南 京 虐 殺(8−1)

―大虐殺派の主張(その1)―
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 次に「大虐殺派」の主張を見ていきます。
 「南京大虐殺」の存在が日本国民に広く知られるようになったのは東京裁判とこの判決に先立って行われたGHQ(占領軍総司令部)による一大キャンペーン、「戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画」(WGIP)でした。

 宣伝計画の具体的中身は、掲載命令を受けた新聞各紙の「太平洋戦争史」(全10回)、およびNHKのラジオ放送「真相はこうだ」「真相箱」が主な柱で、いかに国民の知らないところで日本軍は虐殺、強姦等を伴う冷酷無比な行為を行わったかを告発、断罪したものでした (⇒ こちらまたは⇒ こちらを)

 ですから、出発点は「20万人以上の大虐殺」(東京裁判判決)だったわけです。ですが、日本が再出発(1952年4月)した後も長い間、南京事件がとくに問題になることはなかったようです。問題になったのは、いく度か記したように、1971(昭和46)年8月末から朝日新聞に連載された「中国の旅」と題するルポがキッカケだったのです。
 その後、南京論争は絶えることなく、アメリカほか英語圏中心に広がりを見せながら、中国の反日政策とともに、沈静化する兆しはまったくありません。中国にとって有効なこの「歴史カード」は、ときに燃えさかりながら、将来にわたって利用され、わが国に難題を突きつづけることでしょう。

1 朝日新聞と大虐殺派


(1) 「中国の旅」連載が出発点
 本多勝一・朝日新聞記者(当時)の手になる「中国の旅」連載は4部に分かれ、各部は10回程度、第1部の「平頂山事件」につづき、第2部・南京事件として1971(昭和46)年11月から掲載されました(下写真は第1回目)。


 例の「百人斬り競争」もこの「南京事件」のなかで報じられたものです。
 この連載が「南京大虐殺30万人」論争のあらたな出発点になったばかりでなく、この後に一大潮流となった日本軍断罪の先導役になったことは間違いのないところです。
 影響は早速、各方面に現れました。
 例えば、NHKテレビ は「1970年代われらの世界」で、次のように語らせています。

〈3ヵ月にわたる上海の抵抗線を破るや、日本軍は堰を切ったように、国民政府の首都南京に迫った。
戦後、東京裁判に於て、国民がはじめて知った「南京の虐殺」はこの時に起った。
虐殺は南京の到るところで、大規模に、或は少人数で、無秩序に行われた。
その期間は、日本軍の侵入から占領後の2ヵ月に及び、
殺害された中国兵と男女民間人は、30数万とも40数万ともいわれる。
侵略戦争が如何に人間の心を荒廃させるものか。
だが、日本の民衆は、事件の片鱗も知らされなかった。〉


 この放送は1972(昭和47)年8月15日ですから、「中国の旅」連載直近の終戦日であることからも、連載に大きな影響を受けたことは間違いないはずです。
 NHKが自らの判断のうえ、テレビ報道の先陣を切って「30数万とも40数万ともいわれる」などと放送することなど、この当時はまず考えられないことでした。
 オピニオン・リーダーと目された朝日新聞の連載があったからこそ、安心して尻馬に乗ったのに違いありません。NHKにかぎった話ではありませんが、ほとんどのメディアが「中国の旅」に影響されたのです。

 学者も例外ではありません。
 洞 富雄・元早稲田大学教授(故人)を例にあげれば、洞は「中国の旅」を「文献」として挙げ、「このすぐれたルポにはぜひ目を通していただきたい」として、文献あつかいします。このルポのいかがわしさに何の疑いもいだかない素直さ、従順さです。

 この「中国の旅」の「南京事件」に対して、鈴木 明が月刊誌「諸君!」誌上で反論(1972年4月号〜)の声をあげ、単行本となった『「南京大虐殺」のまぼろし』(文藝春秋、1973年)が大宅ノンフィクション賞をとるなど、おおきな論争のタネとなりました(上記NHKのナレイションはこの本から引用したものです)。
 ただ、この本は主に「百人斬り競争」の「虚構」の部分に焦点をあてたもので、南京虐殺を「虚」と断じたものではないのですが、どういう次第か論争が「南京問題」より、「百人斬り競争」の真偽に集まる傾向は否めませんでした。
 書名がおよぼした影響でしょう、「南京大虐殺」を否定する側を「まぼろし派」と呼ぶようにもなりました。

