南 京 虐 殺(4)

―中国主張「30万人大虐殺」―
⇒欧米人が残した殺害数(1)


 南京裁判、東京裁判に提出され、判決を支えた中華民国政府の調査資料「敵人罪行報告書」、ならびにこの報告書を引き継ぎ、さらに「証拠、証言」をそろえて「30万人大虐殺」を主張する共産中国の南京市委員会が作成した資料を紹介します。
 この2つの資料を、「30万人大虐殺」は真実である、あるいは真実に近いものと受け取った日本の報道機関と大虐殺派が手を携え、日本の歴史学会に多大な影響を及ぼしました。ですから、この2つは大虐殺派の主張を知る基本的な資料ということになるでしょう。

1 「敵人罪行調査報告」について

 南京地方法院のこの調査報告書の正式名称は「南京地方法院検察処敵人罪行調査報告」(作成者は陳・主席検察官。以下、「罪行調査報告」)といい、南京裁判、東京裁判の双方に提出され、とくに南京裁判で決定的な役割を果たしました。
 中国が主張する30万人説も大元をたどればこの調査報告を基本にしていて、その後の“研究成果”が加わり、40万人、ときには50万人という犠牲者数まで出現しました。
 「敵人罪行調査報告」の前文によれば、終戦間もない1945(昭和20)年11月、国 民 党 の各機関、警察、弁護士会、紅卍会(慈善団体)などの代表者が「大虐殺」を調査する罪行調査委員会を設置、南京市民等からの聞き取り、資料収集を行い、翌年2月に作成したものと説明されています。
 この調査報告書は東京裁判に提出されましたので、日本語訳を見ることができます。肝心の犠牲者数について、いくつもの数字が出てくるなど、いい加減さが目につきます。というのも、「確定せる被殺者30万人、確証を得ざる者20万人を下らない」とあるかと思うと、「被殺害者確数34万人」を主張するなど、数字が定まらないからです。
 そして、これらの数字の裏づけなのでしょう、「5件の集団屠殺に関する中国人の証言」と「2つの慈善団体による埋葬記録」として、以下のように内訳を記しています。

(1) 被虐殺者27万9千余、いや50万人以上
 下の表が示す通り、日本軍による殺害数は27万9568人 といいますから、おおよそ30万人というわけです。

 被屠殺者たる我同胞 279,586名

@ 新河地域   2,873名(埋葬者2名の証言)
A 兵工廠および南門外花神廟一帯 7,000余名(埋葬者2名の証言)
B 草鞋峡 57,418名(被害者 魯甦証言)
C 漢中門  2,000余名(被害者 伍長徳、陳永清証言)
D 霊谷寺  3,000余名(漢奸 高冠吾の碑文により実証)

E 崇善堂および紅卍字会による埋葬屍体合計 155,300余
 ・ 崇善堂は連続工作4ヵ月の埋葬死体 112,266名
 ・ 紅卍字会は連続工作半ヵ年埋葬死体  43,071名

 おかしな話なのですが、上記の内訳 ( @〜E )を 合計しても22万7000余人にしかなりません。約27万9千人との差、5万人の発生事由がわからないのです。計算ミスにしても杜撰さが際立ちます。
 内訳を見ますと、@からDまでが「集 団 屠 殺」、Eが「個別分散屠殺」(零星屠殺)を指すのでしょう。
 もっとも、こんな記録もあります。この報告書の作成にあたった陳 光虞・主席検察官は、第2回会議(1946年9月1日) で、次のように述べたというのです。

〈敵によって惨殺された者は29万5885人だという確かな数字を得ていたが、
その後、救済総署がわれわれの調査に加わって
被害死亡者の家族に救済の手をさしのべることになった。
これによって新たに数百戸の人民が救済かたを申請して来、
9万6260人追加という統計を得た。
したがって、被害死亡者総計は39万人余りにのぼり、
一般的には被害死亡者は少なくとも50万人以上にのぼると見積られる。〉


