南 京 大 虐 殺
まえがき

― 歴史教科書はこう教える ―
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 「南京大虐殺」は1937(昭和12)年に始まる南京攻略戦の最中の出来事とされていますので、すでに80余年が経過したことになります。
 ですが、この問題は依然として日中間の難題であることに変化はなく、ときにはアメリカまで舞台を広げ、問題化します。
 というのも、南京虐殺が政治問題に発展し、先鋭化しているからにほかありません。政治上の問題であれば、問題化することによって何らかの利益が期待できるかぎり、中国は南京問題を利用しつづけることでしょう。
 また、日本国内にあっても、近代・現代(=近現代)の歴史を語るとき、しばしば引き合いに出されますし、虐殺数を中心に議論が収束に向かう兆しは見えません。

 この古くて新しい“南京大虐殺”が、日本政府およびわれわれ日本人にあたえた影響はといえば、萎 縮 の2文字ではなかったかと思います。言うべきことを言わず(言えず) に、ただただ、「日中友好」 の4文字を唱え、これ以外の言動は存在しないがごとくに自己規制してきました。

 日中友好を維持し促進するには、わが方の主張を極力遠慮し、中国の主張に歩み寄らなければ成りたたないのが現実の姿で、日中友好を前面に出せば出すほど国益は損なわれてきました。いや、国益などと言おうものなら、危険思想の持ち主とばかりに同じ日本人に糾弾されるのです。「南京大虐殺」など日本軍の残虐行為を忘れたのか、反省が足りない等々と。

 ところで、日本での「南京大虐殺」の研究が進めば進むほど、中国の主張する「30万人説」との距離が開いていると思うのですが、日本の歴史学会、教育界、法曹界等で、少なくとも表立って研究成果が反映されているようには見うけられません。
 近現代史を専門とする歴史学者、学校教育にたずさわる教育者等に強大な影響力を持ちつづける朝日新聞、NHKをはじめとするメディアが、「30万人説」への異論、疑問をまともに報じないからでしょう。
 ですから、学校や、新聞・テレビを主な情報源とする普通の日本人の「南京大虐殺」の見方は、「30万人」は多少割り引くにしても、「大虐殺派」のいう10万人あるいは20万人あたりを受け入れているのだろうと思います。
 メディアと南京虐殺のかかわりは、本文を見ていただくことにして、ここでは日本の歴史教科書がどう記しているかを見ておきます。

(1) 「南京大虐殺」と教科書
 最初の教科書登場は、1974(昭和49)と藤岡 信勝元東大教授が指摘します。私の調べた範囲では、教育出版の1975年度版、中学校の教科書でした。
 1974年度版の教科書というのは、実際の作成は1972年頃ですから、いやでも1971年8月から始まった朝日新聞の「中国の旅」連載を想起しないわけにはいきません。

 「中国の旅」は、平頂山事件、万人坑、南京事件 、 三光政策 の標題のもとこの順に連載されました。後にこの4件すべてが日本の歴史教科書に載ることになります。

 連載がどんな調子で書かれているか、「南京事件」第1回の終わりの部分を引用しておきます。

〈まもなく、かれら (注、先に城外に逃げ出した蒋介石軍の将校ら) のあとを追って
2つの門に大衆が殺到した。
門の外からは蒋介石軍の兵隊に交通しゃ断され、内からは日本軍がなだれこむ。
大混乱の群衆や敗残兵に向って、日本軍は機関銃、小銃、手投げ弾などを乱射した。
飢えた軍用犬も放たれ、エサとして食うために中国人を襲った。
2つの門に通ずる中山北路と中央路の大通りは、
死体と血におおわれて地獄の道と化した。 〉


 さてこの記述は正確なものなのでしょうか。間違っているとすれば、どこがどう間違っているのでしょう。
 朝日連載「南京事件」は、1971年11月4日から開始されましたので、教科書採用に決定的ともいえる影響をあたえたのは間違いないところです。
 また、他の3つの事件も教科書はもとより百科事典に掲載されたことを考え合わせれば、日本の歴史学者や教科書執筆者が「中国の旅」をいかに安易に受け入れたかがわかろうというものです。ほとんど盲目的といってよい傾倒ぶりでした。

 この事実は、大学教授を中心とする「有識者」「文化人」らが、朝日新聞の精神的支配下にあったことを意味するでしょう。さらに加えれば、その朝日新聞は中国の言い分をそっくり認める、同様の論陣を張る、つまり精神的支配下にあったことも示しています。

