決定的一冊

― 歴史イメージはどう作られたのか ―


 昭和前期の日本は、中国やアジア各地を侵略し、ここかしこで残虐非道な行為を犯しつづけた国家であり、そこに弁解の余地はまったくないといった歴史イメージ (歴史観)を、わたしたち日本人はいつ頃からどのようにして持つようになった、あるいは持たされるようになったのでしょうか。
 そのよってきたる原因を理解する手がかりとなる貴重な一文があります。
 藤岡 信勝・拓殖大学教授( 「新しい歴史教科書をつくる会」 会長=2011年3月現在)の論文集『近現代史教育の改革 ― 善玉・悪玉史観を超えて 』(明治図書、1996年)のなかの、以下に引用する部分です。
 この書の本論は教育雑誌「社会科教育」(明治図書)に1994年4月号から23回にわたって連載されたもので、連載が進むにつれて、異常といってもよい多くの反論がわき起こった興味深い出来事がありました。要点を後述することにいたします。なおこの書は、『自由主義史観とは何か』と題して、PHP文庫から刊行されています。


   1  歴史イメージを決定づけたもの

 第3部 「『 南京事件』の真実とは 」の最初の章である第14章、 「なぜ『南京事件』をとりあげるか」のなかに書かれた「『自虐心理』の再生産と維持の条件」 がその手がかりです。この章はいわゆる「大虐殺派」の急先鋒の一人、笠原 十九司・宇都宮大学教授(当時)の藤岡論文批判に対する反論です。
『近現代史の授業改革』  それほど長くはないのですが、みずからの歴史イメージが形成されるプロセスを飾ることなく説明されています。これほど分かりやすく、得心のいくものを私は目にしたことがありません。これを書いたのは東大教育学部の教授時代で、そこに藤岡教授の誠実であろうとする姿勢がにじみでていると思いました。
 この章の全文を紹介することにしますが、話を進めやすくするため、まず18行を省略してお目にかけます。その後に18行を追加引用します。それで全文をご覧いただくことになります。
 なお、水 色 で表したところは原文では傍点が付してあり、 で表わした所は私がつけたものです。また、改行を増やしてあります。

