なぜ「罪の意識」が希薄なのか

― 語り部たちの共通点 ―


 中国戦犯(中国抑留者)が中国に書き残してきた「手記」や「供述書」には、一読して首を傾げたくなる残虐行為が少なくありません。また、帰国後に彼らが話し、また書いた「証言」からも同じ印象を強くうけます。
 個々の事例は別項(中国抑留者「証言」を検証する)をご覧いただくとして、以前から怪訝というか疑問に思っていたことがあります。
 というのは、あのような悪質かつ破廉恥な犯罪、それらの多くは戦争犯罪というより個人犯罪と呼ぶのがふさわしい犯罪を犯した人間が、メディアのインタビューを受けては、映像や顔写真付きで大きく報じられ、また大勢の前でああも簡単に話せるものかと、なんとなく合点がいきませんでした。その多くが「語り部」といわれる限られた人にしてもです。
 犯した犯罪が悪質であればあるほど、破廉恥であればあるほど、話したがらないのが自然でしょう。何かの目的のために、話す決意をしたにしても、どこかその態度が気になっていました。彼らは「鬼が人間になった」、「撫順の奇跡」などというのですが。
 著名な精神科医(現関西学院大学教授)・野田 正彰の著作に『戦争と罪責』(岩波、1998年)があります。この書は私の疑問に答えてくれた貴重なものと思います。ここではこの問題を含め、認罪にいたる経過などを合わせて、考えて見ることにします。

  1   『戦争と罪責』について

戦争と罪責

 この本は月刊誌「世界」に連載、後に単行本になったもので、8人から聞き取ったことを主体に、精神医学上からさまざまな分析が加えられています。
 8人のうち6人までもが中国戦犯で、この人たちに多くのページが割かれています。
 なかでも、第59師団独歩44大隊機関銃中隊の中隊長であった小島 隆男中尉 (終戦時は大尉)に最も多くのページが費やされ、聞き取った残虐行為に対し種々の分析がなされています。
 小島中尉については、所属した独歩44大隊の多くの将兵からかなりの話を聞いていますので、検証が比較的しやすいため、小島中尉の例を中心に検討したいと思います。

  2   小島隆男中尉の場合

 「黄河が海に流れ込む山東省の内陸部で、小島中隊は当時の日本陸軍が行った悪事のすべてにかかわっている 」とし、小島中隊の残虐行為は「数頁で書き尽くせるものではない」と野田教授は書いています。
 その悪事の一つに「中国人強制連行」(労工狩り)があり、ここでもその模様が語られています。この「労工狩り」について、小島中尉はテレビ・新聞・集会等でいくたびとなく“証言”しています。
 ですが、彼のこの“証言”、まったくのウソ話です。別項の「労工狩り」を参照ください。

  @  「認罪」までの経過と野田解釈

 まず、撫順戦犯管理所での小島中尉に対する取調べの模様を同書から抜いてみます。
  〈 書類を出すとすぐ、呉浩然指導員に呼ばれた。談話室に入っていくと、
 「小島、お前は帝国主義思想だ」
 それで終り。他に何も説明はなく、班長を呼んで房にもどされた。
 こうなると、不安でたまらなくなる。帝国主義思想だと言われた。もう帰れない、いつ絞首刑になるのだろう、いつ銃殺されるのだろう。
 「すぐにもやられるような気もしますし、もう夜が眠られないのです。二日、三日と眠られない。
 軍隊のなかでどんなに苦しいときでも、殴られてもごまかしながら生き抜いたのも、帰りたい一心です。ソ連で五年間耐えられたのも、日本へ帰る望みがあったから。よく坦白(中国語で罪行の告白)する者は日本に帰す、頑強に抵抗する者は処罰する、と言っている。これはもうなんとか帰させてもらわなくきゃと気を取り直して、また書くわけです」
報告書を出すとすぐ呼ばれる。
 「お前は帝国主義思想だ」
 呉浩然指導員の答えはそれだけ。何が帝国主義思想なのか、いかなる説明もなかった。小島さんはますます滅入ってしまうのだった。〉


 呉浩然は、前項で記したように、尉官以下700人の「思想改造」にあたった管理所側の主要な指導員です。
 そこで「坦白」(タンパイ)したのが堤防決壊事件です。小島中尉は野田教授にこう説明しています。
 〈 ばれるのなら言うより他ないと考え、私が坦白した最初の事件は堤防の決壊です。なぜかと言いますと、堤防を決壊したのは殺したわけではありませんから、血を見ていない。人間を殺してないから、大した罪でないだろうと考えたんです。もうひとつの理由は、・・・(略)〉

