鈴木師団長の「供述」と「述懐」

― 「ああ、そうですか」と肯定 ―

 中国抑留者のなかに師団長が4人、含まれていました。
 第39師団長・佐々 眞之助、第59師団長・藤田 茂、第63師団長・岸川 健一、それに第117師団長・鈴木 啓久(ひらく)で、階級はいずれも中将でした。岸川第63師団長は抑留中に亡くなっていますので、「供述書」を残したのは3人と思います。
 藤田 茂師団長が率いる第59師団は260名という最大の中国抑留者を出した師団で、既述の『天皇の軍隊』(朝日文庫)はこの師団のデタラメぶり、非道ぶりを記したものです。藤田師団長は抑留者が組織した「中国帰還者連絡会」、略して「中帰連」の初代会長となり、長い間、会長職にありました。
 鈴木師団長(左写真、歩兵団長時)は帰国後に長文の「手記」を2編残していますので、「供述書」を検証するうえでとても役に立ちます。
 佐々師団長については、手がまわらなかったために、かつての部下の「証言」などとの突き合わせができていませんが、ある程度のことは類推が可能と思います。
 ここでは、鈴木師団長の「手記」等を中心に話しを進めていきます。

1 有罪者45人の「供述書」が日本側の手に

 1998年4月5日付け朝日新聞は、戦犯裁判で有罪となった45人の「供述書」を報道写真家(新井 利男)が入手したとし、〈行為の「全体像」浮かぶ〉などの見出しを立てて大々的に報じました。
 この報道写真家は「中帰連」ときわめて近い関係にあり、中国から手に入れた今回の「供述書」を朝日新聞社と共同通信社に持ち込みました。
 このため、多くの地方紙、ブロック紙が報じたようで、「慰安所の設置命令 市民に毒ガス」あるいは「中国女性140人誘拐」などと見出しをつけた新聞もありました。また、藤原 彰・元一橋大学教授が出演(解説役)したテレビのニュース番組もありました。
 これでまた、「日本軍の底なしの悪行」が日本中に知れわたったわけで、国民の多くは「あの人たちはとんでもないことをしてくれたものだ」とあらためて思ったことでしょう。
 何度もくりかえしますが、今回もまた、裏づけ調査はまったく行われずに報道されました。頭から「供述書」を事実と決め込んでいたのでしょう(あるいは、報道機関にとって、日本軍を叩くためにはその方が都合がよかったのかもしれませんが)。
 中国人慰安婦の問題などをふくめ、報道の中心をなしたのは、鈴木師団長の供述といってよいでしょう。ほんとうに、鈴木師団長をはじめとする「供述書」は信用できるのでしょうか。  2014年7月に入って、中国はこの45人の「自筆供述書」を公式サイトで公にしましたので、どなたでも読むことができます。ただ、忍耐力は必要でしょうが。
 そこで、当の鈴木師団長はどのようなことを「手記」などに残したのでしょうか。
 ここでは概略を記すことにして、「中国人慰安婦狩り」「北支(華北)の戦闘実態」などは別項目に記述いたします。

2 鈴木師団長の「述 懐」

鈴木師団長「手記」

 鈴木中将は自筆の「手記」2編を残しました。1編は、「中北支における剿共戦の実態と教訓」(左写真、以下「剿共戦」と略)、もう1編は「第百十七師団長の回想」(以下、「回想記」)で、いずれも防衛庁の戦史室の依頼で書いたようです。
 この記録は、一定の期間(50年)が過ぎないと閲覧できなかったため、鈴木師団長の親族にお願いしたところ、「正史を残すべし」 とし、こころよく許可していただき、コピーを入手することができました。現時点では50年が経過していますので、どなたでも読めるのではないでしょうか。
 前者は400字詰め原稿用紙で100枚余、後者が150枚余とかなりの長文です。また、これとは別に短いながらインタビューの記録が残っていますので、先にこちらの方からご覧いただきます。

(1) インタビューでの発言
 インタビューは1979(昭和54)年6月、出身校だった仙台陸軍幼年学校の会報「山紫に水清き」の手で、会津若松市にある師団長の自宅で行われました。
「どんな事実でも、やはり事実は事実として後世のために残しておくべきではないでしょうか」の冒頭の質問に、

「私は明治の化石と称しているの。明治の化石で、現在の役には立たないんだと。
もう資料は全部破いて捨てることにした。ただ、防衛庁に出したものは残っているかもしれない。
戦史課の方へ出したんだが。あんなものは残すもんじゃないと思っている。」

 と語っています。その提出資料が上記の「手記」2編というわけです。
 中国抑留中に日課とされた「学習」について、

「ソ連は勉強しろなんて言わなかったが、中国は反対に学習ということになると目の色かえてやった。
マルクス経済学で、みんな忘れちまったけど、読んで各節にわたって問題を出されて、
その問題の解釈なり答解を出す。それが学習です。・・ 」

