南 京 虐 殺(3)

―南京・東京裁判判決と根拠―
⇒(4)中国「30万人大虐殺」の根拠


 いまや中国のいう30万人虐殺を主張する日本人論者はまず、いなくなったといってよいでしょう。
 ですが、「20万人以上」「10万人以上」 という膨大な虐殺数を肯定、あるは否定しない日本人学者、教職員、研究者が今なお、少なくありません。
 ですから、わが国の中学生、高校生用の歴史教科書に10万人、20万人以上といった大量虐殺の記述が掲載されるのです。
 では、この大量殺害の主要な根拠は何かといえば、一つが南京と東京で行われた裁判、つまり南京裁判、東京裁判の判決であり、もう一つが中国の主張する「30万人大虐殺」に多くを負っていることは容易に理解できます。
 そこで、2つの裁判ならびに「30万人(以上)」とする中国側の主張について、その足跡を概観しておくことにします。ただ、次の点を混同しないようになさって下さい。

・ 中華民国と中華人民共和国
 ご承知のように、終戦直後に行われた南京裁判、東京裁判の判決で「南京大虐殺」の存在が知らされましたが、この裁判にかかわり、「30万人大虐殺」を主張したのは中華民国(蒋介石率いる国民党政府)でした。
 というのも、上海戦につづく南京攻略戦は日本軍と蒋介石軍との戦いでしたし、終戦当時、中国を支配していたのは中華民国で、アメリカなどとともに戦勝国として名を連ねたからでした。

 一方、現在も何かと問題になるのは、中華人民共和国(共産中国)との間です。戦勝国であった中華民国は共産党軍との争い(国共内戦)に敗れ、中国大陸を追われて台湾に拠点を移したからです。
 ですから、「30万人大虐殺」は、中華民国の主張を共産中国が引き継ぎ、さらに一層誇張した形で日本非難となって今日に至っています。

1 南京裁判の判決


 20万人、30万人という膨大な数字は、南京裁判(南京戦犯軍事法廷)と東京裁判から歩きはじめました。両裁判は南京、東京と場所は離れているものの、ほぼ同時期に進行していきました。
 南京法廷は北京、上海、広東など10ヵ所で開かれた中華民国政府による法廷の一つで、いわゆる「BC級戦犯」が対象となります。
 この南京法廷では、“南京虐殺の実行者”に対する審判が主要な柱とされ、何かと議論の多い「百人斬り競争」の向井、野田両少尉が裁かれたのもこの法廷でした。
 大虐殺の実行者とされた谷 寿夫中将(第6師団師団長)に対する判決文のなかに、虐殺数の内訳が出てきます。
 谷中将率いる第6師団は、第16師団(師団長・中島 今朝吾中将)、第18師団(同・牛島 貞雄中将)、第114師団(同・末松 茂治中将)などの部隊とともに、大規模な虐殺、放火、強姦、掠奪を行ったとします。
 殺害数については、以下のとおり「集 団 屠 殺」および「個別分散屠殺」の2つに大別し、前者の19万人、後者の15万余人と合わせ、「30万人以上」にのぼったとします。

・ 中華門外花神廟・宝塔橋・石観音・下関・草鞋峡等において集団射殺された軍民 19万人余
・ 零星屠殺、その死体が慈善団体によって埋葬されたもの 15万人余。
 被害者総数は30万人以上に達する。死体が大地をおおいつくし、悲惨きわまりないものであった。

 また、民間人に対する日本軍の悪逆さについても、次のような例があげられました。
 ある婦人は日本軍に

〈「輪姦されたあと腹を割かれ焼き殺された」といい、
また日本軍は、「中華門外において少女を輪姦したあと、通りかかった僧侶にも強要した。
僧侶が拒否すると宮刑に処して死に至らしめた。」〉


 などというのです。「宮刑」とは性器を切り取る刑を意味します。
 このように、南京判決は34万人以上という量とともに、日本軍の際立った悪逆さを質の面からも断罪したのでしょう。輪姦(強姦)後に腹を裂く、またここでは僧侶と少女になっていますが、男親にその娘との姦淫を日本兵が強要するといった話は珍しくはなく、中国抑留者(=中国戦犯)の手記などにも見られます。まったく馬鹿らしい話なのですが、これを信じる日本人がいるのですから困ったものです。

2 東京裁判 判決内訳


 東京裁判の判決が「20万人以上」であったことはすでに記しましたが、その内訳はどうなっているのでしょうか。判決文から整理しておきます。
 起訴状はいいます。1937年12月初め、日本軍が南京に近づくと100万市民の半数以上が市から避難、中国軍は市防衛のために5万人を残して撤退したと。そして、残った兵もその後、撤退するか、「武器と軍服を棄てて国際安全地帯に避難したので」、12月13日の朝、日本軍が入城したときには「抵抗は一切なくなっていた。日本兵は市内に群がりさまざまな残虐行為を犯した」とします。
 以下、判決から要点を抜き出します。