 一方、「30万人大虐殺」を肯定する側の代表・洞富雄は、『南京事件』(新人物往来社、1972年)の一篇「南京アトロシティーズ」のなかで、中国の主張する「30万人、34万人という数字が実数にちかいといえなくもなさそうである」と書いています。
 また、『“まぼろし化”工作批判・南京大虐殺』(現代史出版会、1975年)を著すなど、鈴木明、イザヤ・ベンダサン(=山本七平)ら、疑問を呈する側に“資料”をもって批判、「大虐殺派」の旗頭として影響力を強めていきました。
(注) 上記「南京アトロシティーズ」と『“まぼろし化”工作批判・南京大虐殺』掲載の「“南京大虐殺”はまぼろしか」をとって、「再編整理」したものが『決定版 南京大虐殺』(1982年)です。

(2) 大虐殺派が集う南京事件調査研究会
「中国の旅」連載からおおよそ12年後、1984(昭和59)年3月30日付け朝日新聞(下写真)は、「南京大虐殺46年 日中両国はいま」の見出しのもと、南京問題のかかわる日中の動きを報じました。報告者は本多勝一でした。


 本多は「日本軍が南京攻略戦を演じた進路沿いに1ヵ月余り取材旅行してきた」とし、前年12月13日に「人骨眠る地に記念碑」(右端の写真)が建てられたことを、南京市長の「30数万人の受難同胞を慰める・・」の演説とともに紹介し、一般参観のできる記念館建設がここに予定されていることなどを報じています。
 見出しの「人骨眠る地」とは、記念碑(後に記念館)の建った城外の西にあたる「江東門」周辺で、最近発掘されたという「万人坑」(見出しの左横写真」)や「死体橋」などを指しています。

 また、日本側の動きとして、1982年の教科書問題で 「文部省による干渉がゆるんだかに見えたが、最近また干渉の度合いが前に劣らず激しくなった」と教科書関係者は訴えているとし、「要するに虐殺を限りなく『なかった』ことに近づけようとする姿勢が見られる」と本多は書きます。
 「こうした傾向が現れることへの一つの反省として、この問題をきちんと調査し、位置づける仕事が日本側に少なすぎた点も否定できないと、このほど南京事件に関心を寄せる歴史学者などを中心に研究会が発足した。」とし、3月28日に「南京事件調査研究会」の初の連絡会が開かれ、洞 富雄(元早大教授)、井上 久士(中央大)の報告を中心に討議が行われたことを報じています。

 研究会のメンバーは洞 富雄、井上久士のほか、藤原 彰(一橋大)、吉田 裕(一橋大 )、江口 圭一(愛知大)、君島 和彦(東京学芸大)、姫田 光義(中央大)らの名前があがっています(肩書きはいずれもこの当時)。
 何れも、主張する虐殺数に多少の差はあるものの「大虐殺派」といってよい人たちです。
 研究会は会長に選出された洞 富雄と藤原 彰の主導で結成されたのは確かでしょうし、その後、本多 勝一(朝日記者)、笠原 十九司(宇都宮大学)らが加わったことから、朝日新聞が大虐殺派の事実上の支援団体であったことが改めて明らかになったことでした。
 このうち、代表的な学者の主張する虐殺数を見ておきます。

洞 富 雄 30(34)万 ⇒ 20万人はくだらない
藤原  彰 20万人以上
笠原十九司 10数万以上、それも20万に近いかそれ以上
   
 洞富雄の「20万人はくだらなかった」は『決定版 南京大虐殺』(下記参照)に書いたもので、当初に書いた中国主張の丸呑み「30万、34万人」からすればかなり後退しています。
 そして、洞 富雄、藤原彰の説を支持したのでしょう、「20万人以上」が南京事件調査研究会の「統一見解」(秦郁彦)に収束していきました。そして、この大虐殺派の多くが日本史教科書の執筆者だったことです。
 となれば、教科書記述が「20万人以上」になったとて、何の不思議もないことです。

・ 本多 勝一の定義拡大
 一つ、加えておきますと、この本多レポートは、締めくくりに次のように書きました。

 百数十人の体験を取材して改めて認識したことは、「南京大虐殺は日本軍の南京占領直後に突然発生した事件ではないということ」であって、虐殺・暴行は杭州湾上陸直後から始まり、南京への途上で“訓 練”をつみながら進んだものだ、とします。