 と話し、「中国ではどんな裁判だったのですか」 の問いには次のように答えています。

「軍事裁判で一審だけですからな。
弁護人だって“上官の命令を受けてやったんだから、仕方ないじゃないですか”
と言うだけだから、あまり弁護にもなりませんよ。
そして、ありもしないことを住民はな何だかんだといいますからね。
“鈴木部隊が、ここにこういう風に入ってきた”と住民が言うので、
“そんな所に私の兵隊を配置したことはありませんよ”といったって、
“住民の言うことに間違いはない”と言うんだから。
まあ、他隊の者がやったこともあるでしょうし、
広い場所だから、やっぱり止むを得ないんですよ。罪を犯した本人が居らなければ、
そこにおった司令官が罪にされるのは当然だと思って、”ああ、そうですか”って。
中国でも人民裁判で殺された人間は、どれだけあるか判りませんよ。
一説に4千万人といわれていますね。・・」

「ありもしないことを住民が何だかんだといいますからね・・」についてですが、「ありもしないこと」とは、おそらく次のようなものも含めた話だと思います。

「1942年4月、被告人は所属部隊を指揮し『豊潤大討伐』を行なわしめ、
河北省遵化県魯家峪郷において ・・平和的居住民220人余りを虐殺した。
・・18歳の娘は毒ガスにあてられながらも逃げ出したところを輪姦されて死亡、
・・の妻の李氏は強姦を拒んで腹を裂かれ、妊娠中の胎児をえぐり出され、・・ 〉

 妊婦の腹を裂き、胎児を取り出したうえ投げ捨てたと証言する「平和的住民」の申し立てはほかにもたくさんあり、抑留者の記録(例えば「手記 胎児」)もその一例です。
 魯 家 峪(ろかよく)における戦闘について、師団長は詳しい記録を残していますので、余裕があれば紹介したいと思っています。

(2) 「百十七師団長の回想」より少し
「回想記」の中で、「660名虐殺」とした罪行を問われたことに対し、以下のように書いています。

〈戦犯として調査を受けたる際、・・村民660人を虐殺した事件があったと告訴された。
之に関し「討伐は滑県南側で終了したので長垣県には一兵も進入しない」
と説明したが、其の地方住民の報告として、
「鈴木部隊の兵が衛輝ー長垣間道上、数箇所に駐屯していた」と称する要因によって聞き入れず、
之亦(これまた)「師団の兵力の関係上、斯くの如く
多くの兵を広範囲に分散すること不可能」たる由を説明したが、
之亦納得する至らなかった。しかし、之れも事実が存する限り、師団長の責任と認める外なかった。
此の要因に対する真偽は論駁する資料がないので否定出来ないでしまった。〉

 上述した「ああ、そうですか」といって罪を認めたのは、この「660名虐殺」等についてと思います。そして、

〈もとより戦犯として判決されたのは、前2例のみに依るものでないが、
起訴の事実の中には釈然たらざるものあることは、
前2例のようなものも相当に含まれおるに思いを浮べ感無量である。
特に「戦犯」とは敗者のみが負わしめられる刑となるにおいておやだ。〉

 と記してありました。師団長のあきらめの想いがつたわってくる内容です。

3 藤原 彰・元一ツ橋大学教授は全面肯定

 鈴木啓久師団長を先頭に、45人のうち8人の「供述書」が月刊雑誌『世界』に連載され、単行本にもなりました。そのなかで、藤原元教授は「史料の意義について」 と題し、解説を書いています。
 一言でいえば、「供述内容」を全面的に信頼できるとした肯定論です。藤原にとっては1点の疑いもないらしく、感心してしまうほどの傾倒ぶりです。
「世界」にある肯定論の一部をそのまま記しておきます。 

〈第一に、その供述の内容がきわめて具体的で、正確であるといえることである。
これは他国のBC級裁判には見られない特徴で、
本人が事実をすべて認めているだけでなく、その内容がきわめて詳細でかつ正確なのである。〉

と断じ、このことは『戦闘詳報』などの日本軍の他の史料と照合してみても明らかであり、

〈これは作り話をでっち上げたのではなく、
事実をなるべく率直に告白しようと努力した結果であるということができよう。
そしてこのことは、本人の記憶だけに頼ったのではなく、
他の逮捕者たちの供述と照合し、
相互の矛盾が起こらないように
できるだけ事実に近づく作業がくりかえされたことをも物語っている。〉

 これらの解説を読み、ただただ唖然とします。藤原元教授の「南京虐殺20万人以上」という主張と合わせて考えたとき、妙に納得してしまいました。ここまで目が曇っているのかと。

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