南 京 虐 殺(9−3)

―主要な事件(3) ―
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3 佐々木支隊関連

 包囲網構築の一環として、南京城の東部から北部に向けて進軍する第16師団(中島今朝吾中将)は、12月初旬、隷下の第30旅団(佐々木到一少将、33、38連隊の2個連隊基幹)から38連隊および33連隊の第1大隊を抜いて佐々木支隊を編成、最大の要所と目された紫金山の北側を迂回、下関に向け急行するように命じました。中国軍の退路を断つ狙いです。支隊は仙鶴門鎮から堯化門へと進み、下関を目指しました。

 第16師団(中島今朝吾中将 中沢三夫参謀長)

   第30旅団  (佐々木到一少将)
     33連隊 (野田謙吾大佐 津)
     38連隊 (助川静二大佐 奈良)

   第19旅団
      9連隊 (京 都)
     20連隊 (福知山)

 残る33連隊主力(第2、第3大隊)は予定通り紫金山に向い、ここで迎え撃つ中国軍最強といわれる教導総隊 と稜線上で死闘を展開します。
 佐々木支隊は12日には南京城壁に接近、13日午後1時40分(後述参照)、配属された軽装甲車を先頭にして下関に突入、ここで多数の敗残兵と遭遇 、

「渡江中の敵5,6千に徹底的大損害を与えて
之を江岸および江中に殲滅」
―38連隊「戦闘詳報」―

 します。
 一方の33連隊主力は苦戦を強いられながらも紫金山第1峰を攻略、のちに佐々木支隊に復帰した主力は、13日朝8時、天文台を占拠したのち、太平門を占領、ここに1個中隊を残し、下関へと向かいます。
 33連隊主力の下関突入は、軽装甲車を先頭に38連隊が突入したおよそ1時間後のことでした。33連隊の「戦闘詳報」は、「江上で殲滅した敵は2千を下らず」などと記録しています。
 なお、太平門に残った1個中隊に関連した出来事が「太平門虐殺」と大虐殺派がいうものです。

(1) 佐々木支隊長、中島師団長の記録
 佐々木到一少将は「私記」を残し、また第16師団長・中島今朝吾中将は「陣中日記」を残し、ともに『南京戦史 資料集』に収録されています。下関に入った12月13日の記録に何と書いてあったのでしょうか。

  @ 佐々木到一少将「私記」
 まず、下関を中心に、包囲する日本軍の布陣を次のように記しています。

〈前述する如く、(13日の)午前10時、我 支 隊の軽装甲車が最初に下関に進出して
完全に敵の背後を絶ち、また我歩兵は北面の城門全部を占領封鎖して敵を袋の鼠とし、
少し遅れて第6師団の一部が南方より江岸に進出し、
海軍第11戦隊が遡江して流下する敵の舟筏を掃射しつつ午後2時下関に到着し、
国崎支隊は午後4時、対岸浦口に来着した。
その他の城壁に向かった部隊は城内を掃蕩しつつある。実に理想的の包囲殲滅戦を演じているのであった。〉

 下関には北方より佐々木支隊、南方からは第6師団、揚子江の対岸に国崎支隊(41連隊基幹・第5師団第9旅団)が進出し、また海軍も揚子江を遡上したことによって理想的な包囲殲滅戦を演じていると佐々木少将は判断しています。
   私記は問題となる以下の記述につづきます。

〈この日(注、13日)、我支隊の作戦地域内に遺棄された敵屍は1万数千に上り
その外、装甲車が江上に撃滅したもの並に各部隊の俘虜を合算すれば、
我支隊のみにて2万以上の敵は解決されている筈である。
午後2時ごろ、概して掃蕩を終わって背後を安全にし、部隊を纏めつつ前進、和平門に至る。その後、俘虜ぞくぞく投降し来り数千に達す。
激昂せる兵は上官の制止をきかばこそ、片はしより殺戮する。多数戦友の流血と10日間の辛惨を顧みれば、
兵隊ならずとも「皆やってしまへ」といいたくなる。白米はもはや1粒もなし、城内にはあるだろうが、
俘虜に食わせるものの持ち合わせなんか我軍には無い筈だった。
和平門の城壁に登って大元帥閣下の万歳を三唱し奉る。この日天気快晴、金陵城頭到る処旭日旗のへんぼんたるを見て
自然に眼頭が熱くなった。中央門外に舎営、美しき寝台あれど寝具なし、南京米を捜し出してくる。(今夜はゆっくり睡られるぞ)〉

