「は だ し の ゲ ン」を小中学生に読ませる教育界の異常

― 異様な日本兵の残虐と天皇への怨嗟 ―


漫画 「はだしのゲン」 を公立小中学校の図書館で生徒が自由に読めるようにすべきかどうか、その是非が問題になっているのは、そこに描かれた日本兵のグロテスクな「残虐行為」と過激な「反天皇」の主張を含む書物が、教育の場にふさわしいかどうかにあるといえるでしょう。
 そこで、報道などで事実とされた日本軍・民の残虐事件、残虐行為の検証を目的とする当サイトは、「はだしのゲン」の残虐描写がそもそも事実なのか、何を根拠に描いたものなのか、またアジア各国で行った「三 光 作 戦」 等により、「3000万人以上」 を残酷に殺害したとした根拠は何なのか、
などを一考することにしました。

 ・ もっともらしい社説
 2013年8月、マンガ本 「はだしのゲン」 を小・中学校の図書室で、生徒が自由に読めることが妥当かどうか、大きな問題となりました。
 というのは、松江市教育委員会がこの本を「発展段階の子供に適切かどうか疑問」とし、「はだしのゲン」を閉架措置にするように指示したことが始まりでした。つまり、倉庫などにしまわれますので、生徒が自由に手にとって読めないことになります。
 〈閲覧制限はすぐ撤回を〉と早速、朝日が社説で主張すれば、毎日新聞も〈戦争を知る貴重な作品だ〉と社説に書き、教育委員会の指示に反対を唱えたのです。
「表現の自由を侵す」「戦争の悲惨さを覆い隠す」などとする論調を前にすると、多くの国民は「もっともな主張である」と反射的に思ってしまいます。ですから、自由閲覧を禁じる措置をとった同委員会に抗議が殺到したのです。もちろん、本の内容を知らないままにです。
 これらの社説はもっともらしく見えますが、ならばどうして、同教育委員会が「発展段階の子供に適切かどうか疑問」と判断したのでしょう。
 学童が読むのにふさわしくない場面とは一体、どのようなものなのでしょう。そこに描かれた日本兵の残虐行為はどのようなものなのでしょう。また、それらの行為はそもそも事実なのでしょうか。こうしたことを知らないまま、新聞の主張を「もっともだ」と即断するとすれば、まったく逆の判断をしてしまうのかも知れないのです。
 便宜上、残虐行為が描かれたページと天皇への批判が書かれたページとに分けて考えることにします。

1 日本兵の猟奇的な残虐

 まず、次の画像をご覧ください。上の1コマは「週刊新潮」(2013−9−5号)から、下の1ペ−ジ分はブログ〈 さくらの花びらの・・ 〉 からの借用分ですが、両者はつながっています。字が小さく読みづらいでしょうから、「せりふ」を右側に書きうつしておきました。

それだけじゃないぞ
天皇陛下のためだと言う名目で
日本軍は中国、朝鮮、アジアの各国で
約三千万人以上の人を
残酷に殺してきとるんじゃ




首をおもしろ半分に切り落としたり

銃剣術の的にしたり


妊婦の腹を切りさいて
なかの赤ん坊をひっぱり出したり

女性の性器の中に一升ビンがどれだけ入るか
たたきこんで骨盤をくだいて殺したり

わしゃ日本が三光作戦という
殺しつくし 奪いつくし 焼きつくすで
ありとあらゆる残酷なことを同じアジア人に
やっていた事実を知ったときは
ヘドが出たわい

その数千万人の人間の命を平気でとることを許した天皇を わしゃ許さんわい
いまだに戦争責任をとらずに ふんぞりかえっとる天皇を
わしゃ 許さんわいっ


 お読みなってどのように感じたでしょうか。
 首を切り落とすぐらいは書くでしょうが、妊婦の腹を裂いて赤ん坊をひっぱり出したり、1升ビンを叩き込むなどは、異常者、変質者でもなければそうそう思いつくことではありません。ですから、作者は何かを読んだ上で書いたと考えて間違いないでしょう。
 とくに問題としなければいけないことは、「1升ビンを女性性器の中ににたたき込む」 といったグロテスクな描写は、それがグロテスクであればあるほど、この場面を読んだときの衝撃は絵とともに脳裏に刻み込まれてしまうことです。そしてその衝撃は薄れることはあっても、生涯を通して持ちつづけるのは間違いなかろうと思います。もちろん、事実あったこととして刻まれます。
 女生徒の場合の反応は今ひとつ分からないのですが、この年代の男子生徒なら決して忘れることはないはずです。それだけに問題は深刻だと考えなければならないでしょう。