 事件というのは、連日の雨のため、あふれるばかりに増水した運河を絶好の機会ととらえた日本軍は、運河を決壊させることによって、流域の農民を根こそぎ抹殺したというものです。決壊の実行は、小島中尉が数人の部下とともに行ったとし、犠牲者は2万人とも20万人とも言われています。
 この事件の詳細については、別項731部隊「コレラ作戦」をご覧ください。そうすれば、「供述書」「手記」、また帰国後の「証言」がどの程度信頼できるのか、あるいはまったく信用できないものなのか、判断が可能と思いますので。

 小島中尉のこの告白について、野田教授は次のように解釈しています。
 〈 彼が振り返るように、ここにあるのは罪と罰の取引である。何のための堤防決壊だったかはすっかり忘れている。小島中隊長は、濁流がどれだけの集落を潰滅できるか、計算しながら決壊箇所を決めている。堤防決壊によって、下流に住む多くの老人子供が溺死し、鉄道は不通になり、住居も食物も失って多数が餓死している。その結果と被害者の怨念を想像することなく、多くの悪行のストックから、どのカードを切れば「許される戦犯」になれるか、慮ったのである。〉

 野田解釈、どう思いますか。
 堤防決壊という小島中尉の「坦白」が動かない事実なら、「何のための堤防決壊だったかはすっかり忘れている」ことについての疑問を、「罪と罰との取引」というように解釈するのも可能かもしれません。
 ですが、もしこの坦白が虚偽としたらどうでしょう。堤防決壊の目的を「すっかり忘れている」ことは、むしろ当然のことと考えなくてはならないでしょうし、野田教授のこの解釈、まったくの見当はずれ、珍解釈ということになってしまいます。
 ですから、事実であるかどうかの検証を最優先させるべきなのです。
 この事件について、小島中尉は帰国後もいろいろなところで証言していますから、それらを読みくらべるだけで、説明のつきにくい矛盾点がいくつも見つかるはずなのです。とにかく鵜呑みは危険です。

 引用をつづけます。
 〈 この告白の後、例によって呉浩然指導員からすぐ呼び出された。今度は、
 「小島 お前は進歩した」
 といい、彼は嬉しそうに握手を求めた。小島さんは「しめた、褒められた。これで俺は日本へ帰れるかもしれない」とほくそ笑んだ。
 ひとつ書いて褒められたのだから、もう少し書いてやろう。そこで、今度は、拷問や刺殺を四つほど書いて出した。 〉


 期待に反して、呉指導員の評価は変わらず、「帝国主義思想にすぎない」と批判されます。
 ほめられると思って書いたのに、どうして評価されなかったかを同室者と討議し、「やったことが悪かったと謝る精神はひとつも入っていない」ことにどりついたというのです。
  〈 小島さんは部屋に帰り、今度は思い出せる限りの悪行を紙に書き始めた。・・(略)・・
 もらった紙を米粒で貼り合せ、中国人を殴ったぐらいのことを含めて、書き込んでいった。だが、思い出し切れない。部下に命じてやったことは、どこか曖昧となる。それでも一〇〇項目を越えた。そのなかで、告白に値すると思うものを総て清書し、呉浩然指導員に提出した。〉

 このように、「坦白」が指導員に認められるまでの過程は、小島中尉だけではなく、抑留者全員がたどった道でした。「何度も提出しては書き直し、提出しては書き直させられた」と私の会った抑留者は話しています。
 こうして1955年春、小島隆男中隊長の「認罪」が成立したというのです。

 小島中尉は、NHKのテレビに出演し、
 〈 当時、私は懸賞金がついていたでしょう、おそらく。小島中尉を捕まえればどうだ、殺せばどうだという懸賞金がつけられていたと思いますよ。いわゆる日本の鬼の典型だったわけですよ。・・〉
 などと、自らの悪辣ぶりを強調していました。
 ですが、小島中尉直属の部下の見方とは大きな隔たりがあります。機関銃中隊に所属し、小島の在任期間のすべてを直属の部下として小島を見てきたU元軍曹は、
 「いるのかいないのかわからないような中隊長でした。率先してなにかやる中隊長ではなかった」
 と説明しています。
 U軍曹は、「どうしてウソをいうのか}と小島に電話をかけ、理由を問いただしてもいます。そのときの小島の答えは「人にはいろいろあるから」といった要領を得ない発言しかもどってこなかったようです。U軍曹は「何を言っているのかよくわからなかった」とも話していました。
 また、U軍曹と同様、小島中尉の直属部下だったTは、「小心な人でした。兵隊に対しては温和に接した人です。残虐なことはありません。何の都合か法螺(ホラ)を吹いているようです。」と書いています。
 小島も埼玉県、UもTも同県に居住していますので、小島の“県内での活躍ぶり”をかなり知っていました。小島の自称する「鬼の典型」とは、およそ縁のうすい人柄というのが、小島を知る将兵の一致した話です。