 上の引用通り、佐々木支隊は12月13日に、「2万人以上の敵は解決されている筈」としています。「解決」=「殺害」ではないのですが、「解決」の内訳は次のようになるでしょう。
 敵遺棄死体1万数千+装甲車の江上攻撃によるもの+各部隊の俘虜数千=2万人以上
を解決。

 この私記と対比されるのが佐々木支隊を隷下に持つ16師団長の中島日記です。
 なお、13日の朝、佐々木支隊は中国軍の大軍に襲撃されました。チェコ銃(軽機関銃)を腰だめで撃ちながら、5〜600人の中国兵が何回も何回も来襲してきます。「くるわ、くるわ、あっちにもこっちにも実に夥しい敵兵である。彼等は紫金山頂に在った教導師の兵で、血路を我支隊の間隙に求めて、戦線を討って出たものであった。銃声の声に怒号罵声すら聞こえている」と私記にあり、接近戦であったことがうかがえます。
「激昂せる兵は上官の制止をきかばこそ、片はしより殺戮する」も、このような激戦の余韻が残っていた段階の出来事でしょうから、「戦闘の継続」という見方も可能でしょう。

A 中島今朝吾中将「日 記」
 12月13日から主要なヵ所を抜きますが、便宜上、前半と後半に分け、連番(1〜4)をつけてあります。

1 かくて敗走する敵は大部分第16師団の作戦地境内の森林村落地帯に出て又一方、鎮江両塞より逃て来るものありて到る所に捕虜を見到底其始末に堪えざる程なり。

2 大体捕虜はせぬ方針なれば、片端よりこれを片付くることゝなしたるも、千5千1万の群集となれば、これが武装を解除することすら出来ず、ただ、彼等が全く戦意を失い、ぞろぞろついて来るから安全なるものの、これが一旦騒擾せば始末に困るので部隊をトラックにて増派して監視と誘導に任じ、13日夕はトラックの大活躍を要したり。しかしながら、戦勝直後のことなれば中ゝ実行は敏速には出来ず、かかる処置は当初より予想だにせざりし処なれば参謀部は大多忙を極めたり。

「大体捕虜はせぬ方針なれば、片端よりこれを片付くることゝなしたるも 」 とした部分は、教科書を含め頻繁に引用されますが、この解釈も論者によって一応ではありません。
 一方は、「捕虜はとらない方針、つまり殺害を意図していて、片端から(投降兵)を殺害する(した)」と解釈し、一方は、「 武装解除後に投降兵を追放して捕虜とはしない」の意に解釈します。決定的な新資料がでれば別ですが、双方の解釈に歩み寄りは考えられませんから、議論は平行線のままになるでしょう。
 となれば、事実において、16師団わけても佐々木支隊が敗残兵、投降兵をどう処置したかにかかってくるでしょう。
 次は後半です。

3 後に到りて知る処に依りて、佐々木部隊だけにて処理せしもの約1万5千太平門に於ける守備の1中隊長が処理せしもの約1300、その仙鶴門附近に集結したるもの約7、8千人あり、なお続々投降し来る。

