防 疫 惨 殺 事 件

― いいようのないバカバカしさ ―


 この「防疫惨殺事件」と称するものは、「週刊朝日」に掲載され、単行本・文庫本『中国の旅』に収められました。
 「事件」とは、撫順炭鉱で起きたコレラ流行時、「防疫」 の名のもとに、1000人以上 の工人(こうじん、労働者の意)を、生きたまま「人焼き場」 で焼くなど、惨殺したといいます。  「人焼き場」は中国側証人がよく口にするもので、「焼 人 炉 などと呼ぶ場合もあります。

1 「事件」のあらまし

 「韓応琢という43歳の男性」が次のように証言します。
 コレラ発生と同時に、居住するムシロのテント群には二重の鉄条網が張りめぐされ、電流が通されます。まず、過酷な検便。検便をさぼると夜中に起こされ、200〜300人が庭に集められます。そして2列に並ばされ、庭をぐるぐる歩かされ、翌朝の10時ごろまで休みなくつづきます。
 全員がふらふらになったころに行列が止められ、

〈列の中から、50歳くらいの婦人が呼びだされた。みんなの前で「ズボン」をぬげと命ぜられた。
これ以上の侮辱はない。彼女はぬがなかった。
数人の日本人が、彼女をなぐってから電柱に縄でしばりつけた。あらためてさんざんなぐると、彼女は気絶した。
縄をはずしてから、冷水をかけると気づいた。
鞭を持った日本人が、2匹の軍用犬をつれていた。鞭で彼女を指すと同時に、犬を放した。
とびかかった2匹はすぐに彼女をかみ殺し、食いだした。
行列の中国人たちは、大きな犬に音をたてて食われる婦人を、声をあげて泣きながら見た。〉

 次は「身体検査」
 検査といっても労働者の顔色を見るだけ。顔色が黄色っぽかったりすると病人と判定され、生きては帰れなくなるというのです。そこで、もともとこういう顔色だというと、こんどは四つんばいにさせて、水で満たした桶を背中にのせ、水をこぼさないでどれだけ我慢できるかをテストするのだといいます。
 こうした身体検査の結果、病気と宣告され、隔離テントに連行されます。テントは病状に応じ、1,2,3級棟にわかれています。韓証人は2級棟に入れられました。

〈ここでも1週間おきに"身体検査"があったが、さらに15日に1回、特別な検査があった。
1級棟と2級棟、つまり4棟のテントの全員が、30人1組に分けられる。
1組ごとに短距離競走のテストをさせられるのだ。「ヨーイ、ドン」で30人は丘に向って走る。
決勝点に最初に到着した者1人だけが、病気がなおったとみなされた。
あとは見ている日本人が「ここらでストップ」と判定し、
比較的前の方を走っている者は1級棟、中間は2級棟、残りは3級棟に収容される。
したがって1組30人のなかで、もとの病舎に戻れるのは1人だけだった。・・・
 この競争に参加できるのは1級〜2級の者だけだから、3級の患者はもはや救済される可能性はなかった。
・・結局、ここに連れられてきた「病人」のほとんどは、1級・2級・3級と絶望的移動をさせられた末、
死体となって出てゆく運命にあった。
 韓さんは3級棟のテントにはいってみたことがある。動けない病人たちが、腐臭を放ちながらうごめいていた。
生きている人間にウジがわいている様子は、この世のものとも思われぬ光景だった。〉

 この「証言」どう思いますか。話半分、いや一分の事実も語られているでしょうか。また、こうも証言します。

〈テント群の門近くに人焼き場があった。
地面に直径2メートルほどの穴を掘り、レールを3本ほど渡す。
穴の中に材木や石油などの燃料を入れ、レールの上へ人体を置いて焼く装置である。
1度に5〜6人の人体を横たえることができる。
まわりをブリキ板で囲ってあったが、火は終日絶え間なく燃えていた。
毎日30〜40人も死ぬ中国人たちは、ここでつぎつぎと焼かれ「防疫」されるのであった。
ときにはまだ死にきれずにいる者も、ここで焼き殺された。 〉