 第2回会議の行われた1946(昭和21)年9月といえば、すでに報告書は作成され、東京裁判にも提出された後のことです。とにかく、調査、研究をするにしたがい、犠牲者は際限もなく増えていったという次第です。
 そういえば、犠牲者100万人という話を読んだことがありますが。

(2) 集 団 屠 殺
 まず、集団屠殺(集団虐殺)を見ておきますと、@、A、Dは埋葬者の証言によるものだとします。もっともDの高冠吾(南京市長)は碑文に書かれたものから“実 証”されたとのことですが。
 これらは次項の埋葬記録でもふれますが、最初に書かれている「@ 新河地域 2,873人」について、面白い事実がありますので、このページの「2 政治協商会議南京市委員会の報告」の最初に記すことにします。ちょっとご記憶ください。

・ 草鞋峡の大量殺害(幕府山事件)
 Bの草鞋峡(そうけいきょう)の殺害は、「魯 甦」(ろ そ)という南京警察署で働いていた男性が、幕府山付近で日本軍に撃たれて負傷、隠れていた洞の中から夜間の殺害現場を目撃したものだといい、その数を57,418人とします。
 この目撃証言に該当する出来事の日本側証言があるため、魯証言は最大規模の目撃証言となり、人数をはじめとする証言の信頼性をめぐって論争になりました。
 この目撃談は東京裁判でも検察側書証として提出(1945年12月7日)され、証拠として認定されました。証言内容は次のとおりです。

〈敵軍入城後、将に退却せんとする国軍及難民男女老幼、合計57,418人を、
幕府山付近の4,5箇所に閉込め飲食を断絶す。凍餓死し死亡する者、すこぶる多し。
1937年12月16日の夜間に至り、生存せる者は鉄線を以て2人を1つに縛り、
4列に列ばしめ、下関・草鞋峡に追いやる。然る後、機銃を以てことごとく之を掃射し、
更に又、銃剣にて乱殺し、最後には石油をかけて之を焼けり。
焼却後の残屍はことごとく揚子江中に投入せり。〉(原文カナ)


 目撃したのが事実だとしても、それは夜間であり、しかも1人で57,418人などと1桁の単位まで数え得たなど、そのまま信じろというのは無理な話です。この証言に対して、ごく普通の常識をもって考えただけでも、いくつも疑問点を提示できることでしょう。ですが、裁判で認定されました。
   ただ、この証言に該当すると考えられる遺体は、前田 雄二・同盟記者らが目撃した死体に相当するといってよく、何らかの出来事が起こったのは間違いありません。別項(9−1)⇒ 幕府山事件で取り上げます。

・ 漢中門における殺害
 Cの漢中門外における殺害は、東京裁判でも証言した伍 長徳の体験談で、ティンパーリイの『戦争とは何か』に複数ヵ所、関連記述が見られます。また、1984年7月30日付け朝日新聞に、危うく難を逃れた伍長徳のインタビュー記事が掲載されています。この殺害についても別項⇒こちら(9−2)で取り上げます。

(3) 個別分散屠殺
 次はEの個別分散虐殺とする埋葬数をご覧下さい。
 崇善堂、紅卍字会という2つの慈善団体の埋葬記録です。崇善堂が埋葬した遺体は実に11万2千余体、紅卍字会の方は4万3千余体、合わせて15万5千余体にのぼる膨大な数です。東京裁判、南京裁判でもこの調査結果が丸ごと認定され、判決文にもこの遺体数が明記されています。

 上記の表を見て、お気づきになった方もおいででしょうが、15万5千体のなかに、「集団虐殺」に分類された@、A、Dの埋葬遺体と重複しているのではないかという点です。もっとも、@ADの埋葬遺体を合計しても約1万3千体。全体から見れば10%にも満たない数で、大勢に影響ないかもしれません。

 事実関係からいえば、@とAの重複は埋葬者の証言から明らかですし、Dについては、はっきりとした判断材料がないようですので、なんともいえません。このことは、「大虐殺派」の洞富雄の著書にも重複であることを認めた記述があります。
 ですが、重複分を除いた遺体数がこの調査結果のとおりだとすれば、中国主張の30万人にかなり近づき、「30万人南京大虐殺」はほぼ完成することになるでしょう。それだけに、この2つの団体の埋葬数が大きな論争点になりました。

