思います。
 連載は4部に分かれて報じられましたが、その一つが「南 京」でした。ここで「30万人」虐殺が以下のように強調され、2人の将校による「百人斬り競争」などが登場してきたのです。


〈 虐殺は、大規模なものから1人〜2人の単位まで、
南京周辺のあらゆる場所で行なわれ、
日本兵に見つかった婦女子は片端から強姦をうけた。
紫金山2000人が生き埋めにされている。
こうした歴史上まれに見る惨劇が翌年2月上旬まで2ヵ月ほどつづけられ、
約30万人(注2)が殺された。 〉


 (注2)を見てみますと、以下のように書いてあります。

〈南京事件で日本軍が殺した中国人の数は、
姜さんの説明では約30万人という大ざっぱな数字を語っていたが、正確な数字はむろん知る由もない。
東京裁判のころの中国側(蒋介石政権当時)の発表は
43万人(市民23万、軍人20万)だった。東京裁判判決では11万9000人だが、
これは明白な証言にもとづくものだけなので、事実より少ないと見る研究者もいる。
洞 富雄 著『近代戦史の謎』の分析は、30万人、
あるいは34万人説を事実に近いとみている。〉


 国民に衝撃をあたえたのは、30万人という数もさることながら、日本軍・民が犯したその残虐性にあったというべきでしょう。こんな具合です。

〈 「日本兵にみつかった婦女子は片端から強姦を受けた」ことについては、多くの写真が残っている。
強姦された相手が裸で泣いている横で、自分も並んで記念写真をとった例が最も多い。
強姦のあと腹を切り開いた写真。やはりそのあと局部に棒を突き立てた写真・・・。
5万人もなだれこんだ日本軍。そのすべてではむろんないにせよ、
かなりの兵隊が加わった強姦事件の被害者は何万人におよび、
1人が1度に30数回もつづけて強姦された例があるので、件数は何十万件とも見当がつかない。
10歳前後の童女から70歳以上の老女まで、すべて強姦の対象なのであった。〉


 すでに( ⇒ 日本軍の異様な残虐)をお読みいただいていれば、虚偽に満ちた内容かが見抜けるでしょう。同時に、このレポートを書いた本多勝一や、連載をつづけた朝日新聞社の狙いがどこにあったのか、責任をハッキリさせるという意味からも考える必要があると思います。

 こんなことも書いてあります。これはそのまま、高校教科書の指導書(教員用虎の巻)に使われていました。

〈 ときにはまた、逮捕した青年たちの両手足首を針金で一つにしばり、
高圧線の電線にコウモリのように何人もぶらさげた。電気は停電している。
こうしておいて下で火をたき、火あぶりにして殺した。集めておいて工業用の硝酸をぶっかけることもある。
苦しさに七転八倒した死体の群れは、他人の皮膚と自分の皮膚が入れかわったり、骨と肉が離れたりしていた。
「永利亜化学工業」では、日本軍の強制連行に反対した労働者が、
その場で腹を断ち割られ、心臓と肝臓を抜きとられた。日本兵はあとで煮て食ったという。〉


(2) 勇んで同調した大学教授ら
 「南京虐殺30万人」説を支持し、この“学 説”をリードした一人が藤原 彰・一ツ橋大学教授(肩書は当時)でした。

 陸軍士官学校出身の大学教授として重用され、朝日が報じる南京問題などの紙面に頻繁に登場、解説やら見解が掲載されました。
 そのハシリの一つだった「毒ガス作戦」( ⇒ 毒ガス写真事件 ) の解説がとんでもない間違いであったことは別に報告してあるとおりです。

 間違った内容は、単に間違ったというのではなく、軍事知識にしてもはなはだ怪しいことを示していました。大体、陸軍士官学校を出たからといって、何でも知っているわけのものではありません。

 藤原教授は支那駐屯歩兵3連隊の将校(中尉)として中国にわたり、大尉をもって終戦を迎えていますが、体験した範囲は限られているはずなのです(支駐歩3の戦友会にでて話を聞いたことがあります)。
 藤原教授は南京事件についての中国の主張、また中国抑留者の供述書などについて、すっかり真に受けてしまっています。ですから、結果としてかもしれませんが、中国の代弁者の役割を果たしたのです。
 以下の藤原教授の「中国の旅」への盲目的ともいえる高い評価が、このことを裏づけているでしょう。

  〈この『中国の旅』の反響は深刻であった。
日本軍による虐殺事件をあばき出し、かつての戦争における加害責任の問題を、事実にもとづいて日本人につきつけたからである。
日本でのそれまでの戦争への批判は被害者の立場からのものが多かったから、
このルポが読者にあたえた衝撃は大きかったのである。
もちろんそれまでにも、日本軍の残虐行為についての告白や記述はあったのだが、
小出版社から出された部数の少ない著書で、影響力はそれほどなかった。
それにくらべてこのルポの発表の舞台が発行部数の多い朝日新聞であったこともあり、
事実の重さと、その事実によってのみ証言するという
著者の真摯で明快な語り口が、多数の読者の胸を打ったのである。〉


 のめり込みもここまでくると、もはや芸なのかもしれません。
 とにかく、藤原教授が「中国の旅」連載が事実にもとづいたものと妄信した代表格だったに違いありません。連載されたすべて(南京虐殺30万人、三光作戦、万人坑、平頂山事件)が教科書に、百科事典、歴史事典に載ったことからも、大勢の歴史学者が何ら疑問を持つことなく、信じきったことを何より示しています。

 そう言えば藤原元教授は、朝鮮戦争は韓国がしかけたとする珍説を以下のように書きました。

〈(1950年)6月25日、38度戦全線にわたって韓国軍が攻撃を開始し、先端が開かれた。
26日、北朝鮮軍は反撃に転じ、韓国軍はたちまち潰走しはじめた。〉
―『日本歴史6 日本帝国主義』日本評論社、1971―