〈本質的にはこの事件は南京攻略戦開始の11月上旬から陥落後2ヵ月近くつづいた
“勝手放題”期間を含む約3ヵ月間の出来事、ととらえるのが実情にそくしているだろう。〉


 とする“新 説”をもって終わります。
 東京裁判の判決、中国の主張とも異なる時間的(6週間⇒3ヵ月間)、地理的(南京城内とその周辺⇒杭州湾から南京まで)な拡大は、こうでもしなければ「30万人大虐殺」との辻つま合わせに困るからであろう、という批判とも揶揄とも受け取れる反応が出ることになります。
 なお、この取材は『南京への道』(朝日文庫、1987年)として出版されました。

2 洞富雄説「大虐殺20万人以上」に整合性はあるか


 10数万あるいは20万人以上の大虐殺を主張する論者は、前項までに提示・検討した「大枠」、例えば遺体埋葬数やスマイス報告、南京守備兵数などを、どう位置づけ、どう解釈しているのでしょう。
 その解釈なり位置づけに何か変わった所がなければ、このような膨大な数がでてくるはずはないのですが。
 「大虐殺派」の主導者の一人、洞 富雄・元早稲田大学教授は、『決定版 南京大虐殺』(下写真。現代史出版会発行、徳間書店発売、1982年) のなかで、

〈日本側では、被害者は数万だとか、1、2万とか言っている向きもあるが、
なんら証拠にもとづかない、無責任な主張に対しては、ここではふれないことにする。〉


 と斬って捨てます。
 つまり、中間派は証拠にもとづかない無責任な主張をしているのだというわけです。もちろん、「なかった派」などは論外だというのでしょう。

(1) スマイス報告の取り扱い
 まず、スマイス調査報告 ですが、

〈これはすぐれた調査であるが、その推計方式に問題がある。
特に、あまりに少なく推計された人的損害についてはしたがいかねる。〉


 とアッサリ退けます。
 「推計方式に問題がある」調査が、「すぐれた調査である」とするのも珍妙な理屈ですが、洞にあうとスマイス博士も形なしです。
 スマイス報告の「前書き」を書いたベイツ教授によれば、「博士は調査の方法について全般的な経験を持つばかりでなく、この地域の惨害についてこれ以前にも2次にわたる調査に責任者として参加した」とし、今回の調査も「博士の比類のない手腕と精力に負うとこころが大きい」とした賛辞を送っています。

 社会学の教授であるスマイス博士は、調査のいわばプロですから、洞・元教授の指摘するような単純な「推計方式」のヘマをやるでしょうか。
 洞は50戸に1家族の都市部調査を例にあげ、大雑把すぎるというのです。50戸に1戸の割合でサンプル数が949であれば、既述したように少ないことはありません。まあ、いいがかりみたいなものでしょう。ただ、どういうわけか農村部の調査に対しての言及がありません。
 つづけて、こう言います。

〈これでは大ざっぱにすぎると思う、それに、南京城陥落の際の掃蕩で、
城内外において一家もろとも非業の最後をとげたものや、1地区のものが1団となって城内外から逃げだし、
やや離れた山地や江岸に集まっていて、集団虐殺されたものなどは、
当然この統計調査の対象になっていない。〉


 つまり、城内外で一家もろとも、あるいは城内外から逃げ出した先で集団虐殺にあった者は、サンプル対象になっていないのだから、日本軍による住民の犠牲者はもっと多くなるはずだというのです。
 「だから」といって、次につづきます。

〈したがって、上表に見られる12月13日以前の死亡者1200人は、
その時期における一般市民犠牲者の何十分の1にしか当っていないものと思われる。〉
(― 死亡者1200人については下記注参照 ― )


 というまことに大胆な結論を引き出します。

 つまり、日本軍が南京に入城した12月13日より前の都市部の死者は、スマイス調査が得た死者の数十倍、つまりかりに10倍でも1.2万人、30倍なら3.6万人、50倍ともなれば6.0万人になるはずと言いたいのでしょう。
 洞元教授の論法は、この例のように「何十分の1にしか当たっていない」とビックリするような内容を記しながら、その根拠となる事柄を示すことはせず、 単に「・・と思われる」とそ素知らぬ顔して締めくくっていることです。
 ただ、サンプルに偏りがあるとの指摘はもっともに見えます。たしかに指摘のケースが調査もれになることは考えられますが、

「この数は当時の住民総数のおそらく80
ないし90%を表したもの
であろうし、・・」(都市部)


