誤 魔 化 さ れ な い で !

朝日・狡猾な記事取消しと釈明 1

― 濡れ衣を晴らすことが朝日の責任 ―
⇒ 朝日・小狡い記事取消し 2


 朝日新聞(朝刊)は、2014年8月5日と6日の2日間にわたり、特集「慰安婦問題を考える」を掲載しました。重要なのは、記事取消しをふくむ8月5日付けの紙面(下画像)です。

・ 小狡い言い訳、役人ソックリ
 特集を読んで感じたことは、読者に伝えるべきことを避け、また明らかな大ウソを交え、小狡い釈明に終始していることでした。読者はこれまで朝日が報じてきたことを、いちいち憶えていないでしょう。ですから、読者の記憶の薄れを当てにして、この程度の説明で窮地を乗り切れる、乗り切ろうとでも考えたのでしょう。
 となれば、「謝 罪」がどこにもないことなど、当然の結果だと私は思っています。要するに、彼ら(上層部や記者ら)は偉そうなことを日ごろ書いていますが、部数の確保と保身が最優先、言い訳上手なお役人、とくに高級官僚とよく似ています。

 特 集 の 趣 旨
 第1面を見ると、 編集部門の最高責任者、杉浦 信之(取締役編集担当、下写真の右側)の論述〈 慰安婦問題の本質 直視を 〉があり、特集の趣旨を以下のように説明しています。

〈 一部の論壇やネット上には、「慰安婦問題は朝日の捏造だ」といういわれなき批判が起きています。
しかも、元慰安婦の記事を書いた元朝日新聞記者が名指しで中傷される事態になっています。
読者の皆様からは「本当か」「なぜ反論しない」と問い合わせが寄せられるようにようになりました。
私たちは慰安婦問題の報道を振り返り、今日と明日の紙面で特集します。
読者への説明責任を果たすことが、未来に向けた議論を始める一歩と考えるからです。〉

 すわ、お家(朝日新聞社のことです)の一大事とばかり、精一杯がんばって書いたのでしょうが、よくもまあ朝日批判が〈いわれなき批判〉などと、ぬけぬけと書くものだと思います。
 もっとも、朝日信者はこれで誤魔化せるかもしれませんが、これを読んだ大方の朝日記者だって、「説得力がまるでない」「これでは逆効果だ」などと内心、嘆め息をついたのではないでしょうか。
 慰安婦問題に関心を持ち、ある程度、事実関係を知っている人なら、「説得力がない」と受けとめるのが当たり前と思います。というのも、事実がねじまげられ、問題をすり替えたうえ、強弁しているのが見え見えだからです。ここに引用した短い文章にだって、事実を無視した強弁が目につきます。
「慰安婦問題は朝日の捏造だ」とする事実認識が、「いわれなき批判」などと、何を根拠に、またどこを推せばでてくるのでしょう。
「いわれなき批判」ではなく、事実の上に立った「あたりまえの批判」というべきです。
 また、元朝日記者に対する名指し批判を「中 傷」と言っていますが、彼が報道を通して犯した罪はとてつもなく大きく、これによって日本に着せられた濡れ衣を思えば、「中 傷」などと言えるものではないのです。
 また、「読者への説明責任を果たす」のは当然としても、この特集が「未来に向けた議論を始める一歩」になどなるわけがありません。
「自社の報道責任」について、率直さがないばかりでなく、なんだかんだと言い訳がましさが目につきます。報道責任はこれで終わったのではなく、新たなスタート地点に立ったのです。慰安婦問題にかぎらず、40年以上におよんだ今日までのデタラメ報道を、あらためて国民の前にさらけ出し、大掃除をしなければならないと確信いたします。
 なお、この1面記事のタイトル〈 慰安婦問題の本質 直視を 〉ですが、筆者(= 朝日新聞社)が言う、直視すべき慰安婦問題の「本 質」とは、一体何を指しているのでしょう。噴飯物のこの「本 質」については、後述いたします。