  A  なぜ「説明的」なのか

 野田教授は小島中尉の語る戦争体験について、以下のように解釈を加えています。
   〈 私は小島さんの戦争体験を聞いていて、いつも説明的であると思った。これこれだから、私は酷いことをしたという。だが、罪責感とはより直接的な体験の想起であり、今は思い出したくないと思っていても、日常の意識に侵入してくるものである。もしそうでなければ、彼は元中隊長として自分の行為を解釈しなおすことはできたが、ひとりの人間としては本当に傷ついていないことになる。彼においてすら傷ついていないのなら、日本人将兵に戦争における罪責感を求めることはほとんど絶望的だということになってしまう。〉

 小島中尉の語る残虐行為は「いつも説明的」であり、ひとりの人間として傷ついていないと教授はいいます。長時間、元中尉から聞き取りを行った野田教授のこの感想は、的確なものと私は受けとめました。ただ、日本人将兵へと一般化、普遍化したのは短絡でしょうが。
 さらに野田教授は小島中尉に「罪の意識に分け入る」質問をつづけます。
 ですが、残虐行為を語るものの「罪の意識」があったのか、それすらわからない。さらに問いをつづけます。すると小島中尉は「低い声で語り始め」ました。
 「そうですね・・・。これは語りたくないから、家族にも言ったことはないんです」として、あらたな「部落民全員皆殺し」および「一家皆殺し」を告白します。
 「誰にも言ったことのない話」が、こういう具合にでてくるのです。前者については、彼の「労工狩り」証言とつき合わせれば、根本的な矛盾があって信頼性は簡単に崩れるのですが、ここでは後者の一家皆殺しについて書いておきます。
 〈 私は黄河の堤防の上に一軒家を見つけ、兵隊を連れてなかを調べに行ったんです。そしたら、家のなかに年寄りと若夫婦と小さい子供が二人、一家五人がいたんです。
 兵隊は『隊長、どうしますか』、僕は『殺せ』と言ったんです。そこで兵隊は五人を並べ、一発の弾で撃ち殺したわけです。五人をくっつけて並べ、一発でドカンです」
 「翌日、出発に先立って、その家へ兵隊を連れて見に行ったんです。爺さんは絶命、若夫婦も絶命、上の子供も死んでいました。ところが、下の子供が土間で仰向けになり、大きな眼を開いて私を睨んでいる。まだ生きているんです」
 小島さんは多数の中国人を拷問し、その後で「隊長、どうしましか」と問われると、男女を問わず刺し殺させていた。だが、自分が直接手を下したわけでもないという言い訳が、どこかにあった。このエピソードも、いつもの殺害命令のひとつとして忘れていた。〉


 この話を何の疑問を持たずに信じる、信じられる。そしてあれこれ分析を加える。ただただ、ため息が出てきます。
 小島は殺害の様子を、「そこで兵隊は五人を並べ、一発の弾で撃ち殺したわけです。五人をくっつけて並べ、一発でドカンです」と説明しています。
 これをおかしいと思わないなら、想像力がよほどないのか、無知とし思えません。
 屋内にあって、一発の弾で並べた5人を撃ち殺す、一体、どのような弾を使用したというですか。教えてほしいものです。「ドカン」と表現するのですから砲を使ったのですか。
 小島は機関銃中隊の小隊長(少尉)・中隊長(中尉)のとき以外に、山東省にあって部下を持ったことはありません。それに、この話は小隊長時代のはずですから、こんな光景はまず、起こりえないのです。

 そして、野田教授は、
 〈 戦争にかかわらなかった世代も、小島さんのような人に沈黙を強いるのではなく、彼の本当の悲しみ、戦争における罪を意識して生きる意味を聞きとることによって、強張った歴史観から自由になれる。知識と同じように、否、知識以上に、感情は大切に育てられ豊かにされなければならない。老兵の悲しみ続ける心に共感することによって、戦後世代も感情を豊かにできる、と私は思う。〉