 〈  笠原氏の批判への反論にはいる前に、「南京事件」の犠牲者数について、私自身が今までどのように認識していたかを振り返ってみたい。それは、多くの人々が案外私と同じ認識をもってきたのではないかと思うからである。
 私は「南京事件」について、かなり早い時期から知っていたように思うが、いつから知ったのか定かでない。いずれにせよ、中国人民の犠牲者30万人というようなことを、私は何の疑問ももたずに長い間信じ込んできた。その後、40万という数字を聞いたことがあり、研究が進めば犠牲者の数は増えることはあっても減ることはないのだろうと考えていた。
 日本帝国主義・軍国主義の犯罪は底知れぬほど罪深いのであるから、それは徹底的に暴かねばならないと思った。そこで読んだり聞いたりした数字のうち、一番大きい数字を信用することにした。ある時、「50万」という数字をどこかで読んだ。「ついに50万の大台にのったのか」という感慨をおぼえた記憶がある。
 このように、「自分の思考枠に合致する限り、最も大きい数字を信用する」という心理的メカニズムは、かなり一般的にみられるものである。原爆の犠牲者数、ナチスに虐殺されたユダヤ人の数などについても、諸説があるとすればその中の最大値をとりたいという心理がはたらく。
 といっても、最大の数字をあげている説が他の説に比べて特に信憑性が高いかどうか吟味した上でそう信じているわけではない。いや、そもそも、この心理は、諸説をつき合わせて批判的に検討するといった作業を一切おこなわない ところに特徴がある。それは批判的思考の対極にあるものである。
 より大きな数字を信じ込む、あるいは信じたいという態度は、自己の心情をそれだけ大きく満足させてくれるということに支えられている。数が道徳性をはかるモノサシになる。30万を信じることは20万を信じることよりもより道徳的に高いことであり、40万を信じることは30万を信じることよりもさらに道徳的に高いことになる。一番大きな数字を信じている者は最も厳しく日本軍の犯罪を糾弾していることになる。それによって、最も大きな道徳的満足が得られるのである。
 いったん、このような「信念」が確立すると、右のような大きな数字を「値切る」ような研究は道徳的に許しがたいことに思えてくる。「4万」などという説を唱える学者は良心に欠ける。「3000〜6000」などは、旧軍人の自己弁明のための詭弁にすぎないのではないか。ましてや、「なかった」などと豪語するに至っては、旧日本軍の蛮行に対して一片の良心の呵責も感じない人格的欠陥人間である・・。
 いまだに、かなり多くの教師は右のような観念にとらわれているのではないか と思う。かつての私がそうだったから、その心理はよくわかる。こういう心情から、何としても中国人民に「謝罪」したいというやみがたい衝動が生まれるのも、人間として自然なことである。
 このような心理状態を「自虐心理」とよぶことにしよう。「自虐心理」が、再生産され、維持される条件として、さし当り次の三つをあげることができる。
 第一に、典型例による学習効果である。1950年代に、神吉晴夫編の『三光』 という新書判の本が光文社カッパブックスの一冊として刊行された。それは、戦後中国に抑留され、「思想改造」された元日本兵の、自らの罪をくいた懺悔録を証言として集めたものである。その中で日本人自身の口から語られた日本軍の蛮行の数々を、私は一点の疑いももたずに、そのままあったものとして 信じた。つい最近に至るまで、中国戦線についての私のイメージを根底から規定し支配してきたのは、実に高校時代に読んだ、この『三光』という小さな本だったのである。 私は、日本軍が「殺しつくし、焼きつくし、奪いつくす」という「三光作戦」なるものを本当に実行したのかどうか、などと疑ってみることは全くしなかった。
 第二次世界大戦はファシズム陣営対反ファシズム民主主義陣営の戦いであった、などという歴史の大枠の説明よりも、右のような具体的なナマナマしい証言が、はるかに深く歴史のイメージを規定していることに、右の例から思い至るのである。そして、私と同じ心理状態を経験した人、あるいは現に同じ心理状態にある人は、それぞれ、その人なりの『三光』に当る「決定的な一冊」 をもっているはずである。
 第二に、リアリズムの欠如である。常識的判断の欠落といってもよい。あれこれの「証言」にみられるオーバーな話、できすぎた話は、眉につばをつけて読むのが当たり前なのに、対中国、対アジアの関係における日本軍の行動に限って、そういうブレーキがうまくかからないようにできているのである。
 それは、アジアを侵略したことに対する罪悪感が、日本人の心理の深いところでトゲとなってうずいているからであろう。パール・ハーバーの奇襲による対米戦争の開始を、当時の圧倒的多数の知識人が、歓喜の声を上げて迎えている。後世の目から見れば愚かなことのように見える。
 しかし、当時、日本は真綿で首をしめられるような圧力をかけられていたという事情だけではなく、心ならずも中国を戦場に戦争をするハメになってしまったことへの負い目が深いところで当時の知識人や国家指導者をとらえていたのあり、その代償として対米戦争を潜在意識の中で望んでいたという側面がある、と指摘されている。私は、ありそうなことだと思う。
 右のような心理的な拘束とともに、「30万人の虐殺」というような出来事を、具体的な空間と時間の枠の中に配置してその状況を思い描くという作業をしなかったことも、さきの心理を「維持」させる条件になっていたことは疑いない。一口に30万人というが、そんな虐殺をなしとげるのは大事業である。一大軍事作戦である。ぼう大な人員と資材と計画が不可欠である。
 また、それだけの死体がつみ重なった南京市内の惨状を想像すれば、ほとんど都市機能はマヒしたであろう。そうしたことがらについて、普通の常識をはたらかせれば、「30万」などという中国側の公式見解は大いに疑わしくなるはずである。そのように、具体的な現場のイメージを描くことをネグレクトしていた間だけ、「30万人」といった数字を私は信じていた のである。
 第三に、異説の不在である。南京大虐殺を否定するような文献は、私の情報環境の中にはなかった。もちろん、「否定派」の書物は本当はずっと前から刊行されていたのだが、書店ではそういう種類の本を見かけることはなかった。書店の棚をにぎわせているのは、もっぱら(秦郁彦の言うところの)「大虐殺派」の文献であった。だから、「南京事件」なり、あれこれの問題について特別の関心を抱かない限り、一般人がそれら主流派の主張とまっこうから反する書物を手にする機会は極めて少ないといわなければならない。
  (18行分省略、後に掲げます)
 私は事実として 南京における日本人の残虐行為が少しでも小さければよかったと、切実に思う。「実はほとんど他の戦闘とかわらない程度のものでした」という結論が証明される時代が来ればうれしいと思う。私は、一日本人としてこの願望を隠すつもりはない。かといって、私はどんな結論も、納得のいく形で示されれば、それがたとえ「30万人」であろうと認めるつもりである。自国に対しても、他国に対しても、歴史そのものに対してもフェアでありたいと思う。それが、この問題に向きあう私の基本的な立場である。 〉

