南 京 虐 殺 (1)

「大虐殺派」から「なかった派」まで
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1 「よくわからない」が本音では


 南京虐殺問題は日本国内でも長期にわたって「論争のタネ」となってきました。何について議論されたのかといえば、「大虐殺」が「あった」のか「なかった」のかであり、さらに「虐殺数」の問題に帰着します。

(1)「なかった」のか、「あった」のか
 周知のごとく、中国は「30万人以上」 を事実として動じませんが、日本人論者の主張する「虐殺数」には極端な開きがあり、「ほぼゼロ」、つまり「完全ゼロではないにしても虐殺はなかった」とする論者から、「10万人〜20万人以上」とする論者まで、さまざまな見方が存在します。

 専門家ではない私たちからすれば、正反対ともいえる主張になんとなく不信感を覚えます。常識に合致しないからです。どちらかが(あるいは双方が)、自説に都合のよいように強弁しているのではないかという疑いが捨てきれません。
 かといって、具体的にどう強弁しているのか分かりにくいですし、どちらの主張に理があるのかとなると、判断の下しようがないというのが本当のところだろうと思います。
 というのも、ゼロ説をなす人の本なり論考を読めば、「南京虐殺はなかったのかな」 と思いがちでしょうし、逆に大虐殺派の説を読めば「やはり、大虐殺はあったのだな」 とする判断に向いがちだと思うからです。
 ならば、両者の本を読み較べれば分かるかというとそうはなりません。基礎知識の絶対量が足りないこともあるでしょう、「あった」「なかった」の間を行ったり来たり、逆に“真 相”は遠ざかるばかりです。

(2) 判断のための材料を提供
 となれば、自分で勉強し、自分で判断を下すのがよいのでしょうが、なにせ間口が広く、入り組んでいますから、基礎的な知識を得るにも時間がかかります。またかなりの出費を強いられます。

 ですから、途中で放棄してしまうのが普通でしょうから、断片的、部分的な知識の段階でストップ、全体の理解に近づけないのではと思うのです。となれば、あとは好みや考え方(政治的立場や思想)が幅を利かすことになるでしょう。
 私自身、長い間、全体がよくつかめませんでした。今もどう解釈したらよいのか分からないところが結構ありますから、この問題に興味を持つ方も同様ではないかと思うわけです。

 大虐殺派、ゼロ説派など論者の主張は、
・ どのような資料、証言に支えられているのか
・ また、論者の主張と矛盾する重要な資料、証言は存在しないのか
・ もし存在するとすれば、論者はそれを無視することなく取りあげているのか
・ またその解釈に飛躍、偏向はないか等々
・ これらを見極めるための必要知識は何なのか。

 もし、これらの知識の概要をいくらかでも手に入れられれば、判断がしやすくなることでしょう。それらを手に入れた上で、さらに各自が検討を加えて全体に近づくこと、そうすれば、南京虐殺問題に関する見方、認識も一定の幅を持ちながら、落ち着くところに落ち着くと思えるのです。
 ただ、南京問題はあまりに政治的色彩を帯びたがため、論争自体が終わることはないでしょうが。
 というようなわけで、このHPは異なる意見を紹介しながら、ときに私流の解釈を加え、判断に必要な材料が何かを提示することにしました。不備、不正確なところは機会あるごとに補正していきます。

2 大虐殺派、なかった派、中間派


(1) 30万人からほぼゼロまで
 まず、下の図をご覧ください。
 月刊誌「諸君!」 (2001年2月号)は「三派合同 大アンケート」を元に、“「南京事件」最新報告 ”とする特集を組みました。図は20余人の回答者が寄せた「虐殺者数」をまとめたものです。


 ご覧のように、30万人以上を主張する中国共産党とアイリス・チャンを別にすれば、日本人の間では「20万人説」 から「ほぼゼロ説」まで見方が大きく分かれています。
 10万人とか20万人のように2桁万人を主張する側を「大虐殺派」、不明、ほぼゼロ説を「まぼろし派」、その間の説をなす側を「中 間 派」 とし、3分類されています。もっとも中間派は数千人から2万人程度で、大虐殺派の2桁万人とは大きな開きがあります。

 まぼろし派の由来は鈴木 明の『「南京大虐殺」のまぼろし』(文藝春秋、1972年)からとったものでしょうが、鈴木明はアンケートに「資料不足のためにまったく見当がつかない」 と答え、虐殺が「あったかなかったか」についてはこれまで通り、答えていません。
 ですから、ほぼゼロ説を主張する側は「虐殺はなかった」といっているのですから、「まぼろし派」とするのは語感からいっても正確ではないでしょう。
 ですから、このホームページでは、おおむね10万人以上を「大虐殺派」、ほぼゼロ人を「なかった派」、その間を「中間派」と呼ぶことにします