(4) 崇善堂の埋葬数は創作
 ところが、11万2000体を埋葬したという崇 善 堂の記録が虚偽であったことを最初に指摘したのは阿羅 健一で、その後、資料や日本側証言などからも証明されています。
 「慈善団体」の一つ崇善堂は規模の小さな団体で、しかも当時はほとんど活動していなかったのです。多少の活動はあったにしても、はるかに規模の大きな紅卍字会のもとで、いわば下請け程度の役割であったと考えられるからです。詳しくは ⇒7−3をご覧ください。

 となると、南京地方法院の「敵人罪行調査報告」の結論が、28万人にせよ30万人にせよ、その40%程度が消えてしまうことになります。
 それに、草鞋峡で魯甦が目撃した57,418人が怪しいとなれば、崇善堂とこの草鞋峡の2つだけで、30万人の約半数がおかしいことになり、南京裁判で決定的ともいえる役割を果たし、東京裁判の判決にも影響を及ぼした「罪行調査報告」の信頼性は地に堕ちたと結論づけざるを得ません。

(5)「冬の蝉の如く」口をつぐんだ市民
 もっとも調査対象の南京市民は、次のような反応を見せたと「敵人罪行調査報告」は記しています。

〈敵側の欺瞞妨害工作激烈にして民心消沈し、
進んで自発的に殺人の罪行を申告する者、甚だ少なきのみならず、
委員を派遣して訪問せしむる際に於ても、
冬の蝉の如く口を噤みて語らざる者、或いは事実を否認するもの、
或いは又自己の体面を憚りて告知せざる者、他所に転居して不在の者、
生死不明にして探索の方法なき者あり。〉


 日本軍の激しい「欺瞞妨害工作」にあったために、証言者は口を閉ざすなど調査は難航したというのですが、この指摘は見当違いと判断できるでしょう。

 前述のとおり、調査時期は終戦の年、1945(昭和20)年の11月以降でしたから、日本軍はすでに降伏し、南京には国民党軍が進駐していました。ですから、日本軍が市民に対して妨害工作など出来るわけもありませんし、8年も前の出来事を話すのに市民は何を恐れたというのでしょう。
 殺人を申告する者が少なかった、(殺人等の)事実を否認する者もいた等々は、もともとその事実が中国(蒋介石政府)がいうよりはるかに少なかったと解釈するのが妥当に違いありません。

2 政治協商会議・南京市委員会の報告


 もう一つご覧にいれましょう。今度は中国(共産党)政府の報告です。
 この研究報告は政治協商会議・南京市委員会・文史資料研究会の編んだもの(「侵華日軍南京大屠殺史料選輯」)で、中国の内部資料として1983(昭和58)年に発行されたと説明されています。

 政治協商会議は政策提言機関で、国家への提言をする全国政治協商会議があり、その下部機関の一つが江蘇省の南京市委員会になります。
 報告内容は、上記の南京地方法院が提出した「敵人罪行調査報告」を土台に、「30万人大虐殺」の“実 態”とその主張の正当性を、一層、肉づけしたものと思います。
 この報告書の翻訳書は、『証言・南京大虐殺』(加々美光行、姫田光義訳・解説。青木書店)として、中国発行の翌年、1984年に出版されました。

・ 「初の本格的史料」と毎日新聞
 早速、毎日新聞は1984(昭和59)年8月22日付けで、

「南京大虐殺、中国側が“立 証”」
「犠牲者は30余万人」


 の大見出しのもと、「初の本格的史料」の概要を紹介するとともに、翻訳出版されたことも合わせて報じました。


 1983(昭和58)年という年は、いわゆる「教科書誤報問題」(1982年)を契機に、歴史解釈、とくに「南京大虐殺」をはじめ、残虐事件、残虐行為をめぐる日中間のギクシャクが目だった時期と一致しています。
 政治協商会議・南京市委員会がこの時期、このような報告書をまとめあげたのも、また日本でいちはやく翻訳出版できたのも、これらのことが背景にあったと考えておそらく間違いないでしょう。
 また、〈検定教科書は「10万人超」〉とした左下のタテ見出しは、「10万人超は過少であり、文部省検定はおかしい」という含みを持たしたものに違いありません。