4 この7、8千人これを片付くるには相当大なる壕を要し、中ゝ見当らず一案としては100、200に分割したる後、適当のヶ処に誘きて処理する予定なり。

 まず、4ですが、この文と2の「大体捕虜はせぬ方針なれば、・・」を合わせれば、中島師団長に捕虜殺害の意図はあったととるのが素直でしょう。ただし、実際がどうであったかは別問題で、現にこの「7、8千人」は収容されていて、殺害の事実はありません(後述)。
 ですが、この記述を受けて、〈当時の師団長日記には「捕虜はせぬ方針」で臨み、12月13日の1日だけで「2万5000人の捕虜を片付けた」 と記されている〉と、高校教科書「日本史」の原稿本段階で書き、文部省に検定申請した例があります。
 執筆者は君島 和彦・東京学芸大学教授で大虐殺派の1人です。
 ご覧のように、中島日記に「2万5000人」と明記した記述はありませんので、多分、「15000人+1300人+7〜8000人+続々来る投降兵」ということなのでしょう。ですが、13日だけで、2万5000人の捕虜を片付けた(殺害した)というためには、それぞれの捕虜殺害が立証されなければなりません。
 結論だけ書けば、教科書調査官からのクレイムの結果、「2万数千」に修正、さらに太平門の1300人は自衛の結果であり、仙鶴門附近の7〜8千人は殺害の事実ナシとの研究者からの主張が反映したのでしょうか、最終的に「1万5000人」となりました。1万人少なくなったわけです。
 ですが、この1万5千人だって信頼性に乏しいものなのです。このように、立証されていないにもかかわらず、日記に書いてある人数をそのまま教科書に書いてしまう近現代史を専門とする大学教授がいかに多いことか。こうして積みあがった結果が「虐殺数20万人以上」などという馬鹿げた数になって闊歩するのです。
 以下、個別に見ていきます。
 
(2) 太平門での出来事
 まず、太平門に残った1ヵ中隊に関わる「事件」です。上に記したように、12月13日午前9時30分頃、紫金山を下った33連隊のうち、先を進む第6中隊(辻 四五郎中隊長・大尉)がいちはやく太平門を占領しました。連隊主力は第6中隊をここに残し、下関へと急行します。
 太平門の出来事というのは、この第6中隊に関するもので、中島師団長の「日記」にある「太平門に於ける守備の1中隊長が処理せしもの約1300」に該当します。この出来事も“虐 殺”として、大虐殺派は虐殺事件の列に加えます。
 1ヵ中隊ということもあって、関連する資料、証言がいくらもなく、細部はわかっておりません。1ヵ中隊は通常なら200名程度ですが、紫金山の激闘を経るなど兵の消耗が大きく、わずか「54名」(東中野修道『再現 南京戦』、草思社、2007年)だったといいますから、なおさら証言など手がかりが少ないわけです。

・ 古山 義則1等兵の証言
 数少ない証言者、第6中隊の古山 義則1等兵は次のように述べています。現場にいた証言者は、あるいは古山ひとりかもしれません。
 古山1等兵の目にしたものは、太平門付近一帯ではおびただしい数の中国兵が下関にむかって逃げて行き、一方では投降兵が出てくるという光景で、

300人ぐらいの敗残兵が投降して来た。
この軍隊が反抗したので騒ぎが大きくなり、
封殺、同士討ちが行われ、大変な被害が出たと思われます。
このことが南京虐殺と宣伝されているのではなかったのでしょうか。
戦争ですから反抗してきた部隊は攻撃しました。
それでないと私たちが虐殺されますから」
―『再現 南京戦』、原典は『魁 ―郷土人物戦記』、伊勢新聞社、1984年―

 古山証言通り、投降兵が反抗したのであれば、日本側の対応に非はなかったといってよいでしょう。投降兵が武装解除後に反抗に出たのか、反抗とは具体的に何なのか、また反抗のキッカケは何だったのか等、事情はよくわかりません。ですが、投降兵が武装解除後も手榴弾などを隠し持ち、日本側が手薄とみれば反撃してくるのは珍しくなかったことで、いろいろと証言等が残っています。
 現に古山1等兵は敗残兵の死骸整理中(夜8時過ぎ)、突然3発の手榴弾に見舞われて、6名の死傷者が出、「その一人が私」であったとし、城内の飛行場に開設された野戦病院に入院したと証言しています。