 なお、この表に名前のない秦 郁彦 ・元日大教授、東中野 修道・亜細亜大学教授はもう1人とともに、〈問題は「捕虜処断」をどう見るか〉という題で3者討論に出ています。
 秦元教授は「3.8万〜4.2万人」(下記の注参照)としていますので「中間派」に、東中野教授はほぼゼロを主張する「なかった派」に分類できます。
 また、故人となった板倉 由明は「1〜2万人」ですので「中間派」、田中 正明、阿羅 健一 ほか多数が「なかった派」、本多 勝一・元朝日新聞記者は回答を寄せませんでしたが、「大虐殺派」に入れて間違いないでしょう。私の回答は「1万人前後」 ですので、「中間派」に分類されています。

 お気づきかもしれませんが、大虐殺派はことごとく大学教授で、逆に中間派・なかった派の多くが在野の研究者という際立った特徴が見られます。なかった派、中間派のなかに何人かの大学教授の名もありますが、歴史が専門ではなく、秦 郁彦は例外に属します。
 こういった具合に、日本人の学者、研究者の間で大きな違いがあり、「終わりそうにない論争」 がつづいています。

(注) 『南京事件 増補版』(中公新書、2007年)のなかで、秦は「この20年、事情変更をもたらすような新史料は出現せず、今後もなさそうだと見きわめがついたので、あらためて4万の概数は最高限であること、実数はそれをかなり下まわるであろうことを付言しておきたい。」とし、具体的な数を示していないものの下方修正しています。
 ただし、BSフジの番組「プライムニュース」での討論会(秦教授、藤岡信勝教授それに明治大学?教授の3人)で、秦は「4万2千人」と発言しました。奇妙に思えたので、書き添えます。


(2) 「なかった派」に望むこと
 「なかった派」の主張を基調とする報告が雑誌などでしばしば目にします。
 左画像は月刊誌「WiLL」の表紙(2007年12月号)ですが、「中国のプロパガンダに終止符!」とし、「南京大虐殺」「嘘」 の一字を添えてタイトルにしています。
 この本を読めばわかることですが、「ゼロ説」が基調です。ならば、「大虐殺」はもちろん「中虐殺」「小虐殺 」もなかったというのでしょうから、「南京虐殺はウソだった」あるいは「南京虐殺はなかった」とでもした方が、主張に即していると思うのですが。

 というのも、「南京大虐殺はなかった」という表現をよく見かけますが、これでは「中虐殺」「小虐殺」は認めているのかという疑問が残ります。
 ですから、「なかった派」は少数の虐殺はあったと考えるならその概数を示し、その上で、「南京虐殺はなかった」とハッキリ言い切るべきと思いますし、また編集者のつけることの多いタイトルもそうすべきと思うのですが。


3 「南京大虐殺」の定義


 ご承知のように、「南京大虐殺」は突如として東京裁判に登場しました。そして、この裁判の判決、および中国の主張する「犠牲者30万人」 を軸に、長い論争が始まりました。
 ここで、「南京大虐殺」の具体的内容について、東京裁判の判決などから整理しておきましょう。

 (1) 東京裁判判決
 まず、判決文の主要部分(一般判決)をご覧ください。

〈後日の見積りによれば、日本軍が占領してから最初の6週間に
南京とその周辺で殺害された一般人と捕虜の総数は、20万以上であったことが示されている。
これらの見積りが誇張でないことは、
埋葬隊とその他の団体が埋葬した死骸が15万5千に及んだ事実によって証明されている。〉


 期間は「最初の6週間」 といいますから、日本軍が入城した12月13日から1938(昭和13)年1月23日頃ということになり、地理的には「南京とその周辺」 で、殺害されたのは「一般人と捕虜」 、その数は「20万人以上」 という膨大な数になっています。


 そして20万人以上という数は、埋葬された「15万5千体の死骸 」 で証明されているというのです。もっとも、東京裁判における判決が「20万以上」の犠牲者と主張が一貫していたわけではありません。
 南京虐殺問題のいわば管理責任の罪を背負って死刑となった松井 石根大将(中支那方面軍司令官。上写真は12月17日の入城式の模様で、先頭を進む馬上姿が松井大将)に対する起訴状は「20万人以上」でしたが、判決では「10万以上」とかなり少なくなっています。
 理由はよくわかりませんが、裁判自体が杜撰なものだったことを示す一例といってよいのでしょう。そして、日本兵士の悪行ぶりを判決文の一節は以下のようにつたえ、難じています。