 共訳者の姫田光義・中央大学教授は「今回の史料集で、かなり事実認定の基礎はできたが、南京の資料館にはまだ、膨大な当時の資料があるはず」 との話で記事は締めくくられています。
 もっとも、突然にこの報告書が作られたのではありません。というのは、上記翻訳本によれば、『日本帝国主義の南京における大虐殺』(南京大学歴史系編著)なる報告書が、すでに4年前の1979(昭和54)年に発行されていたというからです。

・ 信じろと言うのがムリ
 ともあれ、第1章冒頭を翻訳書からご覧にいれます。

〈1937年12月13日、日本侵略軍は南京を侵略占領し、
南京の人民に対して6週間におよぶ人事を絶する悲惨な大虐殺をおこなった。
無辜のわが同胞で、集団殺戮に会い、死体を焼かれて痕跡をとどめなかった者は19万人以上に達し、
また個別分散的に虐殺され、死体が慈善団体の手で埋葬されたものは15万人以上、
死者総数は計30余万人に達した。
日本侵略軍の南京における大虐殺は計画的・組織的におこなわれたものである。
日本軍は入城後、人とみると殺し、女と見ると犯し、犯したのちさらに殺し、
財物とみれば略奪し、家屋や店舗とみれば焼いた。
日本軍の殺人の方法は多種多様で、首をはねる、頭をかち割る、腹を切りさく、
心臓をえぐる。生き埋めにする、手足をバラバラにする、生殖器をさく、
女性の生殖器や肛門を突き刺す、焼き殺す、水に投げ入れ溺れ殺す、

機関銃で掃射するなど、狂暴残虐なこと、人類史上においてもまれに見るものであった。〉


 事実とすれば、吐き気をもよおす日本軍の残虐ぶりであり、野蛮人、狂人の行為としか思えない所業の数々です。
 このような書物が日本で翻訳出版され、書かれている内容を支持する日本の学者がいるのですから、まったくウンザリしてしまいます。
 一読して、アイリス・チャンのあの『ザ レイプ オブ 南京』が描き出す日本軍の行為と酷似していることを想起させられます。これらがアメリカや西欧諸国で読まれ、かつ信じられるのですから。
 この報告書も国民政府の「敵人罪行調査報告」と同様、「集団大虐殺」と「個別分散的虐殺」に分けて報告されています。そして、「日本侵略軍の南京における大虐殺と姦淫、放火、掠奪といった天をもつく犯罪行為」は、

〈動かぬ証拠は山の如く、いいのがれは許さない〉


 と強調しています。

(1) 集 団 大 虐 殺
 報告書によれば、「集団大虐殺」は28件、このために19万人が犠牲になったとします。そして、28件のうち、11件がこの本に訳出されました。
 いくつか紹介しますが、G番目にでてくる「上新河一帯の大虐殺」を先にお目にかけます。
 この「大虐殺」は、さきほどご記憶くださいとお願いした @「新河地域 2,873人」と同一の出来事ですから、「集団虐殺28件」の信頼性を占う格好の材料になっていると思いますので。

@ 上新河一帯の大虐殺・・「鉄証」ならぬ「虚証」
 事件というのは、「1937年12月、南京の陥落後、国民党の敗残兵と各方面から逃げて来た難民が、上新河地区で日本軍の追撃にあって虐殺された」というもので、この惨劇を目撃した湖南の木材商、盛 世征と冒 開運の2人が次のごとく証言書に書いているというのです。

〈日本軍はわが国の俘虜兵と避難民を殺害し、計28,730人余が上新河地区で命を落としました。
・・当時、日本軍は俘虜となった軍人・民衆の手足をアルミのワイヤロープで縛り上げ
河の中に投げ入れたり、またある者には柴草を上から被せて石油をかけて焼き殺し、
婦女子で暴行殺害された者が多くいました。
そのほか、手榴弾、機関銃、銃剣などの武器で処刑された者はもっと多くいました。
国軍兵士と避難民の死体は野をおおい、その血は地を染めました。〉