 ここまで目が曇っては、なにをか言わんやです。ですが、こうした歴史学者が日本の近現代史の形成に決定的な影響力を持っていたのです。

(3) 何でもありの「近隣諸国条項」
 南京事件のわが国の教科書登場は「中国の旅」連載の後からでした。
 さらに、教科書記述の暴走を許したのは、「教科書誤報事件」がもとになって制定されたいわゆる「近隣諸国条項」でした。教科書記述にあたっては近隣諸国に配慮するとした「近隣諸国条項」が検定基準に加えられたために、南京事件では30万人などという裏づけのない記述や三光作戦などもフリーパスとなっていきます。

 教科書誤報事件というのは、高校用歴史教科書の文部省検定で、検定前教科書に「侵略」 とあった記述を「進出」に書き換えさせたという非難でした。1982(昭和57)年のことです。ですが、その事実はありませんでした。
 しかし、ソレッとばかりに中国にご注進におよんだわがメディアがあり、中国(それに韓国)が日本の報道を根拠に抗議を突きつけてきたのです。そこで例によってわが政府(鈴木善幸内閣、宮沢喜一官房長官)は全面降伏するといった体たらくとなったのです。教科書誤報事件と近隣諸国条項の概要は( ⇒こちら)をどうぞ。

(4) 役目を果たし、めでたく受賞
 以上のことからでも分かるように、中国にとって本多勝一・朝日新聞記者および朝日新聞社の中国への貢献は特筆すべきものだったでしょう。


 なにせ、強権を手にしたGHQでさえできなかった贖罪意識を日本人に植えつけ、中国の顔色をうかがわずには何も言えない日本人に仕立てあげたのですから。
 となれば、朝日の花形・本多勝一記者は中国政府からたたえられ、その証として最高位の叙勲をうけて当然のことでしょう。
 中国政府からとはいきませんでしたが、「南京大虐殺記念館」は本多記者と上述の大虐殺派の先駆者・洞 富雄元早稲田大学教授(受賞時は故人)に「特別貢献賞」を贈ったのでした。2006(平成18)年9月のことです。
 この賞を受賞したのは8人だったそうですが、外国からは日本人2人、たぶん大拍手に迎えられて晴れの壇上にのぼったことでしょう。

5 「偽善は常に正義を装う」


 以下は、コラムニストとしての名声が高かった山本 夏彦 (故人)のエッセイからの引用です。

 「偽善は常に正義を装う」と題し、核心を言い当てたものと思いますので、紹介します。
 読むにあたって、「中国の旅」あるいは朝日新聞を念頭におけばドンピシャリ、分かりやすいと思います。原文には書名、新聞名こそ出てきませんが、これらも念頭にあったのはまず、間違いないかろうと思います。

〈 私は衣食に窮したら、何を売っても許されると思うものである。女なら淫売しても許される。
ただ、正義と良心だけは売物にしてはいけないと思うものである。
これを売物にすることは、最も恥ずべきことだと私は教わったが、近ごろは教えぬようだ。これこそ教科書中に明記していいことである。
この種の本の筆者は、はるばる中国へ行って、各地を調査して、生き残りに会って、話を聞き写真をとり、
たちまち何冊かの本を書く精力的な人物である。心身共に健康である。

南京の虐殺は、すでに「東京裁判」でさばかれた事件である。
中国側は途方もない人数が殺されたと主張し、日本側はその事実はなかったと争ったかと思う。
結局ほぼ12万人を殺したときまったが、むろんこれは確かでない。勝った側がおしつけた数字だから、実際より多いと思っていい。
ところが、それから20余年がたって、今度は日本人自身が問題をむしかえして、進んで人数をふやして、
すくなくとも30万人は殺したと言いだしたのである。勇んで人数をふやすとは前代未聞の事である。
健全な国民なら、自国民に不利な事は言うまいし、言ってもその国の新聞雑誌は
とりあげないはずなのに、争ってとりあげるのは、これが中国に対して世辞になるからである。
 また、中国が言わないうちに、その意を察して、さき回りして、たぶん気にいられるだろうと言うのなら、
それは世辞である。迎合である。中国人にとっては、殺された人数が多いほうがいい。
敵愾心を鼓舞するには、被害者は多ければ多いほどいいから、自然に人数は10万より20万、20万より30万とふえるのである。

 世間にはこういう屈折した迎合があるのである。ただし、これだけ屈折すると、読者は迎合だと気がつかない。
額面通り読んで、中国人にすまながる。夜も寝られぬという。どうして寝られないのだろう。
隣人の苦痛を苦痛とするからだという。けれども、彼らは父祖の、兄弟の苦痛を苦痛としない。(中 略)
この種の本が売れるのは、買えば自動的に良心と正義のかたまりになれるからで、
私はたいがいのうそはがまんするが、このうそにはがまんできない。
けれども、この冷たいものがその自覚を欠いて、他を冷たいものと難じることこそ、健康の証拠なのである。
不健康というものは、もっといいものである。ようやく健康に二種あることが分かった。

一つは昔ながらの健康、自分の非を認めないとがんばる健康である。一つは勇んで認めて、他をとがめる健康である。
とがめて日本中を全部自分と共にとがめさせようとする魂胆なのである。彼らは日本人でいながら、外国人に似ている。
 以前はソ連人に似ていたが、今は中国人に似ている。たいてい中国人と同意見で、その精神的支配下にあって、
さらに支配下になりたいと願っているから、いずれはなるはずである。・・ 〉
― 『2流の愉しみ』、講談社、1978年 ―


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