 というのですが、誰が沈黙を強いたというのでしょう。自らしゃべりはじめ、メディアなどに聞かれるたびに、しだいにエスカレートしていったのです。

  3   永富博道・元曹長の場合

 永富博道の書いた軍歴によれば、1941(昭和16)年2月、北支派遣軍・第37師団の重機関銃中隊に入隊、終戦時は第114師団保安隊指導官(曹長)として山西省に駐留していました。
 終戦後、日本残留軍(第1軍)は八路軍との戦いに敗れ、いわゆる「太原組」の一人として永富元曹長は収容所生活を送ります。
 彼も中帰連の活動家の一人で、新聞・テレビ・映画・講演会などで日本軍の悪行を積極的に告発しています。ベッドに横たわったまま、中国(人)に謝罪する姿は、NHKテレビや朝日新聞で大きく報じられましたので、ご記憶の方もおいででしょう。また、『レイプ オブ 南京』にも、残虐行為の証言者として登場します。
 野田教授は永富からの聞き取り後、次のように書いています。
 〈 永富さんはあれだけの悪行を働いておきながら、自分が捕虜になったとき、報復されるだろうとは、まったく思っていなかった。〉
 と。
 悪行の程度が悪質であればあるほど、捕まれば報復(殺害)されると思うのが普通でしょう。また、なんらかの「罪の意識」は持ちます。心ならずも残虐な事件に加わった人たちは、私の知っている限り、例外なく後悔の念を、苦渋の言葉や態度で示しました。
 ですから、永富が犯した「悪行」は、それほど悪質なものではなかった、あるいは彼の創作、という疑いを私は持ちます。だからこそ、野田教授は永富から「罪の意識」を感じとれなかったのだと。
 教授はこう書いています。
 〈 私は永富さんの話を聞いていて、やはり日本の文化には罪を感じる力は乏しいと思った。彼は自分が行った残虐な光景を想い起こし、自我が苦しんでいるわけではない。過去の体験を反復して想起する苦しみを通して、なぜ一方的な思い込みの行動をとり続けたのか、分析を深めているわけではない。
 もちろん、彼が帰国した六○年代日本の社会で、彼の行為の意味を問いかけ彼が傷ついているものは何であり、傷ついていない心とは何か、問いかけた者はいなかった。「中国帰り」、「洗脳」といった、その内実を知りもしない言葉でラベルを張り、排除しようとしただけである。〉

 というのですが。
 ただ、「あれだけの悪行」と書いているものの、具体的な「悪行」がどのようなものか紹介されていませんので、その程度がよくわかりません。
 そこで、『レイプ オブ 南京』から、永富証言をご覧にいれましょう。


『レイプ オブ 南京』  〈 日本では医者とし、永富は待合室に悔恨の社を建てた。患者たちは、南京における裁判と彼の犯罪の全告白をビデオテープで見ることができる。医者の優しく、人なつこい態度から、過去の恐怖や彼がかつては冷酷きわまりない殺人者だったとは想像できない。
 「兵隊たちは赤ん坊を銃剣で串刺しにし、生きているまま湯のたぎるポットに投げ込んだのを知る人は少ない」と永富は言った。
 「兵隊たちは12から80歳までの女性を集団強姦し、性的要求に役立たなくなると殺した。私は首を斬り、餓死させ、焼き、生き埋めにし、その数は200人を越える。私は野獣となって、こんなことをしてしまったのは恐ろしいことだ。私のやったことを説明する言葉はまったくない。私は本当に悪魔だったのだ。」〉


 この本で永富を「doctor」としていますが、職業は鍼灸師です。さて、これらの“悪行”、どうお考えでしょうか。
 一人の人間が殺害した人数の多さといい、殺害方法といい、きわめつけの悪質さとでもいうのでしょうか、変質者でもこうはいかないのではと思います。
 私も多くの将兵から残虐事件、残虐行為を聞きとってきました。非難されて当然、弁解しようもない行為もありました。でも、それなりに説明がつくし、想像もつくのです。
 ですが、この永富の行為、説明のつけようがありません。一人の人間がこんな残虐行為(質と量)を行ったという話は聞いておりませんし、想像もつきません。それに永富は重機関銃中隊所属というのでしょう。日本刀(?)を持ち歩くわけもなく、餓死させ、生き埋めにするなど、整合性がおよそないのです。
 まして、こんな事をした人間に、「罪の意識」がまったくなかったなんて、信じようもありません。証言が「虚偽」ならば、「罪の意識」のないのも無理なく説明がつくというものです。

  4  何を言いだすことやら

 このように、証言者が起こした残虐行為について、もろもろの精神医学上の分析を加えた結果、それらに対する「罪の意識」を語らない理由として、「日本の文化には罪を感じる力は乏しいと思った」という結論を引き出しています。
 そのあげく、
 〈 敗戦後、戦争にかかわった日本人はすべて撫順戦犯管理所に入れるしか、表面的にも変わる道はなかったのではないか、と思えてくる。だが、何千万という私たちの父母を教導してくれる、そんなに多くの指導員はどこにもいない 〉

 とまで書いてしまいました。「罪を感じる力の乏しい」日本人を矯正するために、全員撫順戦犯管理所(監獄)に入れる・・。ただただ、呆れるばかりです。

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   「榎本正代証言を検証する」を合わせてご参照ください。

―2006年12月25日より掲載―



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