 お気づきでしょう。アッという間に犠牲者が10倍になっていることに。
 そうです。南京地方法院の調査報告「敵人罪行調査報告」によれば、犠牲者数 2,873人 でしたが、この政治協商会議・南京市委員会の報告では28,730人 となっていることに。
 中華民国の報告書から中華人民共和国の報告書に引き継がれたとたん、ちょうど 10倍の犠牲者となってしまったのです。この10倍増、単なる「ケアレスミス」でしょうか。いいえ、絶対に違います。

 というのは、次のことによって、ケアレスミスなどという解釈は吹き飛んでしまうからです。
 前出した1979(昭和54)年の報告書、『日本帝国主義の南京における大虐殺』(南京大学歴史系編著)は、前出の『証言・南京大虐殺』のなかで、埋葬統計など一部(第7章)が翻訳掲載されています。この報告書は「南京大虐殺40万人」とし、その「数字の根拠をさまざまな角度、資料から提出」しているのだそうです。

 そして、この報告書のなかで、上新河一帯における大虐殺について、「上新河付近で軍人・市民28、730人が虐殺された」 とし、これらの惨劇を目撃し、また死体を処理した2人(聖 世征と冒 開運。ただ上記の「敵人罪行調査報告」では「盛 世征」となっている)が、以下のように証言しています。

〈・・江東門、漢西門、鳳凰街、放送局、・・東岳廟などの各地は死体が野を覆い、
大地は人の血でまっ赤に染まり、惨状は目を覆うばかりでありました・・。
わたしたちはこれに耐えられず、金を出して人夫を雇い、死体を埋葬しようとしました。
死体1体につき法幣4角、合計1万余元・・28,730体の死体を収容しました。〉


 これで明らかでしょう。1元は10角(1角は10銭)ですから、1万余元(=10万余角)が28,730体に見合った金額であることが。
 この埋葬料金についての妥当性は、丸山 進・南京特務機関員の証言(1体に3角)を参照ください⇒ 大虐殺派の主張 7−3
 ですから、出まかせの28,730人を事実だというがために、数に見合った埋葬金額をデッチ上げたという結論にならざるを得ません。

・ 戦闘であって虐殺にあらず
 では、戦闘の実態はどうだったのでしょうか。日本軍側に該当する資料がありますので、要点を紹介します。


 城内を脱出し、下関(シャーカン)方面から南下してきた中国軍(左図の朱線)と、脱出を見越し、退路を遮断するために進軍した日本軍(第6師団・鹿児島45連隊第3大隊)とが、12月13日朝、上河鎮、新河鎮付近でぶつかり戦闘となりました。
 「とうとう 4万程の敵に包囲された」(11中隊・福本 続上等兵の「陣中日記」)というほど、数の上で圧倒する中国軍に対し、日本軍は第3大隊の2個中隊(第11、12中隊)を中心に戦うこと4時間、中隊長以下16名が戦死するなど大きな損害を出しながら敵を敗走させます。

「最初の敵は軍官学校の生徒でさすがだったが、
後はヘッピリ腰の民兵となり、
モーゼル拳銃を構えた督戦隊が
逃げようとする兵を射殺していた」(高橋 義彦中尉)


 と戦闘の模様が語られています。
 逃げる自国兵を追い返す、ときには射殺までする督戦隊の存在は、中国軍にあってはとくに珍しいことではなかったのです。
 この戦闘での中国側の死者(遺棄死体)は 「2,377人」、これは戦闘後、日本側の1個小隊がわざわざ出向いて数えた結果ですので、ほぼ実数といってよいのでしょう。

 いずれにしても、中国側の死者は「俘虜兵と避難民」の集団ではなく、武器を携えた両軍による戦闘の結果であり、「虐殺」とは無関係な話です。しかも、死者数といい、実態といい、この一例をもってしても「南京虐殺」にかぎらず、共産中国の「報告書」がいかに信用できないか、判断がつこうというものです。