 前にも記したように、私たちが持つ歴史イメージ形成の主な原因は、世上言われるように、東京裁判からくる歴史観(東京裁判史観)というより、日本軍・民が引き起こしたとされる史上まれな残忍非道な行為が主因である、というのが私の見方でした。
 藤岡教授は、教授のいう「自虐心理」が再生産され、維持される条件として、次の3つをあげています。
  第1に 典型例による学習効果 だとし、その例に 『 三 光 』(カッパブックス、1957年)を取り上げます。そして、この中で語られる日本兵の数々の蛮行を1点の疑いも持たずに信じたとし、
 〈 つい最近に至るまで、中国戦線についての私のイメージを根底から規定し支配してきたのは、実に高校時代に読んだ、この『三光』という小さな本だったのである。 私は、日本軍が「殺しつくし、焼きつくし、奪いつくす」という「三光作戦」なるものを本当に実行したのかどうか、などと疑ってみることは全くしなかった 。〉

 と記しています。いかにこの小さな本が、中国戦線における日本軍のイメージを決定づける力を持っているのかがよくわかります。
 さらに、第2次世界大戦は「ファシズム対民主主義陣営の戦い」であった、などという歴史の大枠の説明よりも、「右のような具体的なナマナマしい証言が、はるかに深く歴史のイメージを規定していることに、右の例から思い至るのである」とし、それぞれ、その人なりの『三光』に当る「決定的な一冊」 をもっているはずだというのです。
 そして、犠牲者30万人という「南京事件」をはじめとする日本軍の蛮行の数々を信じた第2、第3の理由として、「リアリズムの欠如」 および「異説の不在」 をあげて説明しています。

   2  異説の不在

 とくに、「異説の不在」とする指摘は重要だと思いますので、上記引用で省略した18行を私の手前ミソと思う方もおいでかもしれませんが、以下、書き加えることにします。

 〈 すでに書いたことだが、私は、田辺敏雄 『 「朝日』に貶められた現代史 ― 万人坑は中国の作り話だ 』(1994年、全貌社)という本をとり寄せて一読し、天地がひっくり返るかと思われるほどの驚きを味わった。本多勝一『中国の旅』が初めて報じた、旧満州の万人坑が、100パーセント中国側のデッチ上だというのである。「南京事件」は旧日本軍のしわざだが、万人坑は民間人のしわざだとされる。戦前の日本人は、軍人たると民間人たるとを問わず、かくも残虐・非道な国民であったというストーリーが、かくして完結するわけである。
『「朝日』に貶められた現代史』 しかし、本多のレポートは中国側だけを取材したもので、当時満州にいた日本人を誰ひとり証人として取材していない。この不公平さこそ、日本人残虐説の重要な手続き上の特徴である。 田辺のレポートは、この日本人側の証言者100余名の証言を徹底的に集めて「万人坑」が本当にあったかどうかを検証したものである。
 それによれば、日本人の証人のただの一人として、万人坑なるものを見たこともなく、知らないというのである。そうすると、事態はのっぴきならないことになる。どちらかの側があきらかに巨大な「ウソ」をついているのである。
 そこで、この「万人坑」問題について歴史研究者としての笠原十九司氏の見解をうけたまわりたい。本多と田辺による両サイドの研究が出そろったところで、この件について笠原氏はどう判断されるのか。
 これは南京事件と無関係な話では決してない 。一体、中国側証言というものがどのような性格のものであるのかを知る手がかりになるからである 。
 異説にさらされない説を簡単に信じてはいけないということを、田辺の著書を手にとって私はイヤというほど思い知らされた。以下、私が「南京事件」について笠原氏に質問するのは、「異説とのつきあわせ」という観点からである。私は南京事件を笠原氏と同じ意味で研究するつもりもなければ、その能力もない。ただ、自分の理性をはたらかせて、疑問を明確に提示することは、非専門家にもできることなのである。 〉
   