・ 項 目 別 の 説 明
 朝日「慰安婦問題取材班」は、
〈 朝日新聞の慰安婦報道に寄せられた様々な疑問の声に答えるために、私たちはこれまでの報道を点検しました。その結果を読者の皆様に報告します。〉
 とし、16、17面の見開き2ページを使って、〈慰安婦問題 どう伝えたか 読者の疑問に答えます〉との記事を載せました。記事は下記の5項目 を中心に、「読者の疑問」に答える構成で、各項目ごとに〈 読者のみなさまへ〉としたメッセージを付しています。
 @ 強 制 連 行 の有無
 A 吉 田 証 言
 B 軍関与示す資料
 C 「挺身隊」の誤用問題
 D 植村 隆記者の記事捏造疑惑

 以下、最も重要と思われる Aの吉田清治証言、Cの女子挺身隊=慰安婦の誤用問題、D捏造記事疑惑を中心に要点を点検します。
 @の強制連行の有無について、朝日は8月28日付けでも〈慰安婦問題 核心は変わらず〉(Core of 'comfort women' issue remains unchanged)とし、強制連行の有無ではなく、〈強 制 性〉にこそ問題の核心であるとの論を再度、「河野談話」をからめて展開しました。
 要するに「強制連行があったかどうかは問題ではないんだな。彼女らが自由意志を奪われたこと自体、つまり強制性が問題の核心なんだよ」というわけです。これがよく言われる「問題のすり替え」(強制連行 ⇒ 強制性)だと批判されるものです。
 Bの「軍関与を示す資料」ですが、Cの女子挺身隊誤用問題との関連で少し触れますが、これも ⇒ こちら(万死に値する朝日・慰安婦報道 その1、2)をご覧ください。

・ 致命的な過ぎ去った年数
 毎週月曜日、「今週の世論調査」が産経新聞に掲載されていました。首都圏の男女500人を対象とした調査ですが、大雑把な傾向は見て取れます。
 このなかに、「やっぱり」というか、「これだもの」というか、次の質問に対する「答 え」がありましたので、紹介いたします。8月7日の調査とありますので、朝日報道(5、6日)の直後にあたります。

「問」
朝日新聞が、慰安婦問題をめぐる報道で、「慰安婦を強制連行」との証言を取り下げた。
報道から32年後の取消しをどう思うか。
「答 え」
早 い 1.2%  遅 い 46.8%
時期は関係ない 44.4%  その他 7.6%

 記事取消しの「時期は関係ない」とした答えが44.4%もあったのを見て、「こんなもんだよ」と納得すべきかもしれませんが、やはり引っかかりました。
 質問に「32年後」の取消し、とハッキリ示されているにもかかわらず、この答え。そうすると、回答者は32年もの間、慰安婦問題が何の変化もせず、ただただ時間だけが経過したとでも思っているのでしょうか。
 違うでしょうね。要するに「慰安婦問題について、ほとんど何も知らない」ままに回答した結果なのでしょう。「記事を取り消した」という表面的な説明から、「間違いをただすのは、とてもよいことだ」と定石どおりに反応し、とりわけ朝日読者のなかには、「さすが、良心的な新聞だ」とばかり、好印象、高評価をあたえた人だって多かったに違いありません。ですが、

決定的な問題は、「記事取消しまでに要した時間」にあります。
この過ぎ去った時間に、われわれに着せられた言われなき濡れ衣が、
自国民はおろか外国にまで浸透してしまい、さらに広がりつづけています。
その結果、昭和の歴史を不当にも汚し、今のわれわれと、将来を生きる日本人が、
どのような不利益を受けることになるのか、それらを考えずに、
今回の取消しの評価ができるわけがないのです。