・ 堀 曹長の記録
 この出来事に関連して、16師団通信隊の堀曹長の戦前(?)の記録(込山繁上等兵編『想出集』)があり、『本当はこうだった南京事件』(板倉由明)にその概要が紹介されています。以下、要約しますと、
 紫金山から太平門を目指して降りだすと、各所で敗残兵と遭遇、ともに行動する予定だった33連隊の14〜15名は危険を感じ、引き返してしまいます。堀曹長を含む通信隊1ヵ分隊7名は、いやがる苦力6名を督励し進みます。
 紫金山頂北西3キロの地点で、白旗を掲げる1団と遭遇、さらにまた1団と投降兵がつづくので、師団本部に状況を通信するとともに全員を武装解除、その場に座らせ、命令を待ちました。捕虜は500名を超えていたといいます。
「直ちに救援隊を送るからその位置におれ」との命令のため、夕方まで待ったものの救援は到着しません。捕虜は動揺しはじめ、必死に静めるよう努力したが、日本兵にも恐怖感がただよいだします。やむなく伝令を太平門に走らせ、救援を依頼したが、第6中隊の兵力が僅少で救援は得られず、守備の中隊長から「君等が此所まで引張ってくれば引受ける」とのこと。そこで、兵3名が手真似足真似で捕虜を引き連れ、残りが警戒と通信機材をかつぐ苦力を監督しながら、ようやく守備隊長に引き渡したというのです。
 引き渡した約1時間後、この敗敵は数発の手榴弾を投げ、警備兵に損害を与え、約200名は遁走した、と堀曹長は記しているとします。

 古山1等兵証言の「約300人」と堀曹長のいう投降兵「500名以上」を合わせれば、約800人の捕虜が第6中隊の管理下におかれたことになります。この捕虜が同一場所に置かれたのか、あるいは別の場所に置かれたのか、また反抗時の状況などはわかりません。ただ、わずか「54名」で「800名」(もちろん、古山証言、堀曹長の書く投降兵数が正しいとして)を管理するのですから、うかつに日本側から手出しはできません。危険が多きすぎますし、意味もないでしょうから。
 これを「殺害した」「虐殺した」とする大虐殺派は、2人の証言、記録による反抗説をくつがえすに足る根拠を提示しなければならないでしょう 。

(3) 下関における掃討
 上に記したように、13日に下関に突入した部隊は、佐々木支隊(33連隊、38連隊基幹)でした。
 両連隊の『戦闘詳報』はどう記録したのでしょう。

@ 38連隊「戦闘詳報」
 先に、38連隊の戦闘詳報を見ます。

〈南京城を固守せし有力なる敵兵団は、光華門その他において頑強に抵抗せしも、
各部隊の猛撃により、著しく戦意を失い続々、主として下関方面に退却を開始せしも、
前衛は先ず独立軽装甲車第8中隊をして迅速果敢なる進撃を行い、午前1時40分頃
渡河中の敵5、6千に徹底的大損害を与えてこれを江岸および江中において殲滅せしめ、
次いで主力をもって午後3時頃より下関に進入し、同日夕までに少なくとも500名を掃討しつくせり。〉

 軽装甲車がまず進撃、渡河中の敵5,6千に大損害を与えたのが、午前1時40分としています。ですが、深夜というのは明らかにおかしく、「午後1時40分」の記述違い、あるいは「午前11時40分」の間違いかもしれません。『南京戦史』は「午後1時40分」と解釈しています。
 既述したように、佐々木私記は午前10時、最初に下関に到着したと記しています。どちらの時間でも大した違いはないと思いますが、「戦闘詳報」といえどもこのように単純ミスがあり、これが「戦果」のミスであれば、影響は大きくなったかもしれません。
 話がもどりますが、中島師団長の日記に「仙鶴門附近に集結したるもの約7、8千人あり、なお続々投降し来る」とあり、この投降兵の処置について、主に大虐殺派は殺害したとしています。
 これに該当する記述が38連隊戦闘詳報の第12号付表にありますので、ご覧ください。

 昭和12年12月14日
俘 虜 将 校70 准士官、下士官7、130
 備考 俘虜7,200名は第10中隊堯化門付近を守備すべき命を受け、同地に在りしが14日午前8時30頃、数千名の敵白旗を揚げて前進し来り、午後1時武装を解除し南京に護送せしものを示す

 この7200名の捕虜を殺害したとする主張がありますが、殺害した事実のないことは証明されていますので、別項⇒ 9−4で取り上げます。
 さて、問題となるのは、「渡河中の敵5、6千に徹底的大損害を与えてこれを江岸および江中において殲滅せしめ」ですが、大虐殺派はこれを「虐殺」とします。この江上攻撃が問題というのであれば、33連隊も同様の問題がありますので、先に同連隊の戦闘詳報を見ておきます。