 ・ 論説委員諸氏は狂っている
 このような本が教室に無批判に持ち込まれる、教育上問題だからといって撤去しようとすれば、朝日、毎日など日本の新聞は「知る権利」だ、「貴重な作品だ」などと反対する、それを真に受けた読者が教育委員会に抗議する、もう狂っているとしか思えません。
 もっともこういう指摘もあります。朝日や毎日などの社説を書く論説委員諸氏は、実は「はだしのゲン」をろくに読んでいないのではというのです。読まずに社説を書いちゃう、ありそうな話です。
 以下、残虐場面をはじめに見て、次に「三光作戦」、「約3000万人以上殺害」 を検討していきましょう。

 (1) 妊婦の腹を裂いて赤ん坊を
 妊婦の腹を裂いて、赤ん坊を取り出すという日本兵の猟奇的行為を目にすれば、小中学生にかぎらず大人だってギョッとするでしょうし、かつての日本軍に強い嫌悪感を抱いたに違いありません。
 この妊婦の腹を裂くという話はべつに珍しくもありません。ただ、出所はといえば、中国および戦犯として中国に抑留された日本人(中国戦犯)なのです。

 ・ 朝日連載「中国の旅」から
   まず、本多 勝一 元朝日新聞記者が書いた「中国の旅」 から紹介しましょう。
 この「中国の旅」は1971年夏から、朝日新聞が40日間にわたって連載したもので、一大センセイションを巻き起こしたいわくつきのものです。というのも、日本軍民の残虐行為が量、悪質さともに並はずれなものだったからです。連載はすぐに単行本、文庫本(左写真) になりました。
 この「中国の旅」こそが、妊婦の腹を切り裂いたなどという猟奇的な行為、残虐行為を日常的に日本軍将兵が犯した罪として、国内はおろか世界中に撒き散らした元凶とも言えるものなのです。本サイトの各所に出てきますので、すぐにおなじみになることでしょう。
 この書がどんなものなのか、その一端を知っていただくために、少し長い引用になりますがお読みください。

〈一家5人は、豚小屋の少し北の、ブドウの木の棚付近にいた。
その西北の壁の上にいた兵隊が投げた手榴弾で、まず祖母が即死した。
直撃を受けたので、五体はほとんどばらばらにとび散った。母は5歳の妹を抱いていた。
機関銃掃射のニ度目の休止のとき、はいってきた兵隊の一人がこの妹を母から奪いとった。
その両足をつかんでさかさにすると、振り子のように大きく振って頭を石にぶつけ、たたき割った。
半狂乱の母が、即死したわが子の上に倒れて抱いた。その背中を兵隊の銃剣が貫いた。
残った上の妹が母の死体に抱きついた。兵隊が蹴とばしひきはがした、「お母さん、お母さん」と絶叫する妹を、兵隊は地面にころがした。
一方の足を踏みつけると、他方の足をつかんで力いっぱい引き裂いた。
最後の悲鳴とともに、腹まで裂かれて、この7歳の女児は即死した。
このように引き裂かれて死んだ幼児は30人くらいに達した。潘広林さんの目撃した例だと、
ある4〜5歳の子供は、洗濯用の大きな石を頭にのせられて、つぶされた。
新婚まもない潘国文の妻は、軍刀で両足のつけねを一度に切り落とされた。
妊婦は銃剣で腹を裂かれ、腸とともに胎児も放り出され、動く胎児は突き殺された。
(「胎児に何の罪があるんでしょうか!」 と潘広林さんは語りながら声をふるわせ、涙がいくつもほおを伝わった。・・)
当時この村には20人から30人の妊婦がいたが、機関銃掃射で殺されなかった場合は、ほとんどがこういう殺され方をした。
腹を裂かれた妊婦ばかり4人、馬の餌箱の周辺に散乱しているのをのちに生存者が見ている。〉