1 吉田証言、取消しまで32年

 吉田 清治といえば、慰安婦問題に少しでも関心を持つ人ならば知らない人はいないでしょう。それほどの有名人というか、悪名高い人物なのです。
 吉田が何を狙ったのか、自らが加わった 「慰安婦狩り」というホラ話をデッチ上げるや、待ってましたとばかりに新聞記者やら有識者やらの「意識の高い」人たちがとり囲んで、たちまち有名人に祭りあげてしまいました。
 過去の日本、とくに日本軍を叩けるとなると、異常なほどの熱意を持って報じる日本の報道機関の歪んだ体質が、ここでも明確に表われました。
 恐ろしいのは、吉田 清治というたった一人のお調子者が、昭和の歴史をトコトン貶めることに、いとも簡単に成功したことです。それも、裏づけをとることなど考えもしない、ただ日本叩きに血道をあげる朝日新聞以下のメディアが存在してこそ、この大成功があったのです。
 念のために書いておきますが、この吉田の件が例外というわけではありません。裏づけをとらないままに日本をこき下ろした例はたくさんあるのです。どうぞ、このことは忘れないでください。

(1) 済州島の慰安婦狩り

 そのホラ話ですが、彼の2作目となる『私の戦争犯罪 朝鮮人強制連行 』 (1983年、三一書房 )に、約45ページにわたって自らも参加した慰安婦狩りの記述となってあらわれます。
 ここに描かれた強制連行の模様は、日本軍の組織的な悪行の決定的証拠として、十分すぎるほどの役割を果たしました。その「慰安婦狩り」の一場面を、他にも引用しましたので重複しますが、この項を読むのに必要と思いますのでご覧に入れます。
 労務報国会の下関支部・動員部長だったという吉田 清治は、1943(昭和18)年5月、部下9人を連れて定期船で下関を出発、済州島に上陸。軍から10人の武装兵の応援をえて、翌日から軍用トラック2台に分乗、以下のように「慰安婦狩り」 を実行したというのです。

・ これぞ、日本軍による強制連行の実態だ
 まず帽子を作る民家に突入、2、30人いる女性のうちから8人を連行、次に貝ボタンの製造工場で、30人の女工から暴力をもって選別、16人を確保します。さらに乾し魚製造工場から50人などを連行するなどして、「1週間で205人の朝鮮人女性を銃剣をもって無理矢理に連行した」 というのです。
 ここでは貝ボタン工場の場面を本から引用します。
 吉田が指揮する徴用隊らは、30人ほど働いている工場の出入り口を、すばやく固めます。

〈 隊員の中から平山が中央へとび出して行って、「作業やめえ!」「作業やめえ!」とくりかえし叫んだ。
女工たちの悲鳴があがって、機械の音が止まった。女工たちは台のうしろに身をかがめ、
機械のかげにかくれて、かんだかい声でたがいに叫び合った。
平山が「起立」と号令をかけ、隊員たちが近づいて行って、木剣の先を突きつけて、女工たちを起立させた。
「 体格の大きい娘でないと、勤まらんぞ」と山田が大声で言うと、隊員たちは笑い声をあげて、
端の女工から順番に、顔とからだつきを見つめて、慰安婦向きの娘を選びはじめた。
若くて大柄な娘に、山田が「前へ出ろ」とどなった。娘がおびえてそばの年取った女にしがみつくと、
山田は木剣で台を激しくたたいて威嚇して、台をまわって行って娘の腕をつかんで引きずり出した。
山田が肩を押えて床に座らせると、娘はからだをふるわせ声を詰まらせ、笛のような声をあげて泣きじゃくった。
 やせて幼い顔の娘が、大野に年を聞かれてはげしく泣きだした。大野は娘のうしろへまわって行って、
家畜の牝の成熟を確かめるような目つきで、娘の腰を見て、「前へ出ろ」と言った。
台にしがみついた娘を、大野が手をねじあげて前へつき出すと、
近くの台からしわの深い老婆の女工が、獣のようにわめきながらとびだして、大野に取りすがった。
そばにいた隊員が老婆の頭にかぶった白い布の端をつかんで引きとめ、
のけぞってふりかえった老婆の顔を平手打ちした。
女工たちはいっせいに叫び声を上げ、泣き声を上げていた。
隊員たちは若い娘を引きずり出すのにてこずって、木剣を使い、背中や尻を打ちすえていた。
隊員にけられて転がった娘が、床に散らばった貝がらの破片でひたいを切ったのか、
血がたれた顔を上げ、口をあけて放心していた。
隊員が引きずり出してきた娘の前へ、平山が近づいて行って、「そいつは妊婦だろう」と言った。
隊員は娘の腹を見つめると、いきなり朝鮮服の前をまくり上げ、下ばきの腹をのぞきこんだ。
娘が悲鳴をあげ、隊員はなっとくしたのか、「お前はだめだ」とどなった。
年取った女工が、私の方へ走り寄って来て、日本語でわめいた。
「あんたたち、朝鮮人の女をどうするのか。朝鮮人もニッポン人やないか」
「戦争のためだ。じゃまするな」
私がどなりつけると、浅ぐろい顔に歯をむきだしてあえぎながら、
朝鮮語でわめきはじめ、男のようにたくましい両手をのばして、私にすがりつこうとした。
私が突きとばすと、谷軍曹がこぶしで強く顔をなぐりつけた。〉