 異 説 、はっきり言えば、「南京大虐殺」をはじめとするあれこれの日本軍・民による残虐事件、残虐行為を否定する、あるいは疑いをさしはさむ論は、ごく一部の新聞を除いて、テレビを含む報道機関は絶対といってよいほど報じることはありません。逆に、日本軍が引き起こしたとするものなら、鬼の首でもとったかのように、検証抜きで大々的に報道するくせにです。
 明けても暮れても「従軍慰安婦」報道に血道をあげたのは、つい先日のことだったはずです。ですが、慰安婦を強制連行したという吉田 清治の証言を朝日新聞もテレビもさんざん報道していたのに、その証言が「ウソ」と立証され、本人もそれを認めたにもかかわらず、虚偽証言であったという事実を報じることはありませんでした。都合が悪くなると知らん振りする、これがわが国の報道機関の常套手段なのです。

   (1)  報道機関への私の不信
 ですから、累々とした白骨遺体を展示するための記念館を建て、日本人の所業だと言い立てる中国、それを朝日新聞ほかが真に受けて報じ、その結果、日本の歴史教科書や百科事典にも載った「万人坑」(まんにんこう)は、100%中国のデッチ上げだと日本側証言や資料などをもとに主張しても、産経新聞以外どこも報じることはありませんでした。
大石橋の万人坑。『中国の旅』から  かといって、突きつけられた否定論に対し、当の朝日新聞は日本側の取材を逃げるばかり、知らぬ顔で沈黙、無視しつづけているのです。中国には朝日、NHKほか多数の日本人駐在記者がいるでしょうに、誰一人として取材し事実を確かめようとはしませんでした。
 この万人坑問題は、藤岡教授も指摘するように、南京事件や他の出来事(例えば三光作戦)とも決して無関係ではありません。一体に中国の主張、これを支える中国側の証言は私たち日本人の想像をはるかに超えた虚偽で成り立ち、日本に向けられていることを、明白に物語っているからです。
   ところが、同じ満州の撫順炭鉱(ぶじゅん たんこう)を舞台に起こした軍部の住民殺害、平頂山事件(⇒ こ ち ら)となると、NHK、地方のテレビ局、地方の新聞などから取材の申し入れがあったのです。
 中国がいう事件の“首謀者”と私が縁戚関係にあり、にもかかわらず連絡一つなくあれこれ書かれていることに不信感を持ち、調査の上で『追跡 平頂山事件』( 図書出版社、1988。お読みいただける方は ⇒ こちらから入手可 )を出版していましたから、取材の申し込み自体を別に問題視しているわけではありません、
 平頂山事件を報道するために撫順まで出かけるのだから、同じ撫順で起こったとされる万人坑(犠牲者は撫順炭鉱だけで南京大虐殺とほぼ同じの25万〜30万人 と中国は主張)についても、日中双方を取材のうえ同時にあるいは別途報道すべきであり、それが報道機関の当然の責務と思いましたので、万人坑の取材を同時に行うのならば平頂山事件に関する取材を受けるつもりでした。
 そこでそのことを話しましたが、結局、どこも万人坑問題を避けたかったのでしょう、取材話は立ち消えました。その後、撫順に出かけて平頂山事件のみを報道したようですが、NHKは中国のいうがまま殺害数3000人と報じたとのことです(私は見落としましたが)。
 こうした経験やその後の調査を通し、報道機関に対する私の不信感は決定づけられたのです。こんな具合ですから、「異説」がそもそも存在するのかどうかさえ、メディアから知ることはできないのです。
 東京駅前にあるブックセンターの書棚(歴史コーナー)にあるのは日本の過去を断罪するものが圧倒的で、異説は棚にチラホラといった程度です。これでも少しは良くなってきた方で、1990年代は「異説」の本などめったに置いてありませんでした。もっとも大勢に逆らう「異説」など調査も大変ですし、本にしたところで売れませんから出版自体が困難という構造的な問題もひそんでいるのです。