A 33連隊「戦闘詳報」
「戦闘経過の概要」として、12月13日の作戦行動を次のように記しています。
  〈連隊は午前9時30分、16師団作命甲第171号を受領し、一部を以って太平門を守備せしめ、主力は下関方向に前進して敵の退路を遮断すべき命を受け、午前10時半出発。第2大隊を前衛とし太平門、和平門、下関道を下関に向かい前進す。而して、進路の両側部落には敵敗残兵無数あり、これを掃討しつつ、前進を継続せり。

 午後2時30分、前衛の先頭下関に達し、前面の敵情を捜索せし結果、揚子江上には無数の敗残兵、
船筏その他あらゆる浮物を利用し、江を覆いて流下しつつあるを発見す。
すなわち連隊は前衛および速射砲を江岸に展開し、江上の敵を猛射すること2時間、殲滅せし敵2千を下らざるものと判断す。〉

 ご覧のように、33連隊は午後2時30分に下関に達しています。一方、38連隊の下関到着を午後1時40分としますと、33連隊は38連隊より約1時間遅れの到着(真面目に引き算すれば50分)だったことになります。
 33連隊の将兵が目にした光景は、船や筏(いかだ)などあらゆる浮遊物を利用し、揚子江上を逃げる多数の敗残兵でした。

・ 西田 優上等兵ほかの「証言」
 機関銃中隊(第1大隊)の田中浅次郎小隊長 は次のように「証言」しています。

「おびただしい数の敵が先を争って揚子江を渡り、逃げている。1枚の板にでも命を託して泳いでいる。
船に乗り遅れた者は船を転覆させる。船の舷を離さない者は射殺する。同士討ちはする。生き地獄であった。
私たちは・・ただ呆然と見ていた。上官も、これを攻撃する命令を下されなかったし、・・」
―『魁』第1巻、『再現 南京戦』より引用―

 田中証言によれば、同士討ちをしながら逃げる敵に攻撃をしかけなかったとしています。一方、次の記録もあります。
 第2大隊機関銃中隊の西田 優上等兵の日記です。

「直ちに河岸に至り、敵の舟逃げるをわが重機にて猛射す。面白きことこの上なし
また大隊砲の舟に命中、ものすごし。やがて我軍艦8隻も来たり、思わず万歳を叫ぶ。敗残兵多数を殺す」

 西田日記によれば、舟に向かって重機関銃の猛射を加えたとしています。同じ機関銃中隊でも、ある隊は攻撃せず、ある隊は射撃を加える、対応がそれぞれだったことを2人の記録は示唆しています。
 これは小さな例ですが、資料の引用にあたって、どちらか一方ではなく、異なる見方をした資料があればともに提示しませんと、判断が一方に偏ってしまうことになるでしょう。南京問題でとくに感じるのですが、資料、証言の恣意的選択の傾向で、極端な結論に結びつく要因の一つではないかと感じています。
 なお、「我軍艦8隻」とあるのは揚子江を遡上してきた海軍第11戦隊(砲艦5隻、掃海艇4隻ほかで編成)で、第11戦隊もこの江上攻撃に加わりました(後述)。
 もう少しつけ加えます。この西田日記の記述は『南京事件』(秦郁彦)から借用したものですが、この記述だけ見れば面白半分に銃を乱射しているように読めますが、鈴木 明は西田 優上等兵に会い、この前後についても聞き取って、『「南京大虐殺」のまぼろし』に書いています。
 鈴木の記述によれば、西田上等兵は紫金山で、

6中隊全滅。寒きこと言語に絶す、遥か目の下に南京らしき電燈が見え、危険千万敵弾は雨の如し」(12月10日)