(2) 16回ヨイショ記事を書いたのに

 この吉田 清治を、なんと16回も紙上に取り上げたと当の朝日新聞が書きました。代表的な記事を読む機会がありましたが、そのほとんどが「勇気ある、良心的な人物」として、最大限の賛辞とともに吉田を持ち上げたのでした。

・ 最初は32年前の1982年9月
 かなり不鮮明ですが左画像をご覧下さい。これは、1982年9月2日付け朝日新聞(大阪本社版 )で、写真は吉田の講演の姿です。
 これぞ、「元 動員指揮者が証言」のもと、16回の最初にあたる記念すべき記事で、

〈 済州島で2000人の若い朝鮮人を女性を「狩り出した」〉

 などと、吉田証言を報じました。
 朝日はこう釈明します。

〈(この記事を)執筆した大阪社会部の記者(66)は、
「講演での話の内容は具体的かつ詳細で全く疑わなかった」〉

 と話していると。
 記者というのは、清田 治史(帝塚山学院大学教授)で、ソウル支局長などを経て、取締役にまで出世したとのことです。
 そして、90年代初め、他の新聞社(具体名ナシ)だって、集会などでの吉田証言を取りあげていたではないか、ウチ(朝日)だけではないよ、と釈明しています。
 それなら伺いますが、この記事は1982年2月で、90年代初めに他社だってというのなら、この間、つまり約10年間は、朝日の独壇場ということになりますね。実際、「慰安婦強制連行」にかかわる報道は朝日の独走だったし、また、一連の報道の影響を受けたからこそ、尻馬に乗った学者や有識者らの手によって、歴史教科書に載るやら、百科事典等に載るなどして、果てに国連など国際機関からも指弾される惨状につながったのではないですか。
 1982年というと、私にはピンときます。この年が日中国交回復10周年にあたり、この前後に日本叩きがピークの1つにあったことを。
(注) 朝日は2014年9月29日付け紙面で、上記の記事は清田 治史が書いたものではなかったと訂正しました。記事になった吉田清治の講演の日は海外にいたとのことで、「記憶違いが確認された」としています。別の記者(名前は出していない)が「自分が買いた記事かもしれない」と名乗り出たとのこと。

・ 「ひ と」欄でも持ち上げ
 朝日は、第1号記事の翌年、つまり1983(昭和58)年11月10日付けの「ひ と」欄で吉田を取り上げました。筆者は清田 治史です。政治や経済面をあまり読まない人でも、この欄は多くの人が目を通します。
 先に記した吉田の第2作『私の戦争犯罪 朝鮮人強制連行』の出版が1983年7月ですから、「ひ と」欄は早速、インタビューを申し入れたことになります。この第2作は、朝日第1号のヨイショ記事に背中を押され、さらにウソに磨きをかけた結果、生まれた作品なのかも知れないのです。
「ひ と」欄は、闇に葬られていく「国家による人狩り」に心を痛め、戦争責任を明確にするために立ちあがった良心的な人物として描きます。

〈 全国から励ましの手紙や電話が相次いでいる。
同じ戦争加害の意識に悩んでいた人、
「強制連行、初めて知りました」という中学3年生 ・・。
「でもね、美談なんかではないんです。2人の息子が成人し、自分も社会の一線を退いた。
もうそんなに、ダメージはないだろう、みたいなものを見定めて公表にふみきったんです。」〉