   (2)  異様な“学者”の反応
 さて、藤岡教授の諸論文が教育雑誌「社会科教育」に連載されるや、常軌を逸したとしか思えない反応が藤岡教授に集中したことを冒頭に記しました。
 20余人の“学者”らが一緒になって藤岡教授に反論というかヤリ玉にあげた『近現代の真実は何か ― 藤岡信勝氏の「歴史教育・平和教育」論批判 』(大月書店、1996年)を出版したことでした。
『近現代史の真実は何か』  近現代史教育の現状を憂慮し、改革の必要性を説いた藤岡教授一人に対し、これほど多数の学者が群がって集中攻撃を浴びせる事態を、「異様」と形容したのはたしか秦 郁彦教授と思います。
 出版の音頭をとったのは南京事件「大虐殺派」の大御所、藤原 彰(元一橋大学教授)、森田 俊男(平和・国際教育研究会会長)の2人でした。
 〈 戦後の歴史学研究と歴史教育・平和教育にたいして公然たる中傷と攻撃を開始した藤岡信勝氏にたいする歴史学と教育学からする反論の書であるが、・・・ 〉(あとがきに代えて)
 とあり、本の帯の説明 「〈 近現代史授業の改造 〉論を駁す 」とした短い文がこの本の性格をよく表していると思いますので、これも掲げておきます。
 〈 「東京裁判史観に沿った教育が戦後の歴史教育を歪めてきた」 として近現代史教育の改造を唱える藤岡氏の歴史論には学問的根拠があるのか? 歴史教育と平和教育に無用の混乱を招きつつある氏の主張を全面的に検討する教師待望の書 〉

 歴史教育の改革を主張する藤岡教授の指摘、認識に問題があるとはとうてい思えません。
 国旗・日の丸の赤を「侵略の血の色」だと教え、教師自身も卒業式などで国旗掲揚を拒否、また国歌斉唱にも反対、あげくが国旗を踏みつける生徒まで出てきているのが「平和教育」の“輝かしい成果”の一つなのですから。
 国民や政治家の無関心をいいことに行われてきたこのような学校教育に、改革の必要性のあることは、国民だって実態を知るにつれてだんだん分かってきています。

   (3)  本多勝一の「反論」
 さて、反論に参加した20余人のなかに本多 勝一(元朝日記者)、上羽 修(ルポフォトグラファ)の2人の名があります。
本多勝一元朝日記者  一見して違和感のある人選ですが(他はほとんど大学教授)、2人の反論の対象は私なのです。本多は〈 「万人坑」をめぐる中間的随想 〉、上羽の標題は〈万人坑は総動員・強制連行体制の結果作られた 〉というものです。
 万人坑がデッチ上げとなれば、南京大虐殺30万人、三光作戦はもちろん、「満州であらたに60ヵ所の万人坑が見つかった」ことを有力な根拠に、死傷者3500万人 などという中国の主張など、根底からぐらついてしまいます。そこで、何らかの“反論”を加えざるを得なかったのでしょうが、反論とは名ばかりのいつも通りの悪口雑言を連ねます。例をあげましょう。
 万人坑はデッチあげだという私の主張に対し、本多は次のように書きます。
〈 この種の「愛国的」主張は、南京大虐殺を否定した石原慎太郎代議士(のちに秘かに部分否定に変更)そのほか全然珍しくないので、「とびあがらんばかり」に驚く学者の存在に「とびあがらんばかり」に驚きますが、この学者(注1)の驚きは同書(注2)が「100%中国側のデッチ上げ」と断定するバカバカしさにあるのではなく、反対に同書を「正面からの批判」と評価する意味での驚きなのであります。 〉
  (注 1)  藤岡信勝教授のこと    (注 2)  上記の私の著作 『「朝日」に貶められた現代史 ― 万人坑は中国の作り話だ 』