(2) 朝日報道 ⇒大学教授 ⇒教師 ⇒生徒へ
 大分前になりますが、「中国の旅」がどの程度、学校教育に浸透しているのか、中学、高校の教科書および教師用「虎の巻」 (『指導資料』としたものが多い)を調べたことがあります。高校教科書には多数が顔を出し、中学校用にも何例かが見られました。
 「虎の巻」は際立った残虐場面を「中国の旅」から引用し、いかに日本軍は血も涙もない狂気の集団であったかを生徒指導にあたる教師に焼きつけるように編集されています。

 @ 中学用「虎の巻」
 中学教師用の「虎の巻」から南京関連の記述例をあげてみましょう。
 「中学社会の研究 歴史的分野」(日本書籍、平成2年発行分 )は、「ナンキン占領と虐殺事件」とした説明を加えています。ですが、内容は「中国の旅」からの以下の引用がすべてで、他の文言はまったくありません。

〈「1937年12月12日、日本軍は南京に侵入した。
この時には国民党軍はすでに撤退していたが市内に侵入した日本軍は、
婦人や子供をふくむ中国人を狂気のように虐殺した。
大混乱の群集に向かって日本軍は機関銃を乱射し、手榴弾などを投げた。
城下では10万人に及ぶ住民を川辺の砂原に追い出しておいて、機関銃で皆殺しにした。
このため、長江の巨大な濁流も血で赤く染まった。紫金山では2000人が生き埋めにされた。
周辺の農村地帯でも家族全員が日本軍兵士のために虐殺されるということが無数におきた。
こうした歴史にまれにみる惨劇は翌年2月までつづけられ、約30万人が殺された。
しかしそれでもまだこの南京虐殺は、軍の最高部による計画的な虐殺事件ではなかった。
「作戦」としての皆殺しが本格化するのは、日本が戦いに見通しを失った1940年頃からである。
住民と密着し、その強い支援で活躍する共産軍ゲリラに対して、
日本軍はドイツ・ナチスがやったと同じように、女・子供を含む皆殺し作戦をやるようになった。〉
―本多勝一 『中国の旅』より―


 南京における狂気のような日本軍の大虐殺、それでもなおこの虐殺は、軍最高部による計画的なものではなく、1940(昭和15)年ころになると、日本軍はドイツ・ナチスのやった民族抹殺と同様の女・子供を含む「皆殺し作戦」をやるようになったというのです。

 この解釈、どこかでお読みになったはずと思います。ナチス同様の「皆殺し作戦」とは、具体的に何を指していると思いますか。そうです、「三光政策」 を指しているのです。
 そして、「三光政策=三光作戦 」もまた教科書に取り上げられ、猟奇的な残虐に走る日本軍の姿が、「中国の旅」記述をもとに教えられるのです。
 この「虎の巻」に疑いを持たない多くの教師によって、日本軍の残虐行為を中心に批判力のない中学生に教え込まれ、おそらく大人になっても影響は残るでしょうから、過去の日本に対して嫌悪感を持ちつづけて何の不思議もありません。

A 高校用「虎の巻」と「中国の旅」
 高校の方ものぞいておきましょう。

・ 三省堂「詳解 日本史」
 まず教科書ですが、「詳解 日本史」(三省堂、平成5年初版)は、本文の「南京大虐殺」の説明として欄外に次の説明が付されています。

〈南京を占領した日本軍がくりひろげた大規模な掠奪・放火・集団虐殺などの総称が
南京大虐殺あるいは南京事件とよばれる。
戦死者をふくめた犠牲者総数について洞富雄は20万人を下らない数、
中国側は30万人、という見解を持っている。〉


 一方の「虎の巻」の方には、「中国の旅」からの引用はありませんが、「この節で生徒にすすめたい本」 として、トップに 本多 勝一『中国の旅』 が上がっています。
 また「虎の巻」に「中国の旅」から長文を引用している例としては、三省堂「日本史」(平成5年3月、4訂版 )、実教出版「高校日本史」(平成2年、3訂版)などがあります。もちろん引用ヵ所は残虐ぶりが際立ったところです。

・ 三省堂「日本史」
 教科書本文は、〈日本軍が南京を占領したさい、中国人に対する殺害・掠奪・暴行が無統制におこなわれた。占領後の6週間に南京の内外で殺害された非戦闘員・捕虜の数は10万人といわれる(南京大虐殺)〉(全文)とあります。
 一方の「虎の巻」には「中国の旅」から長文の引用がありますので、その一部を書き出しますと、