 妊婦の腹を切り裂いて赤ん坊を取り出す・・といった話だけでなく、この引用文だけでも、「はだしのゲン」の材料になりそうなネタが出ています。
 子供の両足をつかんで振り子にし、泣き叫ぶ子の頭を石にぶつけて叩き割る、するとあたり一面に血が飛び散るという鬼気迫る場面はどうでしょうか。あるいはニヤニヤしながら女の子を股裂きにして殺す、実に気色悪い話ですが、これも日本兵の残虐をアピールするにはもってこいの材料で、絵にすればさぞ反響も大きいでしょう。
「中国の旅」だけでも、こうした残虐場面が各所にでてくるのですから、「はだしのゲン」の作者が残虐ネタに困ることはなかったに違いありません。なにせ「天下の朝日新聞」 が堂々40日間にわたって連載した「現地ルポ」 に出てくるのですから。
 それにしても、なんで大のおとながこんなものを信じ、「中国の旅」が学校教育のなかで幅を利かしてしまったのでしょう。日本人のインテリ、とくに教育にたずさわるインテリといわれる人たちの頭を疑いたくなります。
 「中国の旅」については(⇒ こちら ) をご覧ください。

 ・ 中国戦犯の手記 「胎 児」から
 妊婦の腹を切り裂く話、もうひとつ紹介しておきましょう。
 いわゆる「中国戦犯」 が中国に書き残してきた「手 記」のなかにでてきます。つまり、日本兵の告白です。
 手記の題が「胎 児・・・妊婦の腹を裂く」というのですから、説明は要しないでしょう。書いたのは第59師団独歩111大隊所の属の兵士で種村 一男
 59師団は最大の「中国戦犯」 を出した師団でその数200名以上。「中国戦犯」を語るさい、この師団は欠かせませんので、どうぞ記憶に残しておいてください。
 左画像の「新編 三 光 第1集」(光文社、1982年刊)にでてきます。ただし、種村というのは仮名で、本人の消息は不明とのこと。
 手記からほんの一部をご覧にいれます。

〈「オ、オッ! 隊長殿、腹の胎児(ガキ)が動いている!」と、私は眼を見張った。
大きな腹の中で胎児がこぶしをふるい足をふんばって母体を励まし、
私に抗議をするかのようにググッと、小山のように突き上げている。
 『 フフウ! しめた! こいつだ!』 と、心で叫んだ私は、「隊長殿、やっちゃいますか!」 と、
村越中尉の顔に眼を走らせた。と、その眼はニヤッと、うなずいた。
( 中 略 )
 「畜生!腹の胎児までが俺に刃向かおうとしてやがる。エーイ、こうしてくれる!」 と、
ゴクッと生つばを呑みこみ、カッーと血走った眼をつり上げ、ずかずかと妊婦の死体に近づきざま、
エイッとみぞおちめがけて突き刺した。・・
その腹の中から血まみれになった胎児を引きずり出した 。とたんにググっと、小ちゃな手足が動いた。・・〉


 今度は日本兵の告白なのですから、信用できると考える向きもあるでしょう。
 現に軍隊物の「真空地帯」 などの作品で知られる作家・ 野間 宏 は、掲載本の裏表紙に 〈 いつも、素知らぬ形で日本人の傍らにおかれる恐るべき書 〉 と題して推薦文を書いています。一部抜粋します。

〈よくも、これらの手記が、このように失われることなく、保存されていたと思うが、
これはこのように残され日本人全体の前に、出されるべきものだったのである。・・
一つ一つの手記は、自身の犯した悪事を筆をおさえて精密に書きつづられている。・・ 〉
〈「胎 児」 は、妊婦を圧殺する記録である。このようなものを抹殺したいものだと考えながら、
決して日本人、世界の人々の前から消してはならないという内なる声をきく。〉


 この「胎 児」をはじめとする中国戦犯の「手 記}が、「自分の犯した悪事を筆をおさえて精密に書きつづられている」 とはとても思えませんが、それはともかく、野間が頭からこれらの「手記」を信じているのは間違いないでしょう。
 となれば、惨殺した男の死体を前に、

〈小隊長はやにわに左手をぐいと肋骨の奥深く差しこみまさぐっていたが、
やがて血だらけの手に赤黒い肉塊ともわからぬものをつかみ出し、
血刀で切り取った。生き肝だ!〉
― 藤岡 順一、「群 鬼 捕らえた農民の生き胆をとる」より ―

