日本兵の凄まじい残虐 2

―『ザ レイプ オブ 南京』に見る残虐 ―


6 『 THE RAPE OF NANKING 』 より

 すでに紹介したごとく、アイリス・チャン(中国系アメリカ人)が書いたこの書は、アメリカをはじめ英国、オ−ストラリア、カナダなど英語を母国語とする人たち、ドイツなど非英語圏でも英語を読める知識層を中心に、日本および日本人がどのような民族なのかを印象づけたという点で「決定的一冊」 になったと思います。
 ここに描かれた日本兵は文明とはおよそ縁遠い残忍な殺人集団であり、女性と見れば子供だろうと老人だろうと見境なく襲う野蛮な姿でした。
 こうした日本兵の蛮行は過去のことだから現在のわれわれと関係ないのだと見過ごすのは大間違いだと思います。
 こうした「吐き気をもよおす」具体例が、アメリカを例にとれば、NYタイムズ、ワシントン・ポストなど有力メディアを通じて流され、政治家や知識層を中心に認知され、日本に対するイメージが出来あがっていきます。そして、間違いを正そうすれば、「事実を認めようとしない卑怯な国民」、「謝罪が不十分」などと書かれるのですから。

 (1) 描かれた日本軍の残虐
 以下の原文をご覧ください。説明の都合上、訳文に番号をつけてあります。
〈The Rape of Nanking should be remembered not for only the number of people slaughtered but for the cruel manner in which many met thier death.Chinese men were used for bayonet practice and in decapitation contests. An estimated 20,000-80,000 Chinese women were raped. Many soldiers went beyond rape to disembowel women,slice off their breasts,nail them alive to walls.
 Fatheres were forced to rape their daughters, and sons their mothers,as other family members watched.Not only did live burials,castration,the carving of organs,and the roasting of people become routine,but more diabolical tortures were practiced,such as hanging people by their tongues on iron hooks or burying people to their waists and watching them get torn apart by German shepherds.  So sickening was the spectacle that even the Nazis in the city were horrified,one proclaiming the massacre to be the work of "bestial machinery" 〉

〈南京の暴虐は虐殺された人数だけではなく、その多くが死にあたった際の残酷な方法も記憶されるべきである。 @ 中国人の男は銃剣の訓練と首切り競争に使われた。 A 推計で2万人から8万人の中国人女性が強姦された。 B 多くの兵隊は強姦だけではなく、女性の内臓を取り出し、胸を切り刻み、生きたままで壁に釘で打ちつけた。 C 父親は娘を、息子は母親を家族の目の前で強姦するように強制された。
 D 生き埋め、去勢、内臓を切り刻み、人々を焼くことなどが通常のこととなっただけでなく、もっと悪魔的な拷問、たとえば舌を鉄のカギに吊るしたり、人を腰まで埋めてドイツセパードがバラバラにするのを眺めることもした。その様は吐き気を催すもので、街にいたナチスも恐怖に陥れ、一人はその虐殺を" 野獣の所業 "と公言した 〉

 既述したように、英語圏の人が「南京事件」を知ろうとすれば、入手の簡単なこの書を読むしかありませんので、影響は計り知れないないはずです。また、慰安婦問題にも影響をあたえずにはおかないでしょう。

 ・ 話の出所は
 @の「首切り競争」ついて、
 度胸をつけるなどという理由で、捕虜を銃剣で刺殺する例は少なくありませんでした。「100人斬り競争」と重ねた結果、出てきたものかと思われますが。

 Aの強姦について、
 東京裁判の判決に次のように書かれています。
 〈幼い少女と老女さえも、全市で多数に強姦された。そしてこれらの強姦に関連して、変態的と嗜虐的な行為の事例が多数あった。多数の婦女は、強姦されたのちに殺され、その死体は切断 された。占領後の1ヵ月の間に、約2万の強姦事件 が市内に発生した。〉
 アイリス・チャンの記述は、この判決を参考にしたのかもしれません。「8万人」の根拠は知りません。案外、1事件あたり平均4人とした結果なのかもしれませんが。この「2万人」という強姦事件数が事実に即したものかどうかは、 ⇒ 南 京 虐 殺をご覧ください。
 