 と調査結果についてスマイスは記しています。
 つまり、指摘のようなケースはあったとしてもそれほど大きいものではなく、サンプル誤差は小さいという判断でしょう。ですから、「何十分の1にしか当っていない」というためには、しかるべき根拠が示されなければなりません。

 となれば、都市部調査に注記された「民間人犠牲者1万2000人」(ベイツの説)や、中国のいう「集団虐殺28件、死者19万人」を真実と考え、「30万人大虐殺」から大きく外れないように、無意識なのかもしれませんが、つじつま合わせが必要になってくるのでしょう。
 そして、こう記します。

〈もう一度くりかえせば、スミス教授とベーツ博士は、一般市民の犠牲者を1万2,000名、
「便衣兵」 の犠牲者を2万8,000名(あるいは便衣兵・捕虜あわせて数万名)と推算している。
あわせて非武装者の遺棄死体は4万だったというわけである。
だが、いずれも、かんじんの遺棄死体の埋葬例については、詳しく述べていないのである。〉


 とし、ここまで記した理由などを加え、スマイス報告は、「あまり当てにならないものであることが明らかになったと思う。」と結論づけました。
(注) 上表というのは、7−2に掲げた表とほぼ同じです。12月13日以前の死者は、「軍事行動」による650人、「兵士の暴行」250人で、合わせても900人です。1200人という数字は、12月12日以前の「死傷者650人」と、同12日・13日の「死傷者550人」を加えたものしかなく、死者と死傷者を混同した結果と思います。洞・元教授は「死傷者」数字をもとに論を進めていることになります。

(2) 埋葬記録は全面的に採用
 次に埋葬記録ですが、「極東国際軍事裁判に提出された確実な証拠資料によれば、埋葬死体の統計は20何万体かになるのである。・・」と書いていますので、埋葬記録を全面的に信頼していることがわかります。
 では、崇善堂が埋葬したとする約11万の埋葬遺体についてどう解釈しているのか、見ておきましょう。

〈それにしても、崇善堂埋葬隊が、4月9日から5月1日までのわずか23日間に、
南京城の南方および東方の近郊で、10万4718体もの遺棄死体を埋葬した件については、
だれしもいちおう疑問符をつけたくなる(この埋葬隊が12月28日から
4月8日までに城内で7548体を埋葬した件の方は、じつに詳細な記録で、たしかな証拠といえる)。
しかし、数字にやや誇張はあるかもしれぬが、これを虚構の資料と断じてはならない。〉


 このように、中国側の提出した埋葬資料をほぼ全面的に肯定します。もっとも、肯定しなければ即、自説は瓦解してしまいます。
 しかし、こんな理屈にあわない論法も珍しいでしょう。
 「誰しもいちおう疑問符をつけたくなる」と前段で書きながら、肝心の疑問に答えることなく、一足飛びに「これを虚構の資料と断じてはならない」というのですから、論理も何もあったものではありません。

 当然、誰しも思う疑問、例えば外国人の日記、当時の資料に紅卍字会の記述があるにもかかわらず、崇善堂に関する記述がないことなどについて、証拠を提示するなりして疑問に答えるべきでしょう。ですが、そうはしないのです。
 崇善堂という慈善団体が存在したことに間違いありませんが、この当時はほとんど活動実績がなかったことは証明されています。なんとも無残な「大虐殺説」です。ですが、この大虐殺説がメディアの後押しもあって、幅を利かしたことも事実なのです。

(3) 幕府山事件・・鈴木明への反論
 洞元教授の証言、史・資料選択にあたっての鑑識眼、またこれらについての解釈力に、十分信頼が置けるといえるのでしょうか。これを疑わしめる例は数多くあるのですが、次の例は信頼性を計るうえで、格好のものと思います。
 『決定版 南京大虐殺』は、65連隊(連隊長・両角業作大佐、会津若松)が投降してきた捕虜約1万5千人を全員虐殺(幕府山事件)したことからこの書は書き始めます。幕府山事件は「南京大虐殺」のなかで、最大の犠牲者を出した象徴的事件とされているからでしょう。

 既述のように⇒6−2、秦賢助(作家、元福島民友記者)が「日本週報」に書いた「捕虜の血にまみれた白虎部隊」を当然のことのように洞は事実だとし、全員虐殺認定の大きな根拠にしました。
 秦賢助は次のように書いていました。