 こんな具合に揚げ足をとる、おちゃらかすのが「反論」の中身なのです。ですから、「万人坑否定論」は誤りだとする根拠が示されるわけがありません。それでも根拠らしきものはないかとさがすと、次のようにあります。
 〈 もし、大石橋の万人坑が完全な捏造だとする証明ができたならば、私は“特ダネ”としてニュース記事にするでしょう。去年(1995年〉の春ここを再訪する機会があって、墓地だなどということはできない思いをあらたにしましたが、これについてはさらに突っ込んだ取材をする予定です。しかしそれは田辺氏や藤岡氏の主張に「反論」や「反批判」をするためでは全然なく、南京大虐殺の場合と同様、万人坑についての確かな事実関係を洗うため、ジャーナリストとしてはそれだけです。 〉

 大石橋(だいせっきょう、南満州の地名)の万人坑というのは、この地で操業していた南満鉱業(撫順炭鉱のそれとは別口)のものといい、犠牲者数が5万人以上といいます。その現地に遺体を収容した記念館が建っています(上記写真参照)。
 さて、本多はジャーナリストとして「突っ込んだ取材」をしたのでしょうか。何にもしないまま今日(2011年)に及んでいます。加害者とされた南満鉱業の社友会、撫順炭鉱の社友会から文書でもって朝日新聞社編集局長あてに抗議文が送られています。もちろん、社友会代表の実名、住所が明記されていました。ですが、本多も朝日新聞社も「突っ込んだ取材」どころか、取材の申し入れさえしなかったのです。当初は勢いよく相手をなじり、ときに脅すのですが、自分に具合悪くなると無視するのが本多流なのです。
 もう一つご覧ください。次がこの本多論考の締めくくりの文です。
 〈 さて藤岡信勝氏は、冒頭にあげた「御用学者」あるいは「御用裁判官」にあたるでしょうか。その論考を拝読したところ、渡部昇一その他これまでの露骨かつ低劣な御用学者とちがって、かなり狡智な面が見られます。各論としては私なども同感の部分が少なくありません。しかし「だからこそ」本格的御用学者だという見方もありうるかもしれませんが、ここでは私はいったん保留しておきたいと思います。各論の一部や総論としては大いに御用学者くさいとは思うし、本書の他の筆者たちにはそうみる人も多いでしょうが、もう少し見守ることにしましょう。 〉

 一体、何を言いたいのでしょう。ただ、相手をけなすだけが目的の抽象的、意味不鮮明の言い回しに終始しています。
 もう一人の上羽論考について一言。要約するのも手間ですので、次の文を引用します。
 〈 この調査(注、私の調査)は、「ヒト捨て場」が戦前から万人坑と呼ばれていたことを前提としているが、当時は万人坑と呼ばれていなかった可能性が強い。また最近現地を再訪した本多勝一氏も“「万人坑」という言葉は戦後にできた”との中国側の説明を記している。とすれば、在満者が万人坑を見聞きしなかったのは当然である。したがって、万人坑否定論の最大の根拠が崩れたことになる。 〉

 まったく何を言い出すことやら。馬鹿げた反論でお話にもなりません。
 「万人坑」を見た日本人は一人もいなかったとする私の調査への反論ですが、遺体が放置された場所を万人坑と呼ぼうがこれを本多記者のように「ヒト捨て場」と呼ぼうが、そんなことはまったく関係ありません。これに相当する遺体放置現場を見た日本人はなく、また労働者を死に追いつめ、その遺体を捨てたなどという話は聞いたこともないと数100人が異口同音に証言しているのです。
 万人坑なる言葉は本多記者のルポによってはじめて日本人が知ったのであり、当時の日本人研究者でこの言葉を知っていた人はいたでしょうが(本も写真も残っていますので)、加害者とされた炭鉱などの職員や家族、その地に住む一般住民も知る人はいませんでした。それに、「万人坑という言葉は戦後にできた」とする中国側の説明ですが、意識的「ウソ」か自国の歴史に不勉強であるかのどちらかでしょう。こんな基礎的な間違いが反論のタネになるのですからあきれます。
 「万人坑」は11世紀の中国の書物『庚申雑記』にあり、「餓死者の墓場」の意味で使われています。また、「行き倒れ」を含めた死者の墓地としたものは戦時中に発行された本にも記述が見えます。このことは(私の)本にも書いてあるでしょうに。上羽もまた日本側(加害者側)から誰一人として話を聞いていませんでした。