 以下、28件のうち、翻訳されている集団虐殺11件から、いくつかを取り出しておきます。
 いずれの報告例も、まず概要が示され、つづけて1人、または複数人の「証言者」が登場、そのときの状況を説明していく形がとられます。

 A 「下関・草鞋峡の大虐殺」と「燕子磯付近の集団大虐殺」
 「下関・草鞋峡の大虐殺」は6番目に、「燕子磯付近の集団大虐殺」は11番目に別事件として記述されています。


・ 草鞋峡での虐殺
 揚子江は下関の下流から分流し、支流の方は草鞋洲と呼ぶ大きな中洲(なかす)の南側を抜け、また本流にもどります。
 草鞋峡(上図参照)は分流する付近の江岸を指しています。
 「草鞋峡大虐殺」の証言者は、「当時、証言人のわたくしは砲弾の流れ弾に当って足に負傷し、大茅洞内に隠れていて、目と鼻の先のところで惨状を目撃したのです」という 魯 蘇(ろそ)です。上に記した57,418人の殺害の目撃者、 魯 甦 と同一人物でしょう。
 死傷者多数がでた草鞋峡での出来事は、日本側にも資料がありますので、詳しくは⇒ 幕府山事件をご覧ください。

・ 燕子磯付近の虐殺
 燕子磯は揚子江岸の景勝地だったそうで、ここでも 難民と非武装の兵士5万人以上の殺害があったとし、以下のように説明されています。

〈日本軍が南京に入城した時、5万人余の難民と
武装を解いた兵士が燕子磯の長江江辺まで逃げて来ており、
そこから長江を渡って江北へ避難できればと願ったのだが、
誰知ろう、この時燕子磯一帯はすでに敵軍艦の支配下にあったのである。
敵機も絶え間なく江岸に向かって爆撃と掃射をおこない、難民たちは四方に逃げ散った。
南京城を陥落させて敵軍が雲霞の如く押し寄せ、ただちに難民を砂洲中に囲い込み、
そののち数十挺の機関銃を設置し、気違いのように掃射したため、
5万人余の無辜の同胞はすべて殺害された。・・」


 そして、他の例と同様、ここでも「陳 万禄」という人物がその時の模様を証言しています。
 ですから、草鞋峡と燕子磯を合わせ、実に10万人以上の虐殺があった勘定になります。もっとも、燕子磯の犠牲者は5万人ではなく、10万人という中国側の話もあり、この場合、両者で15万人以上という文字通りの「大虐殺」となります。

 10万人の出所は、中国戦犯として約6年(またはそれ以上)、中国に抑留された人たちの会・中帰連(中国帰還者連絡会)の一行が、1965(昭和40年)に南京を訪れた際、対外文化協会から説明を受けたというもので、一行の1人(山岡 繁)が『中華人民共和国の戦争被害地を訪ねて』に書き残しています。
 山岡はこのHPでも登場した第59師団独歩44大隊の下士官でしたので、直接会ったことはないのですが、山岡の戦友からいろいろと話を聞いておりました。ただ、南京の話はでませんでしたが。

・ 観音門の虐殺
 対外文化協会の説明によれば、燕子磯10万人、それにもう一ヵ所、「観音門」における虐殺があったとし、その数3万人としています。この観音門での虐殺が、28ヵ所の「集団虐殺」に含まれているかどうかは分かりません(11件だけ訳出されていますので)。
 ともあれ、草鞋峡、燕子磯、観音門を合わせれば、犠牲者13万人〜18万人ということになります。
 燕子磯、観音門での殺害数には疑問を呈しながらも、大虐殺派の先駆者・洞 富雄は、「とにかく、燕子磯や観音門でも、そうとうひどい大量虐殺事件のあったことは否定できないと思う」(『決定版 南京大虐殺』)と書いています。