 Bについて、
 強姦の上、女性の内臓を取り出し・・とあるのは、著者自身が中国の伝統的な「殺害方法」についての知識が、ほとんど皆無であったことを証明しています。「生きたまま壁に釘で打ちつけた」といった話は、中国に似た事例が存在するのではないかと思っています。

 Cについて、
 親に強制して娘を犯させるとったいった話は、日本人戦犯の「手記」「証言」などに何例かありました。これらが輸出されて、日本兵の行為として書いたものと思います。

 Dについて、
 「生き埋め、去勢 、内臓を切り刻み、人々を焼くことなどが通常のこととなった」というのですが、生き埋めにした例は1件(1人)だけ、日本兵の聞き取り調査中に聞いたことがありますので皆無とはいえませんが、「通常」というのは事実とかけ離れています。生き埋めは中国で多用された処刑法の一つで「活埋」(かつまい)というのだそうです。
 また、「去勢」に該当するものとして「宮刑」(性器切除)が有名です。舌を裂く刑(せつ舌)もありましたし、「懸背」(けんせき)と称して「背骨をカギに吊るす」刑もあったといいます(以上は『酷刑』より)。となれば、推測ですが「舌を鉄のカギに吊るす」という刑罰がでてきてもおかしくないと思います。

 (2) 25枚の写真より
 この本には41枚の写真が収められています。このうちジョン・ラーベ(南京安全区国際委員会委員長)を含む顔写真が10枚余、松井 石根大将の南京入城式を撮った写真なども含まれていますので、残虐行為に関係ある写真は25枚程度と思われます。下記写真は25枚のうちの4枚です。


  @ 左端の写真
 まず、左端の写真ですが、キャプションには「日本軍は何千人もの女性を狩り集めた。大部分は強姦されたリ軍用売春婦にされた(軍事委員会 台北)」と書いてあります。原文は以下の通りです。
  The Japanese rounded up thousands of women. Most of them were gang raped or forced into military prostitution (Politbro of Military Commitee Taipei )

 ・ 『日寇暴行実録』と『外人目睹中之日軍暴行』
 この写真と同じものが、1938(昭和13)年8月発行の『日寇暴行実録』( 国民政府軍事委員会政治部編)に掲載されていて、おそらく初出と思われます。
 南京攻略戦後、最も早く出版されたものだっただけに、掲載されている数多くの写真は多くの本に転載されることになり、日本軍の残虐行為の証拠として、今日も影響力を持ちつづけています。その意味で、『日寇暴行実録』の存在は大きいものがあったのです。
 もうひとつ、『日寇暴行実録』 と同様の役割を果たした『外人目睹中之日軍暴行』 (国民出版社、1938年8月) について触れておきます。
 この本はオーストラリア人のハロルド・ティンパーリ(中国名、田 伯烈)が書いた『戦争とは何か』 (原著は英文、原題は WHAT WAR MEANS ) の漢訳版で、漢口と香港で出版されました。また、『外国人の見た日本軍の暴行』と題して日本語版も出ています。
 掲載されている残虐写真は約30枚、『日寇暴行実録』掲載と同じ写真も含まれます。そもそも英語版に写真掲載はなかったのですが、漢訳版で写真がつけ加えらたのです。ちなみに日本語版は漢訳版の写真が不鮮明との理由で、別の残虐写真に置きかえられています。
 この2書は「南京大虐殺」を世界に広めたという点で大きな役割を果たしましが、問題の多い書(宣伝本)であることも事実なのです。⇒ 「南京虐殺」5−3 を参照ください。