 ・ 正気と思えない朝日記者
 長々と引用したのには訳があります。このような工人に対する扱いが事実なら、少々の危険をおかしても誰だって逃げることを考えるでしょう。「中国の旅」の「撫順」のところで、撫順炭鉱の開発は〈中国人の命と石炭を引き換える「人肉開発」〉などと非難しています。つづく次の「証言」を注意してご覧ください。
 韓証人は、ある晩、ひそかに鉄条網を越えることに成功します。さいわい見つからずに、近くのコーリャン畑にかくれました。

〈ここで韓さんは、親類の家に1ヵ月ほどかくれていた。
隔離テントで悪化した体も回復し、「防疫」さわぎも終わっていたので、韓さんはそしらぬ顔をして炭鉱にもどった。
韓さんが脱走してからあと、隔離テントがどうなったかについては、
数少ない目撃者たちから次のような経過を韓さんは聞いた。
コレラの流行は下火になったらしく、新しく「病人」として認められる者は次第に減っていった。
1級・2級のテントの収容者は少なくなり、やがて3級棟の「動けない患者」だけになった。
するとこのテントは、中に病人たちを入れたまま石油がぶっかけられ、テントごと全部焼き殺された。 〉

 この「韓証言」、あまりにバカバカしいと思いませんか。だって、そうでしょう。せっかく、地獄のようなところから逃げ出せたのです。2度と炭鉱に戻らないはずです。「防疫」さわぎが終わったからといって、どうしてのこのこと炭鉱にもどるのですか。それに1000人もの人間がおとなしく、なされるがままに死をむかえたというのですか。
 こんな矛盾だらけの話、書く方がおかしいのです。またその本が教育現場に入りこんだのですから、朝日新聞、本多記者、学者や教育現場の方が常軌を逸しているのです。
 もっとも『中国の旅』など一連の本多の著作は売れ行きがいいので、朝日社内では誰も口に出せないのだという話を聞いたことがあります(確かな筋から聞いたものです)。さも、ありなんと思いました。
 それにしても、『中国の旅』を野放しにした歴史学者や私たちが不甲斐ないのです。

2 炭鉱側の反応

 ・ 「荒 唐 無 稽」と関係者
 「ばかばかしい」「荒唐無稽だ」「病棟まで建てて治療したのに」 と吐き捨てるようにいう元炭鉱人がいかに多かったことか。ですが、本多記者は炭鉱人の1人に会うでもなく、抗議を受けても調査するでもなく、「超多忙」などと、その場しのぎの対応に終始してきました。朝日の記者は全員が「超多忙」と見えて、今も知らん振りをつづけています。
 実際に「防疫」にあたった新見 貢 ら炭鉱従業員10余人が名を連ね、コレラ発生から終息にいたる約1ヵ月間の経過を記すとともに、

 〈先に朝日新聞の本多記者が書いたコレラ事件は誠にでたらめであり、
自信をもって否定するものであります。
実際とはかけはなれた荒唐無稽なもので抗議します。〉

 と撫順炭鉱の採炭所のひとつ、龍鳳採炭所の記録『龍 鳳』 に記しています。
 この記録によれば、発生は昭和18(1943)年 9月14日頃 、「小把頭・歩全一輩下工人、発熱下痢嘔吐し死亡す。翌日、小把頭・王銀山、郭九州、王柴山、王宝廉配下より発病者」 がでます。
 原因は不明ですが、山東方面で募集した工人300余名が着鉱、このなかに保菌者がいたと推測されたために、即時に募集を中止しました。
 そして、「防疫」( 交通遮断、予防接種1万数千人、検便、清掃消毒、保菌者の隔離など)の結果、9月末には新患もなくなり、約1ヵ月で体制解除。そして、「犠牲者は10名前後だったと思います」と記しています。

 ・ 治療にあたった医師の証言
 事件当時、撫順病院の医師として、コレラ患者の治療にあたった五味 武郷医師 の手紙(左写真)があります。五味医師は帰国後に、長野県茅野市・諏訪中央病院長等に勤務しました。