(1) 虐 殺 数

@ 非戦闘員1万2千人殺害
 日本軍は占領後わずか2、3日の間に、少なくとも12,000人以上の子供を含む非戦闘員を殺害(虐殺)したと以下のように判決を下しました。


〈1937年12月13日の朝、日本兵は市内に群がってさまざまな残虐行為を犯した。
目撃者の一人によると、日本兵は同市を荒らし汚すために、
まるで野蛮人の一団のように放たれたのであった。
兵隊は個々にまたは2、3人の小さい集団で、全市内を歩きまわり、
殺人・強姦・掠奪・放火をおこなった。
そこには何の規律もなかった。多くの兵は酔っていた。
それらしい挑発も口実もないのに、中国人の男女子供を無差別に殺しながら、
兵は街を歩きまわり、ついには所によって大通りに被害者の死体が散乱したほどであった。
他の一人の証言によると、中国人は兎のように狩りたてられ、
動くところを見られたものはだれでも射撃された。
これらの無差別の殺人によって日本側が市を占領した最初の2、3日の間に、
少なくとも1万2千人の非戦闘員である中国人男女子供が死亡した。〉


A 民間男子2万人殺害
 さらに判決は、「中国兵が軍服を脱ぎ捨てて住民の中に混じり込んでいる」ことを口実に、

〈兵役年齢にあった中国人男子2万人は、こうして死んだことがわかっている。〉


B 捕虜殺害3万人以上
 また、捕虜ついては以下のように殺害したとします。

〈中国兵の大きな幾団かが城外で武器を捨てて降伏した。
72時間のうちに揚子江の沿岸で機関銃掃射によって、集団的に殺害された。
このようにして、右のような捕虜3万人以上が殺された。〉


 この捕虜殺害にあたって、「裁判の真似事」も日本軍はしなかったと非難します。

C 避難中の一般人 約5万7千人殺害
 南京の住民は日本兵から逃れるために田舎に避難しました。しかし、ここでも同じ仕打ちを避難民に加えたとし、

〈南京から避難していた一般人のうちで、5万7千人以上が追いつかれて収容された。
収容中に彼らは飢餓と拷問にあって遂には多数の者が死亡した。
生き残った者のうちの多くは機関銃と銃剣で殺された。〉


 以上、@からCを足し合わせると、11万9千人以上、つまり約12万人を殺害したことになります。

D 判決の総括 ・・20万人以上殺害
 そして、判決は以下のように総括しました。

〈後日の見積りによれば、日本軍が占領してから最初の6週間に
南京とその周辺で殺害された一般人と捕虜の総数は、20万以上であったことが示されている。
これらの見積りが誇張でないことは、
埋葬隊とその他の団体が埋葬した死骸が15万5千に及んだ事実によって証明されている。・・
これらの数字は日本軍によって死体を焼き棄てられたり、揚子江に投げこまれたり、
またはその他の方法で処分されたりした人々を計算に入れていないのである。〉


(2) 強姦 2万件
 強姦について、東京裁判は次のように判決しました(ほかに放火等に言及がありますが省略)。

〈幼い少女と老女さえも、全市で多数に強姦された。
そしてこれらの強姦に関連して、変態的と嗜虐的な行為の事例が多数あった。
多数の婦女は、強姦されたのちに殺され、その死体は切断された。
占領後の1ヵ月の間に、約2万の強姦事件が市内に発生した。〉


(3) 判決をまとめると
 以上をまとめますと、下図になります。

東京裁判判決内訳


 判決の結論「20万人以上」に書かれているように、数の明示がない「死体を焼き棄てられたり、揚子江に投げこまれたり、またはその他の方法で処分されたりした人々」を加えれば、「30万人大虐殺」は決して大げさなものでもなく、30万人にかなり接近した大虐殺が実際に起こったと読みとれる判決になっています。
 つけ加えますと、東京裁判の検察側最終論告には、「6週間に南京市内とその周りで殺害された概数は26万ないし30万 」 で、全部が裁判なしで残虐に殺害された」 とあり、一方、松井 石根大将に対する判決は、「この6、7週間の期間において、・・・10万以上 」 が殺害されたとしてありました。
 かたや「20万以上」、かたや「10万以上」という支離滅裂さは、裁判の体裁をとってはいるものの、しょせんは戦勝国の勝手放題を示しているのでしょう。

3 判決根拠となった主要資料


 以上のように、両裁判の判決にあたって、当然のことながら根拠が示されました。調査資料や証言などです。
 2つの裁判で、ベイツ・金陵大学教授(宣教師、アメリカ人)、スマイス・金陵大学教授(アメリカ人)らが証言するなど、証人や多くの証拠が共通したものでした。とくに東京裁判の判決に欧米人の果たした役割は決定的といってよいものでした。
 自ら出廷し証言したのは、上のベイツ、スマイスに加えて、マギー牧師(アメリカ人)、ウイルソン(金陵大学付属鼓楼医院勤務、アメリカ人)ら、「安全区国際委員会」「国際赤十字委員会」の委員たちでした。また、口述書を提出したフィッチ(南京YMCA副委員長)、ダーディン(NYタイムズ記者)らがいます。
 以下、主要な資料を掲げますが、これらは「南京事件」を知るための基本資料といえるものです。ここでは紹介程度にとどめ、別項で少し詳しく記すことにします。