   (4)  結論は出ている
 もう結論は出ているのです。現に日本の歴史教科書から万人坑記述はいつの間にか消えてなくなりました。また、あらたにこれを採用した教科書の申請もありませんし、あらたにその存在を主張する学者も私の知る限りいなくなりました。いくらなんでも、こんなレべルの反論で万人坑が事実であると解釈する学者、研究者はでてこないでしょう。藤岡教授の言ったことですが、私の調査がなければ今頃、すべての日本の歴史教科書に載っていただろうと。私もそう思っています。
 ただ、中国があきらめているわけではありません。あらたに別の場所に記念碑を建てた例もありますし、かつては6万人だった犠牲者(大同炭鉱)を中国側が再調査した結果、15万5000人と判明したとする確かな話(2006年頃)もあり、そのうち、中国歴史教科書に15.5万人と書き加えられるにちがいありません(すでにそうなっているかもしれませんが)。
 これから先、知識を持たない大勢の日本の若者が中国を訪れます。そして中国側の話を真に受けて日本の過去をいまわしいと思うことでしょう。実際、その例(阜新炭鉱など)はでてきているのです。

   (5)  もはや、どうにもなりません
 「いくらなんでも、こんなレべルの反論で万人坑が事実であると解釈する学者、研究者はでてこないでしょう」と上に書きましたが、世の中広いというのか、ここまで見る目のない学者がいるというのか、最近(2011年)、電子辞書を見ていたところ、次の記述にぶつかりました。

 〈  万 人 坑
 中国語で沢山の(厳密に1万という数を意味しない)死体が捨てられ埋められた穴という意味で、日中戦争期の中国において日本側の鉱山、炭坑、大工事の現場付近につくられた中国人労働者の集団埋葬あるいは死体放棄場所をさす。
 「満州国」や中国本土の軍需資源の増産が必要となった日本は、雇用、徴用あるいは強制連行や捕虜使役、囚人懲役など、さまざまな手段を用いて中国人を狩り集め、劣悪な条件で酷使した。このため事故死や栄養失調による病死、懲罰的な虐待による死など、死者が相次ぎ、それらの遺体を累積して万人坑が形成された。
 中国側の調査によれば、万人坑は全国80か所に及ぶというが、その多くは中国東北地方に集中する、 〉
 

日本歴史大事典(小学館、2000年、2007年)     


 こんなことを書く筆者は一体、どこの誰なのかとみて見ますと、なんと笠原 十九司 とあります。次に何を根拠に書いたのかと見ますと、本多勝一『中国の旅』(朝日文庫)と上羽 修『中国人強制連行の奇跡』(1993、青木書店)の2冊でした。
 それにしてもこれでも学者なのかと感嘆します。これでは本多 勝一同様、中国のいうことをただ丸呑みにする代弁学者といわれても仕方のないことでしょう。笠原教授は南京事件での虐殺数を「 20万人あるいはそれ以上」 を主張するいわゆる「大虐殺派」の筆頭格。
 となれば、笠原教授の南京事件に関する著作、論文など、眉にツバつけて読むのが正しい接し方とならざるを得ません。


   3  決定的一冊あれこれ

  藤岡教授にとって、中国戦線における日本軍のイメージを規定した「決定的な一冊」は『三光』でした。このほかにも、歴史イメージを形成したと思われる「決定的な一冊」を数多く指摘できます。ここでは、代表的なものを写真とともに簡単に紹介します。このうちいくつかは各章で取り上げています。