・ 魚雷営の大虐殺
 ここで、2番目に出てくる魚雷営での虐殺にふれておきます。

〈1937年12月15日、南京城陥落の次の日、一般人と武器を捨てた軍人9千余人は、
日寇の俘虜とされたのち、海軍魚雷営まで押送され、機関銃による集中掃射を受け、
殷有余(いんゆうよ)ら9人が脱出したほかは全員殺害された。〉


 というものです。これでさらに9千余人が加わりました。

 草鞋峡、燕子磯、観音門、それに魚雷営と4ヵ所におよぶ“大虐殺”を一括紹介したのには理由があります。
 燕子磯と観音門とは目と鼻の先、数百メートル程度しか離れていないでしょう。また、日本側からこの地での捕虜の存在や殺害に関する資料、証言は出てきていません。
 ですから、草鞋峡の「虐殺」、つまり幕府山で出た大量の投降兵の処置と重複しているか、あるいは伝聞をもとに話を創りあげたとの見方がでて当然のことでしょう。
 もっとも、燕子磯、観音門の虐殺を認める日本側研究者はごく少数ですし、洞自身の書いたものも半信半疑というか、自身のなさそうな言い回しになっています。

 魚雷営の方ですが、上記の略図からもある程度わかるように、大量の投降兵のでた幕府山砲台と近いところにあります。65連隊による幕府山事件は、12月16、17日の2日にわたる捕虜殺害で、16日がこの魚雷営、17日は草鞋峡が現場と考えれています。
 まとめれば、燕子磯、観音門の殺害は重複または創作、草鞋峡と魚雷営の「大虐殺」は、幕府山事件に関連する出来事と考えられます。

B 漢中門外の大虐殺
 3番目に出てくるのが、この漢中門外の虐殺で、以下のごとく書いてあります。

〈1937年12月15日、日本軍は司法院難民収容所において、
制服着用の警察官100余人と軍服を脱ぎ換えていた者300余人、
ほかに軍民1000余人、総計2000余人を捜索のうえで捕え、
全員を室外に追い立て、4列縦隊に並ぶよう命令し、漢中門外まで押送してのち、
機関銃で掃射し、さらにたきぎとガソリンで焼却した。〉


 この「大虐殺」は、殺害現場に連行されながらも、なんとか脱出した元警察官・伍 長徳の証言で構成されています。
 この出来事は上述の「敵人罪行調査報告」の4番目にでてきたC 漢中門2、000余名(被害者 伍長徳、陳永清証言)と同一のものですので、これも別の項で取り上げます。

 ここまで見てきたように、どの「大虐殺」の犠牲者をとっても、必ず難民など一般市民(老若男女)が数多く含まれていると書かれて(証言されて)います。日本軍の冷酷非情さを強調するためでしょうが、注意をはらう必要があるでしょう。
 もうひとつ、最初にでてくる「下関煤炭港における大虐殺」を紹介します。

 C 下関煤炭港における大虐殺

〈1937年12月16日、日本軍は難民区の各戸と各収容所から捜索のうえ
捕らえてきた数万人の青年を下関煤炭港に連行し、機関銃で惨殺し、死体を長江に投げ入れた。
被害者のひとり徐 静森の父 徐 嘉禄 と兄 徐 gは、証言の中で2件の血債を証言している。
ひとつは大方港の池の端で無辜の青年数百名を殺害したもの、もうひとつは
下関煤炭港で数万の青年を殺害 したものである。〉