 ・ 慰安婦、強制連行と無関係
 この写真は女性を無理やり連行のうえ強姦、輪姦した証拠写真としてしばしば利用されました。
 朝日新聞の花形記者・本多勝一の『中国の日本軍』 (前出、上に写真)を例にとれば、同じ写真に「婦女子を狩り集めて連れて行く日本兵たち。強姦や輪姦は7、8歳の幼女から、70歳を越えた老女にまで及んだ 」 との説明をつけています。『中国の旅』の写真版だというこの本には、日本軍の残忍さを強調した写真が多用され、『 レイプ オブ 南京 』の写真と同一のものが何枚も載っています。
 しかも前述したように、〈中国での日本軍の残虐行為は本多勝一著 『中国の旅』『中国の日本軍』が必読文献。とくに後者の写真は良い教材となる 〉として、「指導書」は推奨するのですから、教えられる生徒はまともな歴史観など持ちようもありません。
 この連行写真の出所が秦 郁彦教授の手で明らかになりました。
 1937(昭和12)年11月10日発行の『アサヒグラフ』に掲載された写真で、

〈 我が兵士に護られて野良仕事より部落へかへる
日の丸部落の女子供の群(10月14日熊崎特派員撮影) 〉

 と説明がついていました。写真を(拡大して)よく見れば笑顔の子供の姿もあり、連行とは何の関係もない写真であるのがわかります。
 この写真は上に引用した笠原 十九司教授の『南京事件』(岩波新書)にも載りました。間違いとの指摘に対し笠原教授は「日本軍は平和な中国を印象づけるやらせ写真を数多く撮っており、この写真も軍と朝日のカメラマンによるやらせの光景である可能性もある」として、ニセ写真であることを当初は認めませんでした。
 ですがこの解釈、中国の言い分ならばほぼ全面的に理解を示し、日本側の言い分にはあれこれ理屈をつけては否定する一例といっていいでしょう。結局、ニセ写真であることを笠原教授、岩波書店が認めざるを得ず、写真差し替えのうえで販売を継続することになったのでした。なお、本多勝一も写真が誤りだったと、2014年になって認めました。

 A 左2枚目の写真
 次に左から2番目の写真を見ておきます。キャプションは次のとおりです。
 「日本兵はポルノ写真を撮るためにレイプした犠牲者に無理矢理ポーズをとらせ、強姦の土産にした (フィッチ家の好意による)」
 原文は、〈Japanese soldiers sometimes forced thier victims to pose in pornographic pictures ,which were kept as souvenirs of rape.(courtesy of the Fitch family) 〉となっています。
 この写真(左側、上掲と同じ)、どう思いますか。写っている男の写真、日本兵に見えますか。どことなく不自然に思うのですが。
 出所の違う写真(右側写真)がありますので、両者を比較してご覧ください。
 右写真は秦教授が台湾で入手した『鉄証如山』という写真集に載っていたものです。
 写真の男の顔立ち、とても日本人には見えません。服装を見ても軍服でないことは明らかで、民間人の服装でしょう。それに鉄帽らしきものをかぶっています。また、左の写真では腕しか写っていなかった右側の男、中国人(現地人)のように見えます。
 また、中央にある黒の長方形、左の写真にはありません。何が原因でなのでしょう。おそらく、壁に写っていると具合が悪いもの、例えば場所が特定できるような何かが書いてあったのではないでしょうか。そのため、両写真とも細工をしたのだろうと思います。この写真、土産用のエロ写真の可能性が高いと思います(当時、エロ写真やヤラセ写真は出回っていましたので)。