とする死闘を経て、13日には紫金山を陥とし、下関に向かいました。
「6中隊全滅」とあるのは、太平門に残った第6中隊を指しているのでしょう。もしそうなら、前述したようにわずか「54名」に減じたのもよく分かります。また、「下関に向かいました」と書くのは簡単ですが、重機関銃は重く(約55s)、人力で運ぶのですから兵士にとっては大変な苦行のはずです。
 ようやく下関の埠頭につき、そこで見たものは小舟、いかだなどにつかまって江上を流れる無数の敵でした。「これだ。隊長はこれを捕捉殲滅するために、おれたちをここへ急がせたんだ」と西田は思い、「上海―南京の苦しさを一挙にはじき飛ばすように」撃ちまくり、これが最後の戦闘だ、これで故郷に帰ることができると撃ちつづけたというのです。
「面白きことこの上なし」から受ける悪印象も、背景なり経過を知れば、また違った受け取り方になるでしょう。
 西田は複雑な思いを表情にこめて、

「逃げる敵を捉えて殲滅するのは、戦闘の常識です。」
「その中に一般住民が混っていたかどうかは、無論わかろうはずもありません。
それがわからなければ撃ってはいけないとなったら、
戦争なんていうものは最初からできやしません。・・」

 といいます。
 この西田発言、私に何の違和感もありません。どこの軍隊でも総じて同様の対応をとったことは間違いありません。逆に、敵を救助した例もありますが、それらはたぶん例外に属し、だからこそ「美談」として伝えられるのでしょう。
 もう1ヵ所、重要と思いますので、西田証言を抜いておきます。
 西田優上等兵は翌14日、ゆう江門から入城、北地区の掃討に加わります。「敵兵は全部殺したのですか」の質問に以下のように答えています。

「無論、全部ではありません。これは城内だけではありませんが、白旗をあげて出てきた者は助けて後方に渡しています。
それから、これだけは断言しますが、私の知っているかぎりの日本の兵隊は、抵抗しない良民は絶対に殺しません。
偶然見つけた姑娘(クーニャン)を強姦したりした奴が、女を殺したかもしれません。
もし訴えられたりしたら、強姦は銃殺でしたからね。
でも、私は上海―南京間で若い娘を見たことはただの一度もありませんでした。ただの一人も、です。」

(注) 西田優上等兵の「日記」を読みたいと思っているのですが、公刊されていないようです。このため、他書からの引用となりました。

・ 戦闘詳報がつたえる死者数
 こうした江上攻撃などの結果、どの程度の死者を数えたのでしょう。33連隊の「戦闘詳報」第3号付表によれば、12月10日から13日までの4日間の戦果を次のように記しています。

俘 虜 将校14、准士官、下士官、兵3082、馬匹52
 備考
 1 俘虜は処断す
 2 兵器は集積せしも運搬し得ず
 3 敵遺棄死体
  12月10日  220
  12月11日  370
  12月12日  740
  12月13日 5、500
  4日間合計  6,830人


 つまり、俘虜3、096人(将校14+下士官・兵 3、082)の「処 断」を含め、6、830人の敵遺棄死体 があったとしています。うち、5、500人は、12月13日、つまり和平門で敗残兵を掃討し、下関に到着した1日に集中していたことがわかります。
 太平門の「1、300人」は、おそらく「3、096人処断」の中に入っているでしょう。また、5、500人のなかには、「殲滅せし敵2千を下らざるものと判断す」とした江上攻撃による戦果が含まれている違いありません。
 この江上攻撃2千と38連隊の「渡河中の敵5、6千に徹底的大損害を与えてこれを江岸および江中において殲滅」が、重複していると考えるのが常識でしょう。どちらの撃った弾が敵に当たったかなどわかるはずもありません。たがいに自隊に都合のいいように相当の水増し戦果を記したことと思います。

B 海 軍 の 記 録
 揚子江を遡上した海軍もこの攻撃に加わりました。秦 郁彦教授は『南京事件』のなかで次のように書いています。
 砲艦5隻、駆逐艦4隻、掃海艇4隻などの海軍第11戦隊は、