 と説明があります。以下、2人の証言全文を掲げます。

〈民国26(1937)年12月16日午前、わたしらが家の中に身を隠していると、想いもよらず突如敵兵4名がやって来ました。腕に“中 島”といった字の腕章をしていて、戸口から入って、もっぱら青年を捜索し捕らえました。
 ちょっとの間に一緒にいた十数人の青年が一人一人室外に追い立てられました。その時、息子の徐 静森はちょうど室内にいて、とっさのことで難を免れなかったのです。敵はかれらを室外に追いたてるや、まず個別に検査したのち、直ちに捕らえて拉致しました。
 この時わたしは子供が故なく拉致されるのを見て、戸口に急いでかけ寄り、事の顛末を見とどけようとしましたが、見たのはただ敵兵が道の要所を固め人の往来を絶ち、群なす青年が敵によって押すな押すなの状態で大方巷の一広場に集められているのが見えただけでした。たそがれ時になって、この広場一ヵ所だけで、計数万人の青年が集められていました。
 敵はこの青年たちの中から、衣服や履き物が整っていない者数百人を選び、これを付近の池の端で機関銃を用いて惨殺しましたが、その他の青年はことごとく拉致され、今日に至るも杳として消息がありません。
 ただ、数日後、一人逃げ戻った青年がいて、かれの言うには、敵はその晩、かれらを下関煤炭港まで押送し、縄で縛り上げたのち、ただちに機関銃で惨殺し、揚子江の中に投げ入れたと言います。かれはその時銃声とともに倒れたため、足に負傷しただけでした。
 敵の挙動を総じて見るに、また当日故なく拉致された数万の青年が今なお行方知れずであるという事実が証明しているように、狂暴な敵は、まぎれもなく計画的に南京大虐殺をやったことがわかるのです。〉

 この証言が事実と考えるには、多くの疑問点があります。
 終戦時、海軍将校で東京裁判のすべてを傍聴した富士 信夫は、この証言についていくつもの疑問点を『私の見た東京裁判 下』(講談社学術文庫、1988年)に書いています。

 9項目のうち、いくつかを書き出しますと、
(1) 大方巷の広場に集められた青年の数をどのように確認したのか。数万人とはどれくらいの人数なのか。2,3万人なのか、7,8万人なのか。
(2) 広場には、そこに集められた青年の数を数えることが出来るように明りがついていたのか。
(3) 数万人の青年を広場に拉致してきた日本兵は何人くらいいたのか。
(4) 押送の間の道路には明りがついていたのか、暗かったのか。押送の間、青年達は逃亡もせず、おとなしく煤炭港まで押送されて行ったのか。

 そして富士 信夫は、「正常な感覚を持ち、物事を常識的に判断し得る能力を持つ人で、この文章を読んで、これが実際に起った事件についての事実そのものの真実と受取る人は、恐らく一人もいないであろう」と記しています。
 この見方、もっともだと私は思います。このような虐殺例を積算して、30万人ときには40万人、50万人という、とてつもない数となっていることがよくわかります。

 なにせ、28件の集団虐殺があったというのですから、まだまだたくさん残っています。
 とにもかくにも、ここまで見てきたことからも分かるように、中華民国の調査報告、中華人民共和国の調査報告のいずれも、日本側の資料、証言の裏づけがなければ、とうてい信頼できないと判断して間違いはないはずです。

(2) 個別分散虐殺・・858件15万人以上
 「個別分散虐殺」によって15万人余 が犠牲になったとし、@からCまでに分かれ説明されています。見出しだけ掲げれば、
@ 「雨花台と中華門一帯での虐殺」
A 「日本軍は市内に侵入し、到る所で虐殺を行った」
B 「殺人競争」
 などとなっています。

 Bの「殺人競争」は例の「100人斬り競争」のことです。  これらの中で、多数の「証人」が日本軍の残虐ぶりを証言しています。そのまとめでしょう、個別分散的虐殺は全部で858件、虐殺された者は15万人以上に達したとし、以下のように総括します。

〈死体埋葬工作は数ヶ月の長きに及んでおこなわれ、証人となった者は1200人余に及んだ。
死体埋葬を担当した世界紅卍字会南京分会の統計によれば、埋葬した死体は4万3,071体。
また、南京崇善堂が埋葬した死体は11万2,226体であった。
この2つの慈善団体によって埋葬された死体は合計15万5,337体であった。〉


 この「個別分散的な虐殺」につづいて、「婦女姦淫の暴行」、「放火と略奪」、そして「動かぬ証拠は山の如く、いいのがれは許さない」とつづきます。

 ここまで、中国(蒋介石政府と共産中国)の主張する「30万人大虐殺」の中身を概観してきました。
 次に、当時、南京に居住した欧米人や派遣されていたジャーナリストがなにを見、なにを書き残したか見ておきます。中国の主張との一致点、不一致点が分かるはずですので。

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