 なんていう、生き胆(いきぎも) を日本兵がつかみ出し、それを食べちゃう話も信じるわけです。なにせ同じ本に載っている「中国戦犯」の「手記」ですので。たしか、日本兵が脳ミソを食べるなんて話も結構、ありました。
 もっとも、この種の残虐行為であふれた「中国の旅」をまともに信じ、賞賛の声を惜しまなかった大学教授、知識人は文字どおり、掃いて捨てるほどいたのですから、これらの「手記」を信じる作家がいても不思議はないでしょう。となれば、この手の話が学校の教育現場に広く入り込み、またメディアを通して「日本兵の悪行」を信じる大学生や一般社会人も多かったはずです。
 妊婦の腹を裂くという話はいろいろありますので、( ⇒ 日本軍の異様な残虐 ) を参照ください。
 また、「中国戦犯」やこれら「手記」などについては、( ⇒ こちら )( ⇒ こちら )をどうぞ。
 念のために再度、書き加わえますが、妊婦の腹を裂く話の出所は、中国側の告発と中国人証言および「中国戦犯」の話に限られています。

 (2) 1升ビンを叩きこんで骨盤を
 この話、どこかで読んだ記憶があり、手元の資料にザッと目を通したのですが、分かりませんでした。でも、どこかで見たはずです。
 分かればおつたえしますが、それにしてもこんなことをよく書けたものです。それをまた学校図書館に数多く置かれているというのですから、やはりどこかが狂っているに違いありません。
 ただ、似た話がありますので、紹介しておきましょう。出典は『中国の旅』を書いた朝日・本多 勝一記者の『天皇の軍隊』からです。
 『天皇の軍隊』 (朝日文庫) は、「中国の旅」が朝日に連載されたのとほぼ同じ時期、月刊誌「現代の眼」に連載されたもので、連載終了後に単行本となり、後に文庫本となって朝日文庫に加わりました。
 一見すると、日本兵の証言で語られていて、それだけに信頼性が高いと取れますので、これら「証言」に疑いをいだくこと自体、おそらく躊躇(ちゅうちょ) されたことでしょう。だから、検証が行われなったのだと思われます。
 ところが、このルポにも「カラクリ」があったのです。詳しくは( ⇒ こ ち ら ) をご覧ください。
 では、似た話を同書より引用します。

〈 軒先から農家の裏庭へ抜けると、日原分隊長(上等兵)と数人の古参兵が、
何か含み笑いしながら蔭山一等兵らを見ていた。その足元を見て彼はハッと飛びのいた。
見ると、35〜40歳みえる女性がズボンを脱がされ下半身裸体だった、
二年兵が二人がかりで、彼女の両脚を拡げて、抑えつけていた。
ニ一歳の初年兵だった蔭山氏は、女性の性器を見せつけられたのはこのとき初めてだったと言う、
しかも遠藤一等兵は笑いながら、茶色に熟れたナツメの実を、彼女の局部に押し込みながら
「これで一〇個も入ったぞ」 と笑っていた。 〉


 一升ビンがナツメの実に替わっただけで、イメージはほぼ同じでしょう。では、蔭山一等兵の「証言」 は信頼に足るものなのでしょうか。蔭山一等兵の本名は蔭山 宗太といい、同じ中国戦犯だったのです。
 『天皇の軍隊』の文庫本をお持ちの方は、第4章の95〜97ページあたりをご覧ください。ナツメの一件の直後、遠藤一等兵 の行為(この女性と近くにいた中国人青年とむりやり性交させる) などなど、ぞくぞくと描かれていますので。
 (追 記) 一升ビンの話、やはりありました。『ある昭和史』(色川 大吉、中公文庫)によれば、Tという元陸軍伍長から、著者が中学1年のときに聞いたとしています。内容はマンガと酷似していますので、あるいはこの本を参考にしたのかもしれません。著者は南京戦の2、3年後に聞いたとのことですが、伍長の所属等は書いてありませんし、事実かどうか判断するには材料不足です。ただ、この行為、物理的に考えにくく、また一升ビンが都合よくそばにあったのも不自然な話です。