「江上と江岸の敗残兵に艦砲と機銃を射ちまくった。その戦果は3千とも1万とも報告されているが、誇大に過ぎる。
陸上部隊による戦果と重複しているのではあるまいか」

 江上、江岸の敵を陸・海軍双方が射撃したのですから、戦果が重って当然でしょう。それにしても、3千と1万の違いは大きすぎます。秦は出典を示しておりませんので、「3千人」の出所がわかりません(1万人の方は分かるのですが)。
 泰山 弘道・海軍軍医大佐は「従軍日誌」に、「下関に追い詰められ、武器を捨てて身一つとなり、筏に乗りて逃げんとする敵を、第11戦隊の砲艦により撃滅したるもの約1万人に達せりという」と記しています。
 この元はたぶん、第1掃海隊の「南京遡行作戦経過概要」(海軍省教育局)の「1323(13時23分の意)、前衛部隊出航、北側揚子江陣地を砲撃制圧しつつ、閉塞線を突破、沿岸一帯の敵大部隊および江上を舟艇および筏などによる敗走中の敵を猛攻撃、殲滅せるもの約1万に達し、・・」と思われます。
 一方の3千については出典がわかればお知らせしますが、このように資料によって戦果の違いが大きく、根拠を示さずに一方の資料のみを使用すれば、公正さを大きく損ねてしまいます。
 第11戦隊砲艦(勢多、保津)の下関到着は、佐々木私記では午後2時とありますが、もう少し遅かったと思われます。というのも、機雷設置、廃船を沈めるなど、航行を遮断する閉塞線を突破(掃海艇で除去)するのに手間どったためでした。江岸から砲撃を受けながら下関付近に到着したのは、某少尉の陣中日記に、「12年12月13日、南京1番のり、1550。万才。・・」(『再現 南京戦』)とあることからも、午後3時50分ごろと判明します。
 この時刻は38連隊到着(午後1時40分として)より約2時間遅れとなります。また、砲艦といえば重装備の軍艦を思い起こしますが、この砲艦は居留民保護のために造った警備艦で、乗組員は「ゲタ舟」と呼ぶように速力も遅い艦であったとのことです。

(4) 江上攻撃は正当な戦闘行為
 江上、江岸攻撃の結果は、陸上部隊にあっては33連隊の約2千、38連隊の5千〜6千でした。
 この数字は「戦闘詳報」のものですが、戦果をカウントすること自体困難であり、信頼度は相当に低いといわざるを得ないでしょう。また、両者が重複しているのも間違いないでしょうから、単純に加えることはできません。
 海軍の1万あるいは3千ですが、どちらが正しいというより、ともに信頼性に疑問が残る数字です。
 ところが、笠原十九司・都留文科大学教授の手にかかると、これらがすべて虐殺として計算されます。『南京事件』(岩波新書)に記載されている一覧表「日本軍が集団虐殺した中国軍民の数」に次のように書いています。

38連隊 5000〜6000(長江渡江中殺戮)
33連隊 約 2000(長江渡江中殺戮)
海軍11戦隊 約1万 (長江渡江中殺戮)

 とし、合計数1万7〜8千人をすべて虐殺とします。
 第一、江上攻撃が虐殺行為でしょうか。中国兵は戦いが不利となったがため、逃走(撤退)するのです。逃げる相手を追撃、殲滅しようとするのは当たり前のこと、西田上等兵のいうとおり、「逃げる敵を捉えて殲滅するのは、戦闘の常識」であって、世界中の軍隊が敵殲滅の好機ととらえ、攻撃を加えるのは間違いありません。
 南方にあった日本軍も、兵を運ぶ輸送船が敵艦の攻撃をうけ、沈没。海にただよう将兵は連合軍の戦闘機から機銃掃射をうけ、多数の命を落としました。敵戦闘機の攻撃ぶりは執拗であったと体験者から何度も聞いた話です。
   同様に、渡江中の兵を逃がせば、敵は再武装し、陣容を整えて反撃のチャンスをうかがうでしょう。今度は日本軍が殲滅されるかも知れないのです。これは、良い悪いの問題ではなく、戦争とはそうしたもの(だった)のです。
 また、「殲滅」の意味ですが、語感からでしょうか「全員殺害」と解釈している向きもありますが(笠原教授も)、これは軍事用語で、「大勝」を意味するものとの指摘が防衛大学教授からあります。
 もう少し、つけ加えます。
 中国側の戦闘詳報などによれば、渡江に成功した中国兵が多数に上ったことです。南京陥落直前の12月12日午後5時過ぎから翌朝まで、第2軍団(南京城の北部守備隊)は霧のなか、用意した小船で1万1,600人が北岸への撤収を成功させ、ほかにも2,700人の渡江を成功させています。合計すれば1万4,300人渡河に成功したわけです(『抗日戦争正面戦場』、『南京戦史』所収)。
 となると長江関連で、約3万2千人(虐殺1万7〜8千人+渡河成功1万4,300人)の中国兵がいた勘定になります。南京守備兵が一体、何人いたことになるのでしょう。