〈 国家による人狩り、としかいいようのない徴用が、
わずか30数年で、歴史の闇に葬られようとしている。
戦争責任を明確にしない民族は、再び同じ過ちを繰り返すのでしょうか。〉

 人の好い日本人なら、まして“正 義”が大好きな朝日読者なら、こういう話に引っかかりやすいのでしょう。ですから、おそらく吉田を、「反省と憂国の情」を持つ高潔な人物と思ったことでしょう。この第2作は韓国語訳され、出版されました。
 ですが、吉田証言が偽証であり、済州島の強制連行はまったくの作り話だったことが、ようやく広く知られるようになりました。知らないのは、案外、朝日新聞の定期購読者だったりして。

(3) 1992年、「偽 証」と判明

 秦 郁彦日大教授(当時)は1992年の初め、吉田証言の真偽を調べるため、現地・済州島に出向きました。

・ 現地紙が否定
 そこで分かったことは、現地紙「済 州 新 聞」が1989年8月14日付けで、韓国語訳された吉田の『私の戦争犯罪 朝鮮人強制連行』について、論評を載せていました。
 その内容はといえば、島民の証言などから、済州島で該当するような連行事件は起きていないことを明らかにしたものでした。
 秦教授は記事を書いた許 栄善記者に会ったところ、許記者に

「何が目的でこんな作り話を書くんでしょうか」

と逆に聞かれ、答えに窮したといいます。
 ですから、秦調査によって、吉田の強制連行証言が作り話、つまり偽証であったことは、1992年初めに判明していたのです。左画像は調査の経緯と結果をつたえた1992年4月30日付けの産経新聞です。同時に教授は論文を雑誌に書き、単行本にも収められています。
 ですから、今回の記事取り消しの2014年8月5日まで、つまり22年間というもの、なんだかんだの言い訳ばかりで、間違いを認めることなく、先延ばししてきたのは確かな事実です。
 いや、それどころか、日本軍がやったとする他の慰安婦強制連行の裏づけ取材のない記事、つまり捏造といってもよい記事を連発したのでした。
 目的とするところは、吉田証言は正しい、記事に間違いはないというがための側面援助にあり、多方面からの批判をかわすことにあったでしょう。朝日読者は常に、一つの方向に向かって誘導されていたのです。

(4) 32年経て、しびしぶ取消し

 やっと今回、吉田証言に関する16回の記事を撤回しました。第1号記事から数えればまる32年、偽証と判明してから22年が経過しました。朝日は、〈読者のみなさまへ〉として、以下(全 文)のように理由をつけ、吉田に関する16回の記事すべてを取消しました。

〈 吉田氏が済州島で慰安婦を強制連行したとする証言は
虚偽だと判断し、記事を取り消します。
当時、虚偽の証言を見抜けませんでした。
済州島を再取材しましたが、証言を裏付ける話は得られませんでした。
研究者への取材でも証言の確信部分についての
矛盾がいくつも明らかになりました。〉

〈 当時、虚偽の証言を見抜けませんでした〉などとヌケヌケ書きますが、裏づけをとって報じるのが記者の基本的な務めでしょうが。もっとも、偏向度の強い新聞社と、度の強い色メガネをかけた記者に見抜く力など期待できないのかもしれません。まあ、これだって日本軍叩きは、1971年の「中国の旅」連載以来、朝日の重点方針だったのでしょうから、その路線にしたがって記者、論説委員ら一同がハッスル、忠実に職責を果たしたのでしょう。

・ 「真偽は確認できない」だって、何しに済州島へ
 また、済州島を再取材したものの、吉田証言を裏づける話は得られなかったと書いていますが、何時と何時、調査をしたのでしょう。調査結果をそのときどう報じたのですか。第一、現地紙 「済州新聞」の許 栄善記者に会って話を聞かなかったのですか。聞いた時点で、吉田証言の偽証の疑いが濃厚ぐらい、目の曇った記者にだってわかるでしょう。もし、聞かなかったとすれば、何しに2度まで済州島を訪れたのですか。
 実際はこうでした。2度目の取材で、許 栄善記者に会って話を聞いているのに、「真偽は確認できない」と紙面に書いたのです。何でも、吉田証言は偽証だったことを、