 (3) 面白半分に首を切り落とす
 日本軍の将兵が捕虜などの首を斬った話はけっこうありますし、なかには事実でないもの、おおげさなものも含まれるでしょうが、あったとことは確かな事実と思います。これが刀でなく拳銃によるのであれば、さして問題にならないのかもしれませんが、血を意識せざるを得ないがゆえに、斬首はより残虐、残酷ととられてしかたのないことなのでしょう。
 絵を見ると女性のようにも見えますが、どうでしょうか。また、面白半分というのはまず、事実ではありません。
 この「面白半分に」 という点から考えると、まず頭に浮かぶのは「百人斬り競争」 でしょう。1937(昭和12)年の南京攻略戦で報じられた2人の将校による「100人斬り競争」 は、さんざん論争ネタ、報道ネタになってきましたのでご存じと思いますから、とくにここでは書きません。
 一つだけ書き加えれば、「100人斬り競争」 を報じた東京日日新聞(現 毎日新聞)を、1937年当時、「新聞は戦争を劇化する」という見出しのもと、ヨタ記事だとしてたしなめていた例があるのです。
 「文 藝 春 秋」(1938=昭和13年2月号 )のコラム「 新聞匿名月評 」です。

〈大体新聞がヨタリ過ぎる。読者もまた寄席気分で、そのヨタ記事を歓迎している。
殊に戦争記事はこれだ。現地方面では寧ろ憤慨の傾向にあるとか。
 突撃戦である。腰の一刀を引き抜き、支那軍塹壕へ斬り込むのだ。
真向唐竹割、えヽとばかり打ちおろせば、
敵もさる者、両手で鉄砲を握り、はっしと受けた。
だが、日本刀の切れ味を見よや、新聞記事だと鉄砲もろとも頭が真っ二つ!
といったあんばいでは、講談師はだしだ。戦争は高座じゃないぜ。 〉


 要するに「百人斬り競争」など、当時だって戦場経験のある人はもちろん、少し見る目のある人なら民間人だって信じやしなかったのです。ところが、1971(昭和46)年になって、朝日新聞連載「中国の旅」 でまたぞろ復活したのでした。
 もっとも、本多 勝一記者 は「100人斬り競争」は戦闘中の出来事ではなく、捕虜を殺害する、つまり「 据えもの百人斬り競争 」 だったのだと新解釈を主張しています。つまり、「面白半分に首を切り落とす」 競争をしていたことになるでしょう。本多説を信じれば、「首をおもしろ半分に」切り落とす絵が生まれて不思議はありません。
 なお、「100人斬り競争」については( ⇒ こ ち ら)をどうぞ。

 また、斬られた首が飛ぶ場面は、既述した中国戦犯の手記「群 鬼」 のなかにも出てきますし、これも珍しくはありません。この絵を見て思い出したことがあります。
 左の2枚の画像をご覧ください。
 左側は実際の首切り場面を写した本物の写真、右側は「南京大虐殺の図」 と題した絵画です。
 よく似ているでしょう。
 左側の本物の写真ですが、よく見てください。首を斬っている人間が日本兵に見えますか。まわりに日本兵だって写ってないでしょう。
 それに使用しているのは、なぎなた状をした青竜刀です。これで横に払えば、首をこのように簡単に切り落とせるのですが、日本刀(軍刀)でこうはいかないと、多くの指摘があります。
 ところが、反戦画家として知られる丸木 位里・俊 夫妻の手にかかると、いくつもの首が転がった図が書き加えられ、「南京大虐殺の図」に変身させてしまいました。
 丸木 俊は批判に対して、「作品の意図は、旧日本軍の蛮行を訴えることで戦争を否定することであり、指摘は見当違い 」 「写真の処刑兵が中国兵とは知らなかった、構図を借りただけで他意はない」 と説明しています。
 今もあるのかどうか分かりませんが、この絵は「原爆の図丸木美術館」に展示されていたそうですので、「はだしのゲン」の作者が見ていても不思議はありません。