(1) 『敵人罪行調査報告』
 南京地方法院が終戦直後、裁判に間に合うように急きょ、調査したものです。調査結果は南京裁判、東京裁判に提出され、判決に向け大きな役割を担いました。
「集団虐殺」「個別分散虐殺」を合わせ、27万9千余人という膨大な犠牲者、これを証拠立てる15万余体の埋葬記録、また残忍な殺害方法などは、ほぼ判決に取り入れられました。

(2) 『戦争とは何か』
 イギリスの新聞、マンチェスター・ガーディアン紙の記者であったハロルド・テインパーリー の編著によるもので、日本軍の数々の悪行(暴行、殺人、放火、掠奪など)が記述されています。
 東京裁判の判決にある「非戦闘員1万2千人殺害」「2万件の強姦事件」はこの書にありますので、この影響といってよいでしょう。
 また、安全区(難民区)における日本軍の暴行を日本当局に提出した「南京暴行報告」、また日本大使館に宛てた「国際委員会の書簡文」などが収められています。この書は中国語、日本語等に訳され、販売される一方、各方面にばらまかれたようです。
 またこの書は中立の外国人が記録した資料とはいえないことが判明しています。というのは、ティンパーリは中国国民党の中央宣伝部顧問に就任し、宣伝工作に従事したことが分かっていますし、この書も国民党国際宣伝処から資金提供されて書かれたもので、欧米、とくにアメリカ政府、アメリカ国民の反日感情に大きな影響力を発揮しました。
 また、ティンパーリー自身は両裁判ともに出廷しませんでした。

(3) スマイス報告
 南京にある金陵大学の教授、L・スマイス(アメリカ人)による南京地区の戦争被害調査報告、略称「スマイス報告」です。都市部と南京郊外の2つに分けて調査が行われ、民間人の人的被害数などが言及されています。
 これに類似する調査資料がないこともあって、よく引用されるものです。ただ、この調査も上記の『戦争とは何か』と同様、国民党から資金提供を受けて行われたことも分かっています。

(4) 『埋葬報告書』
 遺体の埋葬にあたった現地の2つの慈善団体、紅卍字会(こうまんじかい)と崇 善 堂の報告です。
 紅卍字会で埋葬作業にあたった許 伝音(紅卍字会南京分会副委員長)は東京裁判に出廷し、4万3千体 を埋葬したものの、これは過小評価であったと証言しました。
 もう一つの崇善堂は11万余体を埋葬したとする報告書を提出、紅卍字会の分と合わせて15万体余りという膨大な埋葬数になるため、「30万人大虐殺」を証拠だてるものとして判決に反映されました。
 さらに日本の大学教授などの研究者は、これを根拠に置いて、中国側の「30万人大虐殺」の言い分をほぼ認める説を展開しました。また日本のマスメディアも「30万大虐殺」を補強、補完する形の報道姿勢に終始したのです。
 さらに、つけ加えれば、次のものがよく知られています。

(4) 『陥都血涙録』
 当時、蒋介石軍の士官であった郭 岐の手によるもので、陥落後3ヵ月間の“見聞”を中心に記した記録です。日本軍の残虐ぶりがあれこれ記されています。

(5) 『南京安全区档案』
 徐 淑希・燕京大学教授が編纂したもので、「安全区」(難民区)にかかわるものです。
 この書は日本軍による暴行を記録した「南京暴行報告」、日本大使館に宛てた「国際委員会の書簡文」を中心に編まれています。
 「南京暴行報告」と「国際委員会の書簡文」も重要な資料で、この半分程度が、上記の『戦争とは何か』に収められています。このほかに、東京裁判では中国人はもとより、欧米人を含め多数の証言者が登場しました。

4 上記資料を読んで見たい方に


 原典は英語と中国語になりますが、これらは邦訳されたものが出ていますので、紹介しておきます。

 『敵人罪行調査報告』および「紅卍字会南京分会 埋葬統計表」は、洞 富雄編『日中戦争 ― 南京大残虐事件資料集』第1巻(軍事裁判関係資料編)・・青木書店、1985年

 『戦争とは何か』『スマイス報告』『南京安全区档案』は、洞 富雄編『日中戦争―南京大残虐事件資料集』第2巻(英文資料編)・・青木書店、1985年

 『陥都血涙録』 は、南京事件調査研究会編訳『南京事件資料集 中国関係資料編』・・青木書店、1992年に掲載されています。
 
 なお、日本側の『戦闘詳報』など軍関係の公文書、また日本軍将兵の「日記」など1次資料の多くが、『南京戦史資料集 T、U』(偕行社、Tは1989年、Uは1993年刊)に掲載され、また通史として『南京戦史』(同、1989年)があります。
 また、これらは勉誠出版より普及版(?)が刊行されました。

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