 B 3枚目、4枚目の写真
 3枚目の写真のキャプションは長いので全文は省略しますが、「写真の信頼性について、この写真は漢口のファーマーがアメリカの雑誌『ルック』に送ったもの で、ファーマーによれば日本兵が撮ったもの。フィルムは上海に送られ、日本人経営の店で現像、そこの支那人従業員が余分に印刷、密かに持ち出したもの 」(要約)とあります。
   このような写真は、軍の検閲で「極秘」扱いされ、外部には出ないのが普通なのですが。ですから日本人経営の店で焼き増し、というのも合点のいかない話です。
 右の端に立っている民間人風の男の服装にご注意ください。明らかに白の服装をしています。つまり夏姿です。となれば、これが真冬に起こった「南京虐殺」の現場写真だとはとてもいえないでしょう。この写真では小さく分かりにくいのですが、ほかにも夏の服装をした兵が何人も写っています。ですから、写真がかりに本物だとしても、南京には無関係だとは言えます。
 4枚目の写真には「揚子江の土手に流れついたり、揚子江に投げ入れられた南京市民の死骸」〈 Corpses of Nanking Citizens were dragged to the banks of the Yangtze and thrown into the river(Moriyasa Murase). 〉との説明がついています。
 写真の撮影者、村瀬 守保(Moriyasa は間違い)について、1983(昭和58)年8月16日付け毎日新聞は「南京大虐殺は事実だ 証拠写真を元日本兵が撮影していた」として大きく報じたことがありました。
 村瀬は輜重第1連隊(東京)の2等兵として南京戦に参加、帰国(1940=昭和15年1月)するまでに3000枚もの写真を撮ったとのことです。これだけ多くの写真が撮れるということは、第1線の戦闘に参加していなかったと受け取れます。とにかく、100余枚の写真が選ばれ、写真集『私の従軍 中国戦線』(日本機関紙出版センター、1987年)が出版されました。その1枚が上の写真です。
 この写真が大量の遺体が揚子江沿岸にあったことを証明していますが、即「大虐殺」の証拠とはとてもいえません。現に、村瀬はこの現場を「下関埠頭」と説明していますが、殺害現場を目撃したわけではありません。
 「第1線に近づくにつれて、部落を通過するたびに、虐殺死体 が目立ち始めました」などといとも簡単に「虐殺死体」と断定します。が、何を根拠に「虐殺死体」としたのでしょう。
 南京に近いところでは、多くの死体があった部落も存在したことは事実でしょう。ですが、激しい戦闘が行われていたのですから、兵士の死者が多数でておかしくありません。遺棄死体が多かったことは兵士の記録などから明らかですから。なお、部落民は逃げて残っていないのが普通でした。
 ではこの多数の死体はどうしてできたのか、また、下関(シャーカン)で虐殺があったとする証言もあります。これについても、別項⇒ 南 京 虐 殺 をご覧ください。

 (3) ヤラセ写真について
 国民党政府内に「国民党中央宣伝本部」という、簡単にいえば対敵宣伝を目的にした組織がありました。
 この組織が作成、「極機密」とした『中央宣伝部国際宣伝処工作概要』 という文書が東中野 修道・亜細亜大学教授の手で発見されました。同教授の著作『南京事件 国民党極秘文書から読み解く』(草思社、2006年)に詳述されています。
 この『工作概要』 に以下の一文があります。

〈撮影した宣伝用写真を常に送って、
国内外の大新聞、雑誌、グラビア版に採用されただけでも、600社余りある。
宣伝用映画は、記録映画7部が製作され、すでにアメリカへ送られ上映された〉

 これだけでも大方の見当はつくでしょう。宣伝戦に関して彼らがいかに秀れ、我ら日本人がいかにボンヤリしているか、今日の状況も合わせ考えると、嘆かわしい話です。⇒ 南 京 虐 殺(5−3)をご覧ください。

7 南京攻略戦に参戦した兵士の「日記」より


 終わりに、ある日本兵が「証言」した直属上官の残虐事件について紹介しておきます。

 (1) 南京城内での日本兵の蛮行
 1937(昭和12)年12月、南京城内で中国人相手に残虐行為をはたらいたと、『一召集兵の体験した南京大虐殺 わが南京プラトーン』(東史郎著、青木書店、1987年)などで告発された第20連隊(京都・福知山)所属の下士官がいました。
 著者・東 史郎上等兵(当時)によって告発された直属上官・橋本分隊長(伍長)は、1993(平成5)年4月、記述は事実無根であり名誉を棄損されたとして、損害賠償を求めて裁判に訴えたのです。
 裁判は最高裁判決で確定するまで約5年かかりましたが、原告側の訴えがほぼ完全に認められました。
 とにかく、橋本分隊長が犯したとする「残虐」をお読みください。