 (4) 「三光作戦」 は存在ぜず
 「三光作戦」 の「三 光」とは、〈 殺 光 、焼 光 、奪 光 〉 のことで、「殺しつくし、焼きつくし、奪いつくす」 を意味する中国語です。
 ですから、少し考えれば分かることですが、「三光作戦」などという名の作戦が、そもそも日本軍にあったのかという当然の疑問にぶつかるはずなのです。ところが、「三光作戦」 は日本軍の作戦だったとして、一時は中学、高校の歴史教科書の大半に、なかには世界史の教科書にまで載ったのです。少なくなったとはいえ、今も載っている教科書もあるようですので。
 第一、この作戦に参加したはずの日本兵なら、「三光作戦」 という作戦名は全員が聞き知っていたはずです。ところが、私の聞いた範囲ですが一人としていませんでした。当たり前のことで、どこの誰に聞いても同じ結果がでたでしょう。ただ、「三光」 という言葉を知っていた人が一人だけいました。この将校(大尉)は大学出で中国に興味を持つインテリでした。
 つまり、同時代の人間が知らなかった「三光作戦」なるものが、後世になって勝手に教科書に載ってしまったのです。まったく書くも愚かな話です。
 「三光」なる言葉は「中国戦犯」が帰国し、「手記」 が本になるなどして日本で知られるようになり、「三光作戦」を事実だとして吹き込んだのは、これまた朝日連載「中国の旅」でした。「中国の旅」は言います。
 「南京大虐殺」は侵略軍の本質を持つものの、軍の最高方針による計画的殺害ではなかったが、「三光作戦(政策)」は日本軍による計画的大量殺害であって、

〈ドイツ=ナチスがやった報復殺害と同様、女子供を含む全住民の皆殺し作戦〉

 であったと説明しています。
 根拠のあやふやなこうした解釈が教育界でも受け入れられ、「三光作戦」を事実とする歴史学者の多くがこの説とほぼ同じといってよいのでしょう。つまり、本多解釈というか朝日解釈に追随した愚説が教育界で幅を利かしたのは間違いないところです。

 ・ 「原爆投下は当然の報い」
 そして、悪乗りともいうのでしょう、こんな解釈も出てきます。本島 等 元長崎市市長は次のように広言しました(1998年1月)。

〈南京大虐殺や三光作戦などは日本人の残虐の極致であって、
非人間性や野蛮さが出ている。
中国などにとって原爆は救世主であった。〉

 つまり、原爆投下の容認説です。この解釈、中国はもとより、アメリカも原爆投下の正当性をうらづける「事実を見据えた見解」 とばかりに、ひそかに歓迎したに違いありません。
 「はだしのゲン」にも、本島発言と似た場面がでてくるとのこと、絵の持ち合わせがないのでお見せできませんが、台詞を引用しておきます。

〈 原爆破壊力と惨状がなかったら、戦争狂いの天皇や指導者は戦争をやめんかったわい。
日本人は広島、長崎の犠牲に感謝せんといけんわい〉

 そして、さらに「三光作戦」の範囲が広がっていったのでした。
 「中国の旅」関連の三光作戦(政策 については、( ⇒ こ ち ら) を、さらに範囲の広がった「三光政策」については( ⇒ こ ち ら) をどうぞ。

 (5) 3000万人以上を殺害
 さて、アジアで「3000万人以上」も殺害したという根拠を作者がどこに求めたか分かりません。
 1989(平成1)年、中華人民共和国は抗戦期間中(1937.7〜1945.8)の中国軍民の死傷者を 「2168万人」と公表、盧溝橋の中国人民抗日戦争記念館にもこの数字が掲げられました。
 内訳は、死者932万5千人、負傷者947万人、行方不明289万人、総計2168万5千人。この数字には満州および台湾省の分は除かれているとのことでした。
 1995(平成7) 年に入ると、この数字はさらに跳ね上がって、死傷者3500万人となりました。ただ、「はだしのゲン」の問題ヵ所は1982(昭和57)年から1985年の間に書かれたようですので、この死傷者3500万人とは、直接、関係がないことになります。
 なにせ、わが方の歴史教科書には「2000万人以上」 の犠牲者を出したと記したものもありますので、あるいはどこかに3000万人以上と書いたものがあるのかもしれません。驚くべきは、「2000万人」という数の出所をさかのぼると、どうやら中学生の調査に行き着くようなのです。
 1972(昭和47)年の春休み、東京都文京区の中学校の社会科教師だった本多 公栄 (後に宮城教育大学教授、故人)が、授業の一環として、生徒に 「日本の侵略申し訳ないと謝罪、2度とこのようなことはしません」 と書いた「 アジアの中学生の友への手紙」 を質問事項とともに持たせ、東京にある35ヵ国の大使館を回らせました。そのときに聞き取った数が、どうやら「2000万人」の源になったようなのです。
 こうしたことも含めて記述した( ⇒ 増えつづける犠牲者数 ) を参照ください。

2 国歌、国旗、昭和天皇に対する怨嗟

 次のペ−ジは「君が代」「日の丸」への怨嗟、また前ページにつづいて天皇批判の場面がでてきますので、ご覧ください。これでまともな教育を期待する方がムリというものでしょう。