〈老虎台に2階建てを利用して一応病院を造り、
こヽにコレラ菌に汚染された者を集め、こヽで治療管理することになり、
そこの院長に誰もなる人がいないので、小生にと云うことになりました。
それから霜の降る10月末に一応コレラ患者がなくなるまで続いたと思います。

 取り扱った人数は200人以下だったと思います。こヽで亡くなった人は殆んどないと記憶します。
食餌は粟のお粥、メリケン粉の製品だった。薬品はサルファ剤が主でトレアーンだったと思われる。
尚、コレラ菌は酸に弱いので、塩酸レモネード等の使用したように思います。〉


3 「満洲日日新聞」の報道

 コレラの発生から終息にいたる経過を邦字紙 「満洲日日新聞」で相当程度、追うことができます。「中国の旅」はコレラ発生を1942(昭和17)年としていますが、明らかな間違いで、炭鉱側記録の1943年が正しいのです。
 この違いは、「防疫惨殺事件」を創作しようとする中国側の組織的なデッチ上げの証拠と考えられるのですが、山西省の大同炭鉱 で発生したコレラ問題と軌を一にしていることだけ指摘しておき、話を先に進めます。
 「北京付近に発生のコレラは蔓延の徴があり、汚染地との交通頻繁な奉天市は、侵入の危険が大きいので、・・」とする北京周辺のコレラ発生をつたえる第1報(1943年9月4日付け)にはじまり、終息まで約10回の報道がありました。
 9月9日付けは「8月26日、北京南苑にて発病、27日死亡せる患者あり。・・恰も時を同じくして豊台にて集団生活をなしをる苦力の間に、コレラ疑似患者多数発生せること判明・・」 と2桁の死者がでていることをつたえています。

〈北支に猖獗しているコレラは去る2日、遂に炭都撫順に飛び火し疑似、真正計10名の患者が相次いで発生・・。
京漢線順徳より到着した工人122名を撫順検疫所に収容、検疫を実施したところ下痢患者12名を発見、
採便の結果、うち1名が疑似コレラと決定したのに端を発しその後、
龍鳳炭鉱を中心に相次いで今日までに真正患者8名のうち死亡2名、
疑似患者(後死亡)2名の発生を見たもので・・〉( 9月10日付け )

 この報道からも明らかなとおり、工人の移動にともない撫順にコレラ菌が持ち込まれました。早期発見が大切と漢医師、一般市民にも嘔吐、下痢のはなはだしい者は市、区公所に報告するように求め、容疑発見者に50円の賞金をつけるなどしています。撫順市内の各駅では交通制限をし、予防接種証明書、検便証明書の提示を乗車の条件とします。
 間違いのないようにつけ加えますと、撫順市内を通る電車は採炭所へ通じていて、炭鉱に通う工人も日本人も、1・2等の区別はありましたが、同じ車両に乗ることも少なくなかったのです。採炭所内の宿舎に居住する日本人も工人(家族持ち多数)もいましたが、市内から通う工人も多かったのです。

 ・ 犠牲者は「22名}
 細部は略しますが、奉天市からの患者発生はなく、撫順地区だけが汚染地だったと「満洲日日新聞」はつたえています。

〈去る10月4日現在までに真正82名を摘出、爾来(じらい)隔離地区内における十数回の検便検索の結果は、
遂には細菌を見ざるに至り、13日現在82名中の半数以上の47名が全快、
犠牲者22名(死亡率27%弱)の僅少に止め、現在収容中の真性9名、保菌者4名、
合計13名は順調なる経過を辿り全快に向いつつあり・・〉(10月15日付け)

 結局、22名の犠牲者を出し、10月14日、防疫本部(9月3日設置)は解散となりました。
 「悪疫は追払った。サァ増産だ、増産だ」のかけ声とともに、ミコシが街を練り歩く写真をもって一連のコレラ報道は終わっています。
 少し長い引用になりましたが、いかに実態とかけ離れた報道が大手を振って歩き、今なお、文庫本となって学校に持ち込まれているかを知って欲しかったためです。
 なお、この「満洲日日新聞」の報道と私が聞き取った炭鉱人の話に大きな違いはありませんでした。

⇒「中国の旅」まえがき ⇒ 検証例目次 ⇒ 総目次に