(4) 下関突入による死者数・・まとめ
 ここで佐々木到一少将の「私記」をもう一度、振り返ってみます。
 私記には、「この日(注、13日)、 我支隊の作戦地域内に遺棄された敵屍は1万数千に上りその外、装甲車が江上に撃滅したもの並に各部隊の俘虜を合算すれば、我支隊のみにて2万以上の敵は解決されている筈である」とありました。
 ここまで書いてきたことを踏まえて整理します。
 佐々木支隊は、支隊編成当初は第38連隊と33連隊第1大隊。後に33連隊の第2、第3大隊が加わりましたので、33連隊および38連隊が支隊の基幹になります。ほかに、配属された軽装甲車隊1ヵ中隊がありました。
 したがって、私記にある支隊の戦果(1万数千+各部隊の俘虜)は、33連隊および38連隊の戦果を合算したもののはずです。となれば、33連隊が6、800人、38連隊が5、500〜6、500人で、合計1万3、300人が戦闘詳報がつたえる戦果というわけで、ほかにはつたえられていません。
 もう少し、連隊別に見ておきます。

@ 33連隊(12月10日〜13日までの4日間)
 戦闘詳報によれば、
 遺棄死体 6、830人、うち、捕虜処断3、096人でした。
 この遺棄死体のなかに江上攻撃の2、000人が含まれ、また捕虜処断のなかに太平門の1,300人が含まれているはずです。
 したがって、虐殺の可能性があるのは、捕虜の1,796人(3,096−1,300)でしょう。
 残る遺棄死体1、734人(6,830−2,000−3,096)は捕虜の遺体ではないのですから、交戦の結果などでしょう。このなかに虐殺相当の死者がいないとはいい切れまませんが、不法に殺害したとの証拠もありません。
(注) つけ加えますと、遺棄死体1、734人は、12月10日の220人、11日の370人、12日の740人を合わせた1、330人に、12月13日の5、500人から(3、096人+2、000人)をマイナスした数(404人)を加えた数に一致します(あたり前ですが)。

A 38連隊(12月13日)
 戦闘詳報によれば、
  江上攻撃 5〜6,000人
     掃  討     500人
 でした。
 ですから、掃討の500人だけが検討の対象といえば対象ですが、通常の交戦状態下の死者であった可能性が十分にあります。特段の資料がないかぎり、これ以上のことはいえません。

 以上のように、佐々木支隊で起こった「虐殺」に相当するものは、「捕虜処断」の1,796人が候補と思います。ほかにまったくなかったとはいえませんが、大きな数ではないと判断しています。
 なお、笠原説によれば、12月13日の佐々木支隊の虐殺数は、
 敗残兵殺戮  1万数千人
 投降捕虜殺戮   数千人
 投降捕虜殺戮  1,300人

 で、合計すれば2万人以上になるのでしょう。根拠は上に引用した「佐々木到一私記」によっています。
 繰り返しになりますが、これに「渡江中殺戮」が加わり、さらに渡江に成功した中国兵(1万数千)も加わるのですから、中国軍の総兵力は一体、何人になるのでしょうか。

(5) 付 記
 佐々木到一少将は、第149師団(司令部、ハルビン)の師団長(中将)で終戦を迎え、ソ連抑留後に中国に引き渡され、中国戦犯として撫順戦犯管理所(撫順監獄)に収容されました。1955(昭和30年)5月、同監獄で死亡しましたが、1887年生まれですので、67〜68歳になります。
 獄中で、いわゆる「認罪」を拒否したとみえて、「供述書」類の存在は確認されておりません。おそらく、存在しないのだと思います。中国側にすれば南京事件にかかわるもっとも重要な「生き証人」ですから、あの手この手で取調べ、罪状を認めるように迫ったはずです。この点で、⇒太田 寿男中佐「供述書」とは対照的な経緯をたどったようです。

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