〈 目撃者達によって、同市は捕えられた獲物のように日本人の手中に帰したこと、
同市は単に組織的な戦闘で占領されただけではなかったこと、
戦いに勝った日本軍は、その獲物に飛びかかって、際限のない暴行を犯したことが語られた。
兵隊は個々に、または2、3人の小さい集団で、全市内を歩きまわり、殺人・強姦・掠奪・放火を行った。
そこには、なんの規律もなかった。多くの兵は酔っていた。
それらしい挑発も口実もないのに、中国人の男女子供を無差別に殺しながら、兵は街を歩きまわり、
遂には所によって大通りや裏通りに被害者の死体が散乱したほどであった。〉


 中国の主張「犠牲者30万人以上」は、東京裁判に中国が提出した「南京地方法院検察処敵人罪行調査報告」(後述)にある「被殺害者確数・34万人」 に依拠した数字でしょう。

 また、東京裁判と並行して行われた南京法廷(国防部戦犯裁判軍事法廷、BC級裁判)で、谷 寿夫中将(第6師団師団長)が死刑に処せられましたが、ここでの判決は「犠牲者総数30万人以上」でした。
 なお、中国が主張する「30万人以上」の内訳は、( ⇒ その4)で提示いたします。

(2) 「太平洋戦争史」と「真相箱」
 この判決に先立ち、「南京大虐殺」がいかに冷酷非道なものであったか、GHQ(占領軍総司令部)の強権によって新聞、ラジオ(NHK)を通じた宣伝が執拗に行われました。
 いわゆる、「戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画」(WGIP)です。この宣伝が敗戦直後から、実行されたことなどは既述( ⇒ こちら)したとおりです。

 終戦4ヵ月後の12月8日から、GHQはこの宣伝計画にそって、「太平洋戦争史」(全10回)の掲載を始めるよう新聞各紙に命じました。連載の初日、まず「南京虐殺」が取り上げられました。
 日本人が「南京大虐殺」の存在を知ることになった初めての報道と理解されています。

〈このとき実に2万人の市民、子供が殺戮された。
4週間にわたって南京は血の街と化し、切り刻まれた肉片が散乱していた。
婦人は所かまわず暴行を受け、抵抗した女性は銃剣で殺された。〉
―1945年12月8日付け朝日―


 さらに、この「太平洋戦争史」をドラマ仕立てにしたNHKのラジオ放送「真相はこうだ」、さらに「真相箱 」へと引き継がれました。真相箱は読者の質問に答える形式で、日本軍の悪意悪行をあれこれ吹き込むもので、日本人への「洗脳工作」だったに違いありません。
 放送の原本が『「真相箱」の呪縛を解く』(桜井よしこ、小学館文庫、2002年)として復刻されましたので、いつでも読むことができます。
 南京については、「日本が南京で行った暴行についてその真相をお話し下さい」の問いに、以下のように答えています。この文庫本で4ペ−ジ強のものからの抜粋です。

〈我が軍が南京城壁に攻撃を集中したのは、昭和12年12月7日でありました。
これより早く上海の中国軍から手痛い抵抗を蒙った日本軍は、
その1週間後その恨みを一時に破裂させ、怒涛の如く南京市内に殺到したのであります。
この南京の大虐殺こそ、近代史上稀に見る凄惨なもので、実に婦女子2万名が惨殺されたのであります。
南京城内の各街路は、数週間にわたり惨死者の流した血に彩られ、
またバラバラに散乱した死体で街全体が覆われたのであります。
この間、血に狂った日本兵士らは、非戦闘員を捕え手当り次第に殺戮、掠奪を逞しくし、
また語ることも憚る暴行を敢て致しました〉


 以上のような経過を経て、「20万人以上」という膨大な数の殺害、それも老若男女を手当たり次第、しかも女性を見れば見境なく暴行という日本軍による大虐殺が日本人の前に突きつけられました。ですが、大多数の日本人は食うに忙しいという事情も手つだって、ことさら問題視することもなかったようです。というのも、この話、信じてはいなかったからと思われます。

 ところが、日中国交回復を目前にした1970年代初めから、朝日新聞をはじめとする日本のメディアは、南京虐殺をはじめ、日本軍の蛮行をこれでもかこれでもかと執拗に糾弾しつづけ、やがて「南京大虐殺」はわが国の歴史教科書、百科事典に記載されるようになりました。
 しかも、20万人、30万人という途方もない数とともにでした。同時に、長い論争の始まりでもあったのです。

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