〈(1937年12月21日
 ・・中山通りにある最高法院は、灰色に塗られた大きな建物である。日本の司法省にあたろうか。
 法院の前にぐしゃりとつぶれた自家用車が横倒しになっていた。道路の向こう側に沼があった。
 どこからか、一人の支那人が引っぱられてきた。戦友たちは、仔犬をつかまえた子供のように彼をなぶっていたが、西本 は惨酷な一つの提案を出した。
 つまり、彼を袋の中へ入れ、自動車のガソリンをかけ火をつけようというのである。
 泣き叫ぶ支那人は、郵便袋の中へ入れられ、袋の口はしっかり締められた。彼は袋の中で暴れ、泣き、怒鳴った。袋はフッボールのようにけられ、野菜のように小便をかけられた。ぐしゃりとつぶれた自動車の中からガソリンを出した西本は、袋にぶっかけ、袋に長い紐をつけて引きずり回せるようにした。
 心ある者は眉をひそめてこの惨酷な処置を見守っている。心なき者は面白がって声援する。
 西本は火をつけた。ガソリンは一気に燃えあがった。と思うと、袋の中で言い知れぬ恐怖のわめきがあがって、こん身の力で袋が飛びあがった。袋はみずから飛びあがり、みずから転げた。
 戦友のある者たちは、この残虐な火遊びに打ち興じて面白がった。袋は地獄の悲鳴をあげ、火玉のようにころげまわった。
 袋の紐を持っていた西本は、
 「オイ、そんなに熱ければ冷たくしてやろうか」
というと、手榴弾を二発袋の紐に結びつけて沼の中へ放り込んだ。火が消え袋が沈み、波紋のうねりが静まろうとしている時、手榴弾が水中で炸裂した。
 水がごぼっと盛りあがって静まり、遊びが終わった。
 こんな事は、戦場では何の罪悪でもない。ただ西本の残忍性に私たちがあきれただけである。
 次の時にはこのようなことは少しの記憶も残さず、鼻唄を唄って歩いている一隊であった。 〉

 (2) 原告側の完勝
 文中では「西 本」 とあり、これも争点のひとつになったのですが、西本が橋本分隊長を指していることは、他の著作物から明らかなことでした。
産経新聞  東京地裁は東側に50万円の支払いを命じて原告(橋本)の勝訴。つづく東京高裁も1審を不服とする東側の控訴を棄却、つづく2000年2月29日に、最高裁は1審、2審の判決を支持して裁判は終了します。判決文を読めばわかることですが、とくに東京高裁は橋本側の主張をほぼ全面的に認めています。東は、

「 元伍長(橋本氏のこと)は南京事件を虚構にしたい
旧職業軍人たちに操られているだけ。絶対に負けない。
中国もこの裁判に注目しており、わたしが負ければ国際問題になる」

 と発言していたように、中国が東側に肩入れしたのはいうまでもありません。
 その裁判に完敗したとあって、「日本の司法判断は不当」 と中国のマスコミは一斉に非難、また、中国外務省も判決を「不当」とし、「歴史の事実を顧みない」(左写真、1998年12月26日付け産経、高裁判決時) などとさかんに裁判の非を鳴らしました。
 そういえば、原告側、被告側の記者会見の場に中国のメディアが取材にきていましたが、傍若無人というかルール無視の彼らの振る舞いには不愉快な思いをさせられました(日本人記者はおとなしく、たしなめるでもなかった)。
 もちろん、この残虐行為が事実であるわけがありません。
 ですが、たったこれだけのことを虚偽と証明するために、約5年の歳月と多大な労力、それに費用を原告側が負ったのです。
 この裁判中、原告の橋本氏、この裁判で中心的役割を果たした板倉由明(故人)、それに傍聴役程度の私、ときには橋本分隊長の戦友も加わって、裁判の帰路、有楽町駅近くの「ニュー東京」でよく食事をともにしたものです。
 何度か中国を訪れていた橋本は、「あんなことを実際にやっていたなら、怖くて中国にいけるわけがありませんよ」 と話していたことを思い出します。橋本氏はまれにみる誠実なお人柄だったと私は思っています。幸いにもお元気で、2015年も年賀状がとどきました。白寿を迎えたとありました。

⇒ 総目次に ⇒ トップ頁へ