君が代なんか
だれが歌うもんか クソクラエじゃ
君が代なんかっ 国歌じゃないわいっ

おぅ A組の中岡元 やれやれ 応援したるぞ
やれっ やれ

講堂もなく こんとなまずしい卒業式を
せんといかんのも
ピカで学校を焼かれたからじゃ
天皇の奴が戦争をせえと 言うたからじゃ
そうじゃ そうじゃ

みなさん しずかにしなさい 立つ鳥はあとを濁さず
一生に一度しかない厳守な卒業式です
大事にしましょう
そうじゃ
やかましい ひっこめクソババァ 教育者ぶるな
そうじゃ そうじゃ

( 以 下 略 )



3 メディアの圧力にはやばやと白旗

 この「はだしのゲン」、小学校、中学校の図書館において、生徒に自由に読ますのが妥当だというのでしょうか。それも公費を使って。
 答えはおのずと明らかだと思うのですが、朝日新聞、毎日新聞などは松江市教育委員会の措置を猛批判。毎度のことながら、教育委員会はメディアの圧力に簡単に白旗をあげてしまいました。生徒に向かっては「信念を持て」 などと、もっともらしいことを並べますが、自分たちのこととなると、「保 身」を優先したということなのでしょう。
 「はだしのゲン」 は、「週刊少年ジャンプ」(集英社) の1誌に書きつづけられたものではなく、なん誌かに引き継がれていって完成したとのことです。「週刊新潮」 の記事等によれば、おおむね次のようになります。

「週刊少年ジャンプ」(1973年6月号〜1974年 ) ⇒ 「市 民」(1975〜1976年) ⇒ 「文 化 評 論 」(1977〜1980年) ⇒ 「教 育 評 論 」(1982〜1985年 )


 「市 民」というのは左派系オピニオン雑誌だそうですが、1年足らずで連載終了。「文化評論」 は日本共産党機関誌で、比較的長く連載されたようです。そして連載の最後となった「教育評論」は日教組の機関誌 でした。
 そして、問題の残虐行為はこの「教育評論」 に掲載されたものだったのです。となれば、日教組が推し進めてきた「反戦・平和運動」の実質的中身、つまり「反 日」「反 天 皇」「反 国 家」 などと軌を一にしたメッセージを強調したものでした。
 となれば、「はだしのゲン」が公立学校の図書室に数多く置かれたのも当然のことでしょうし、またこうしたことが積み重なって、昭和の歴史は異様なものに歪んでしまったのだと思います。さらに英語、韓国語などにも翻訳されているそうですので、その影響は無視できないものになっているに違いありません。

 ・ これが 『戦 争 論』 だったら
 今回の騒動、例によって朝日新聞などが大騒ぎし、松江市教育委員会の当初の決定を撤廃へと追い込みました。もとより「表現の自由」の問題などではありません。ひとえに、学校の図書室で未成熟の小中学生に自由に読ませることの是非のはずです。
 中国のプロパガンダを真に受けた朝日報道などのせいで、事実とかけはなれた残虐行為が日本軍・民の行為だとして国内はもとより、国外にまで蔓延させてしまいました。「はだしのゲン」の作者はこれらの報道を素直に信じたのでしょう。
 それに、作者の個人的な反国旗、反国歌、それに反天皇という偏った見方を、報じられた蛮行を強調することによって、読者に印象づけたのでしょう。
 かりに、マンガ本でベストセラーとなった『戦 争 論』 (小林 よしのり著、幻冬社、1998年)をどこかの中学校に置かれたとしましょう。朝日など「はだしのゲン」の閉架措置を「表現の自由」等をタテに猛反発したメディアは、今度は「危険な本」「有害な本」だと言って、図書室からの追放を狙って、一大キャンペーンを張るのは、まず間違いありません。
 要するに、メディアのキャンペ−ンなどとというのは、ご都合主義の最たるもので、「表現の自由」などという「普遍の真理」をおのれに都合よいときにだけ出し、もっともらしく論を展開させるのです。辛口の評論家・山本 夏彦 は「キャンペーンならみんな眉つば」と喝破していました。

 ここで取り上げた残虐場面や反天皇の主張は、長い連載の後半部分(第2部?)に出てくるそうですので、被爆体験を書いた前半のみを自由閲覧にするという方法があったのかもしれません。

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