「書くべきか、書かざるべきかで、
政治部と社会部で対立した」

 とのこと。真偽不明と書いた1997(平成9)年3月31日付け朝日は、見開き2ページの紙面を使った一大キャンペーンを展開し、〈従軍慰安婦 消せない事実 政府や軍の深い関与、明白〉と見出しをつけて報じたのです(下画像)。それも河野 洋平のご高説に大きな紙面を割いて。

 鵜の目鷹の目で吉田証言に合致する話を聞きまわり、否定する話を故意に無視したうえ、間違いを認めようものなら責任者の問題が生じるなど上手くないから、「真偽は確認できない」と書いたと考えるのが、読者側としては当然の推測と思いますが。一体、この新聞は、どこの国のまわし者なのでしょう。

  ・ 取消し記事の中身が分からない
 16回もの記事を、一括して取り消したことだけはよく分かりました。ですが、16回の記事の具体例がないため、読者には取り消し記事の中身が分かりません。ですから、「こんなにも酷いことを何回も書いてきたんだ」ということが、具体的に分からない仕かけになっています。
 これでは記事の責任の重さも判断できないし、ましてその及ぼしたであろう悪影響にまで、読者の理解がおよびようがありません。そこで、記事の例をご覧にいれます。
 
(5) 報じられなかった記事

・ 「木剣ふるい無理やり動員」
 1991年5月22日付け朝日大阪本社版は、〈語りあうページ 女たちの太平洋戦争〉の連載記事で、「木剣ふるい無理やり動員」 のもと、以下のように報じました。筆者は井上 裕雅 編集委員、吉田が朝鮮半島で行ったとする強制連行の模様です。

〈 私が今日、最も恥ずべきこと、心を痛めている問題の一つは、
従軍慰安婦を950人強制連行したことです〉
〈 若い女性を強制的に、というか事実は、木剣を持っていましたから
殴る蹴るの暴力によってトラックに詰め込み、村中がパニックになっている中を、
一つの村から3人、5人、あるいは10人と連行していきます〉

 大阪版というのが目に引きます。読者はどう反応したか、大方の想像はつきますが、2014年8月23日付け産経新聞の連載 「歴史戦」に、朝日読者の感想が紹介されていましたので、そのまま引用いたします。

〈 加害者としての勇気ある証言に接し、
厳正な軍紀の下に統制されているものと確信していた旧軍隊への信頼感が、
根底から覆されました。〉(81歳男性)
〈 ショックを受け、読み終えてしばらくぼうぜんとした。・・
若い女性を強制連行し、軍人相手の慰安婦にしていたとは、記事を目にするまでは知らなかった。
何とも破廉恥なことをしたものだ〉(40歳主婦)

    ・ 「日本は今こそ謝罪を」
 次も大阪本社版 (1991年10月10日付け)です。「乳飲み子から母引き裂いた 日本は今こそ謝罪を」の見出しのもと、長文の記事を掲載しました。見出しだけでも「なんて日本人(軍)はひどいことをしたのか」と読者は思ったことでしょう。
 これも「語りあうページ 女たちの太平洋戦争」に書かれたもので、筆者は同じ井上編集委員でした。上記産経記事よれば、 これら吉田証言や読者の感想をつたえた連載は、『女たちの太平洋戦争』(朝日新聞社)として出版され、1992年、「日本ジャーナリスト会議賞 」を受賞したとのこと。まったく呆れ果てます。

(6) この論説委員氏につける薬

 もうひとつご覧にいれます。1992年1月23日付け夕刊1面のコラム、「窓 論説委員室から」に北畠 清泰 ・大阪本社論説委員は、「従軍慰安婦」と題して以下のように書きました。