〈八方から続々と南京に入城した各部隊は、いずれも夥しい捕虜をつれていた。〉
〈・・虐殺事件は、15日の午後から、夜にかけて、頂点に達した。
この日、南京市街を太平門に向って歩いてゆく捕虜の行列があった。おびただしいその数は、2万を数えられた。
・・これぞ白虎部隊(注、両角部隊)が、南京入城に際して、お土産につれて来た大量捕虜であった。
果てしない行列の前途に待っている運命は、まさに死であった。〉


 これに対し、鈴木明は、秦賢助と同僚であった坂本六良記者(福島民友)に取材し、

〈あの人は、自分で会ってもいないのに、人からきいて、自分の体験談みたいに書いてしまうんです。
・・あの人は南京入城を見ているはずがありませんよ。
私が徐州会戦から帰ってしばらくたってから、あの人は中支に行ったんですから、
昭和14年にはじめて中国に行った人が、昭和12年の南京入城をみているはずがない 。・・〉


 との証言を得たのでした。
 鈴木明は、
 @ 〈捕虜を連れた戦闘部隊が南京攻略を行なうなどということがあり得ないことは子供にだってわかる。〉

 A 〈幕府山にいた2万もの捕虜を市中行進させて、太平門をくぐり、さらに草鞋峡から下関に至る一帯に連れていって殺したというが、2万といえば信じられないぐらいの大群である。
 それを往復30キロ以上のところを行進させるなどということは、常識から考えて、あり得ない。このようなことを信ずる方もおかしい・・〉

 と洞元教授の常識のなさを痛烈に批判しました。
 この批判に対し、洞・元教授は反論を展開しますが、この反論なるものが持って回った言い方だけの論理不在の実に不思議なものです。これをいちいち書くのは大変ですから、@のみにし、反論部分をそっくり 別記に掲載しましたので、お読みになってください。

(4) 回りくどい反論
 まず洞は、秦賢助の稿の末尾に「元白虎部隊従軍作家」と記してあったため、それを「回想記」と速断してしまったのだといいます。このような間違いはありがちなことで、この間違いを声高に批判しようとは思いません。問題は、間違いが分かったあとの対応です。
 洞はつづけて、以下のように書きます。

〈これはどうやらわたくしのはやとちりだったようである。なるほど、そういわれてみれば、
秦氏の文章には現場で目撃した事実であるとは一言もいっていないのである。こうした伝聞では証拠力に乏しい。
わたくしも秦氏の文章を読んで、両角部隊が1万人以上もの捕虜の大集団をいったん南京城内に引きこみ、
さらにまた太平門から城外につれだして、みな殺しにした、といっている点を不審に思ってはいた。〉


 このように、洞反論は秦の文章は伝聞ゆえに証拠力は乏しいことを認めるという主旨ですので、とくに違和感はありません。
 もっとも、みな殺しにしたという点を「不審に思ってはいた」のなら、なぜそのまま証拠に使ったのかと難詰できますが、それも目をつむりましょう。まあ、潔く誤りを認めているのでしょうから、好感を持った人もおいでかもしれません。
 ところが、以下につづく文章でこの気持ちも吹き飛んでしまいます。

〈捕虜をつれた部隊が八方から入城したという表現がおかしなことは、わたくしにもわかるが、
それはかならずしもありえないことではない。
「捕虜を連れた戦闘部隊 」が「南京攻略」をおこなったのではなく、
一部部隊による城内掃射がいちおうおわったあと、多くの部隊が中支那方面軍司令官の命令を無視して、
一斉に入城してしまったのが実際であるから、それら部隊が城外で「獲た」若干の捕虜
城内につれこんだという場合が想定されぬでもないのである。
ただし、両角部隊にかぎって考えれば、そうした想定はなりたちそうもない。〉


 この文章をもって、@ に対する反論は終わっています。それにしても、なんとも回りくどく、誤りを認めたくないという気持ちが見え見えの文なのでしょう。
 若干の捕虜を城内に連れ込んだ場合が「想定されぬでもない」けど、両角部隊にかぎれば「そうした想定はなりたちそうもない」というのが洞の結論なら、鈴木明の指摘どおりというわけです。
 ならば、資料価値のない「捕虜の血にまみれた白虎部隊」を使用したことの誤りを認め、秦賢助論文に関連した部分は撤回すべきでしょう。

 Aについての反論の結びが、〈両角部隊が幕府山下で「獲た」大捕虜軍の末路について秦氏が書いているところも、そういちがいに否定するわけにはいかないと思う。〉というのも、@と同じ論理(?)構成で、ひどいものです。