〈 ・・ときにはまた、逮捕した青年たちの両手足首を針金で一つにしばり、
高圧線の電線にコウモリのように何人もぶらさげた。電気は停電している。
こうしておいて下で火をたき、火あぶりにして殺した。
集めておいて工業用の硝酸をぶっかけることもある。苦しさに七転八倒した死体の群れは、
他人の皮膚と自分の皮膚が入れかわったり、骨と肉が離れたりしていた。
「永利亜化学工業」では、日本軍の強制連行に反対した労働者が、
その場で腹を断ち割られ、心臓と肝臓を抜きとられた。日本兵はあとで煮て食ったという。・・〉


 そしてこの引用文に付けた「解説」は、「100人斬り競争」「三光作戦」 を事実とし、

〈日本の兵士もみな平凡な市民であった。
その市民が侵略戦争に参加した時、人間性を失って「鬼子」になるのであった。〉


 と締めくくっています。
 こんな愚にもつかない話をまともに信じて教科書、虎の巻を書く大学教授ら、またそれを信じた教師によって、真面目くさって生徒に教えられるのですから、どのような歴史イメージを持って生徒が巣立っていくか、おのずと明らかでしょう。

・ 実教出版「高校日本史」
 執筆陣は、宮原 武夫(この当時、千葉大学教授)、黒羽 清隆(元静岡大学教授)をはじめ、編集協力者として大江 志乃夫(茨城大学教授)、青木美智男(日本福祉大学教授)らが名を連ねています。
 黒羽 清隆元教授は長い間、NHK教育テレビで高校の歴史講座を担当していましたので、ご記憶の方も多いでしょう。この教科書は左偏向が強いとして、しばしば批判の対象となりました。
 「虎の巻」の引用文から、一部を抜きますと、

〈末子の弟は、まだ満なら1歳余りの赤ん坊だった。
空腹のあまり、母乳を求めて大声で泣いた。ろくな食物がないから、母乳は出ない。
運悪く10人ほどの日本兵の隊列が土手の道を通りかかった。
気付かれた。「鬼子」 たち2、3人がアシ原の中を捜しに来た。
赤ん坊を抱いた母をみつけると、ひきずり出して、その場で強姦しようとした。
母は末子を抱きしめて抵抗した。怒った日本兵は、赤ん坊を母親の手からむしりとると、
その前面で地面に力いっぱいにたたきつけた。末子は声も出ずに即死した。
半狂乱になった母親が、わが子を地面から抱き上げようと腰をかかめた瞬間、
日本兵は母を後ろから撃った。2発撃った。1発は腰から腹へ、1発は肩からノドに貫通した。
鮮血をほとばしらせて、母は死んだ。・・・ 〉


 こんな話を信じる大学教授らの頭の程度を疑います。これは一般常識の問題でしょうから、頭の問題というより社会経験不足が原因かもしれません。
 そして、「虎の巻」は、教師に以下のごとく指針をあたえています。

〈日中15年戦争での中国側死者は1,000万人をこえる 。
中国人は日本人を鬼子と呼んだ。ここでは、南京大虐殺をとりあげ、2つのこと生徒とともに考えたい。
中国での日本軍の残虐行為は 本多勝一著 『中国の旅』 『中国の日本軍 』が必読文献。(とくに後者の写真は良い材料となる )
 1つは、南京大虐殺にみられる非戦闘員の殺傷の問題(加害の問題)を、
「戦争が悪い」といってしまってよいかということである。
この戦争が「戦争一般」ではなく、日本の侵略戦争であったという所まで深めたいのである。
2つは、歴史を学ぶことの意味までを問う「責任」の問題だ。( 中略 )
私自身は、未来の日本の主権者として、過去の加害の事実を知っている義務があると思う。
と同時に、今後の日本の進路についての責任があると思う。 〉


B 教室内での実践
 このように『中国の旅』、『中国の日本軍』を「必読文献」と文献あつかいしているのですから、常識以前の問題に違いありません。ちなみに『中国の日本軍』は『中国の旅』の写真版と称し、白骨遺体の写真だけでも数十ページ掲載されています。
 中学校のある社会科教師が次のように報告しています。

〈南京虐殺を教えるとき、
教師は本多勝一氏の『中国の旅』のもっとも悲惨な個所を読み上げ、
日本の過去の暗部を「これでもか、これでもか」とさらしてきた。
そうすることが、2度と過ちを繰り返さない唯一の方法であるかのように。〉


 また、夏休みの課題に『中国の旅』 の読後感を提出させる例も相当あったと聞いています。朝日連載「中国の旅」がいかに教室に浸透していたかがわかろうというものです。
 朝日新聞はこの連載の「成 功」に味を占めたのでしょう。南京問題にあってはいわゆる「大虐殺派」を後押しし、従軍慰安婦など日本軍をたたけそうな材料となると、事実を確認することもなく見境なく報道しつづけたのです。それらは誤報、強弁の連続ともいえるものでした。

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