〈 記憶のなかで、時に心が痛むのは従軍慰安婦の強制連行だ。
吉田さんと部下、10人か15人が朝鮮半島に出張する。
総督府の50人、あるいは100人の警官といっしょになって村を包囲し、女性を道路に追い出す。
木剣を振るって若い女性を殴り、けり、トラックに詰め込む。
一つの村から3人、10人と連行して警察の留置所に入れておき、予定の100人、200人になれば、下関に運ぶ。
女性たちは陸軍の営庭で軍属の手に渡り、前線へ送られて行った。
吉田さんらが連行した女性は少なく見ても950人はいた。
「国家権力が警察を使い、植民地の女性を絶対に逃げられない状態で誘拐し、戦場に運び、
1年2年と監禁し、集団強姦し、そして日本軍が退却する時には戦場に放置した。
私が強制連行した朝鮮人のうち、男性の半分、女性の全部が死んだと思います」
 吉田さんは78歳である。
「遺言として記録を残しておきたい」と、60歳を過ぎてから、体験を書き、話してきた。〉

〈 マスコミに吉田さんの名前が出れば迷惑がかかるのではないか。
それが心配になってたずねると、吉田さんは腹がすわっているのだろう。
明るい声で「いえいえ、もうかまいません」といった。〉

 こんな話が事実としてつたわる、また話す人間を「腹がすわった」と思い込み、さもさも良心的人物として持ち上げる。本当は深刻な話なのですが、ここまでくると何やらアホくさくなってきます。筆者が軍隊や兵についての常識的な知識がまるでないからです。それで頭の中だけでこねくり回して文章をつづります。これでは虚実を見抜けないし、持ってよい当然の疑問さえ浮かばないのでしょう。処置ナシです。

・ 止まらぬ論説委員の思い込み
 これにはつづきがあります。たくさんの読者からの投書があり、北畠論説委員は気づいたことがったあったというのです(1992年3月3日付け)。「それは、日本軍の残虐行為はなかったとか、公表するなとかいう人の論拠には、共通する型がある」 とのこと、3つの型を掲げています。最初の1つだけお目にかけましょう。

〈 そんなことは見たことも聞いたこともない。
軍律、兵隊の心情にてらしても、それはありえない。
もし事実だとしても、それは例外で、一般化するのは不当である。
なかには自己顕示欲は誇張癖のために、ゆがめられた話もあるだろう〉

 この投書に対し、論説委員氏はこう書きました。まるで、教師が学生を諭すようにです。

〈 知りたくない、信じたくないことがある。
だが、その思いと格闘しないことには、歴史は残せない〉

 朝日は記者、論説委員らが一体になって、ただただ日本軍を叩きたいと格闘したばかりに、われわれ日本人に取り返しのつかない濡れ衣を着せたのです。

(7) 河野談話は吉田証言と無関係と主張

 ご存知のように、「河野談話」の存在が依然として、日本の手足を縛っています。
 というのは、「河野談話」は事実上、慰安婦の強制連行を認めた日本政府の公式見解だからです。このため、「強制連行は事実に非ず」と主張しても、この見解が活きている以上、国際的に通用するはずもありません。「日本の主張は矛盾しているではないか」 と。
 強制連行を事実上認めた 「河野談話} の発表は、1993(平成5)年8月4日の記者会見の場でした。(河野談話の全文は⇒ こちら
 蛇足かもしれませんが、書き加えておきます。
 「強制連行を事実上認めた」と記したのは、「河野談話」のなかに、「強制連行」という言葉が使われていなかったためです。このため、確認のためだったでしょう、記者からでた質問 「強制連行があったという認識なのか」に対し、河野 洋平内閣官房長官は、「そういう事実があったと。結構です」と答えています。つまり、談話の公式文では不明確ともとれる「強制連行」の存在を、口頭とはいえ明確に認めました。
   朝日は、この「河野談話」に、吉田証言の影響はなかったと主張しています。つまり、吉田証言の一連の誤報は、強制連行を認めた談話とは無関係だというのです。
 ですが、常識的に考えて、「それはないですよ」と言わざるをえません。1993年までに、「木剣ふるい無理やり動員」 (1991年5月22日付け)、「乳飲み子から母引き裂いた 日本は今こそ謝罪を」(1991年10月10日付け )など、数多く報じられていたのですから。
 

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