(5) 資料・証言の恣意的選択
 このように、埋葬調査は肯定する、スマイス調査は否定するといった按配で、とにかくご都合主義なのです。もっとも、こうしなければ「20万人はくだらない」は成立しようもありませんが。
 そして、1965(昭和40)年に訪中した中帰連の代表団が、中国側から説明を受けた「30万人」を引き合いにして、

〈南京全市域における犠牲者の総数ということになれば、この30万人、
あるいは南京地方法院のあげている一数字34万人というのが実数にちかいといえなくもなさそうである。〉


 と中国側主張に洞元教授はすり寄ったのです。
 そして、上記の「20万人はくだらない」という最終成果(?)にたどりついたというわけなのでしょう。
 洞教授の素直さには、一驚させられます。中国が主張する30万人を肯定することは、とりもなおさず、中国のいう「集団虐殺」28件19万人以上、「個別分散虐殺」15万人以上を、丸ごと事実と認めなければ成立するものではありません。
 洞教授はこれら「集団虐殺」を認め、さらに埋葬遺体15万人余をおおむね事実とし、そのほか30万人説に合致しそうな証言、記録などを総動員して自説(≒中国説)を補強してきました。

  (6) 洞 説を支持する大学教授
 この洞の大虐殺説は多くの賛同者を産みだします。

 例えば、「南京事件調査研究会」の一人、姫田光義中央大学教授は『証言 南京大虐殺』(青木書店、1984年)のなかで、次のように書き、洞の著作に手放しの賛辞を送っています。

〈南京大虐殺の経過・内容・人数等の最も詳細な記録は極東国際軍事裁判であるが、
これをも含めて、事件の詳細を検討したのは、洞富雄氏の一連の業績、
とくに『決定版 南京大虐殺』(現代史出版会、1982年)であり、
今日これ以上のものは、さしあたり見当たりそうにない。・・
洞氏の一連の業績は、ただに南京大虐殺についての研究であるにとどまらず、
この事件を「まぼろし」化しようとし、
日本軍国主義の侵略主義と戦争犯罪を免罪化するのに努力している
鈴木明『南京大虐殺の“まぼろし』(文藝春秋社、1973年)などに対する痛烈な批判・告発の作業でもある。
また、それは当然、後述する教科書問題での当該部分にかんする
叙述の主たる資料的根拠をも提供しているという意味からも、重要視される業績である。
ただし、田中正明『“南京虐殺”の虚構』(日本教文社、1984年)や、
板倉由明「『南京大虐殺』の真相」(『世界と日本』第413号』のように、鈴木氏のような考え方に強く賛意を表し、
その方向で資料を発掘しようとする人々が日本には多くいることも、同時に記しておこう。〉


 洞富雄の業績とたたえるのは自由ですが、鈴木明や板倉由明がこの事件を「まぼろし化」するために、資料を発掘しようとしている云々は、見当違いもはなはだしいと言わざるをえません。
 南京戦に参加した将兵から直接話を聞いてみれば、中国の主張との差は非常に大きく、ごく普通の感覚であれば、いろいろと疑問を持って当然のことなのです。

 この差が分からないのは、中国の主張を丸呑みするだけで、それを否定する資料を読み、幅広く参戦者に会うなりして、裏づけ作業をした経験を持たないからでしょう。
 それに、鈴木は疑問を呈したものの、南京において「虐殺がなかった」といっているわけではありません。

 板倉も同じで、現に「1〜2万人」の不法殺害、つまり虐殺を認めていますし、『南京戦史』(偕行社、1989)の編集に参加、資料の収集に当たるとともに、これらの資料を公表しています。この過程で、日本軍にとって不都合な資料を隠蔽したというならともかく、すべて公けにしています。
 板倉はあくまで真実を明らかにすることを目的に研究したのであって、「まぼろし化」、つまり虐殺を否定したいがために「資料を発掘」していたわけではありません。このことは板倉と行き来があったので、断言できます。

 あくまで、研究から得た結論として、中国の言う「南京大虐殺」は虚構であると主張しているのです。
 姫田教授の指摘が的外れであるかは、洞富雄の「20万人をくだらない」という結論が見当はずれであるかによって、自ずと証明されているでしょう。
 ただ、洞教授が編集した『日中戦争史料 南京事件T、U』(東京裁判速記録、『戦争とは何か』等を収録)は有益な労作と思っています。

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