  (1)  中国戦犯の関連では
 『三光』(神吉 晴夫編、カッパブックス、1957=昭和32年)は「中国戦犯」としてに中国に抑留された日本軍将兵、民間人らが、中国で行った自らの残虐行為をザンゲした「手記」で構成されています。「手記」は抑留中に書かれたもので、日本軍のあまりの残酷ぶりに驚いたのでしょう、非常に反響は大きかったようです。
『三 光』  一方、出版当時から「洗脳」された抑留者の手記だとの批判も起こりました。このため絶版となりましたが、後日『侵 略』と改題されて出版されました。なお、『三 光』は中国語訳されてホンコンの出版社からも刊行されています。
 『三光』は手記15編から成り立っています。例をあげますと、書名になった「三光」(殺しつくし、焼きつくし、奪いつくす)をはじめ、「ア弾」(毒ガス弾)、「生地獄」などです。このうち、「三光」、「陰謀」(コレラ作戦)、「労工狩り」(強制連行」については調査しましたので、( ⇒ 中国戦犯を検証する) をお読みください。
 『三光』が出てから20余年、別の手記を編んだ『三光 第1集』(下左写真。カッパブックス、中国帰還者連絡会編、1982=昭和57年)が発行されました。さらに、第2集も出ます。なお、「中国帰還者連絡会」は帰国した抑留者の組織です。
『三光 第1集』 『完全版 三光』  また、第1集と第2集を合わせた『完全版 三光』(同連絡会編、晩聲社、1984年)も出版されました。赤ん坊を殺し母親を犯すという「強 姦」、「人間の鬼」(農民を火あぶりにし生き埋めに)を含め22編が収められています。
 あまりにも酷い日本軍の所業は読者の心に深く刻み込まれたでしょうし、暗い歴史観が作られて何の不思議もありません。また、同じ手記集に『天皇の軍隊』もあります。いずれも「決定的一冊」と言えるものです。
 私の知っているものだけでもかなりの出版数になり、全部合わせれば20点を超えるのではないでしょうか。
『侵 略― 従軍兵士の記録』 『私たちは中国でなにをしたか』  写真の左側は『侵 略 ― 従軍兵士の記録』(日本中国友好協会、同連絡会編、日中出版、1975年)、右側は『私たちは中国でなにをしたか』(同連絡会編集委員会、三一書房 ⇒ 新風書房へ、1987年と1995年発行)です。
 後者の本に兵隊の副食が足りないからという理由で、村の娘を殺して食ったという「人肉食事件」を、当の下士官が証言しております。この証言を著名な精神医学者が何の疑いも抱かずに信じ、新聞(毎日新聞)でとりあげました。この話も調べてありますので、どうぞご覧ください。
 というような次第で、「中国戦犯」が中国に残してきた「手記」や「供述書」、あるいは帰国後の「証言」などは、朝日新聞、NHK、共同通信社、英字紙のジャパン・タイムズほか、報道機関の有力な情報源となり、積極的に報じもしました。わたくしたち日本人の歴史イメージに大きな影響をあたえたのです。

  (2)  朝日新聞社関連
次は朝日新聞社関連の「決定的一冊」です。
朝日文庫『中国の旅』 朝日文庫『天皇の軍隊』 『中国の日本軍』 朝日文庫『南京への道』  左写真の4冊を見ると、著者はすべて本多勝一記者ということに気づきます。
 まず、左端の『中国の旅』は1971(昭和46)年から朝日新聞に連載されたもので、連載直後にハードカバー本、次で文庫本(朝日文庫)になりました。この朝日連載こそ読者はもちろん、報道人、学者に多大な影響を与え、今日の「自虐史観」といわれるような歴史観の基礎を築いたものと私は思っています。
 『天皇の軍隊』は「中国の旅」連載と同時期に書かれたもの、『中国の日本軍』(双樹社、1972年)は『中国の旅』の写真版だといい、教育現場に持ち込まれてここでも大きな影響力を発揮しました。『南京への道』(朝日文庫、1989年)は週刊雑誌「アサヒジャーナル」に連載されたものを文庫化したものです。
 詳しいことは各章をご覧ください。

  (3)  そ の 他
 まず取り上げるべきは、続編も含め260万部以上売れ、一大ベストセラーになった『悪魔の飽食』(森村 誠一、光文社カッパブックス、1981=昭和56年)でしょう。
『悪魔の飽食』 『続 悪魔の飽食』  いわゆる「731部隊」に関する調査もので、1981(昭和56)年から「赤旗」に74回にわたって連載されたものを単行本にしたものです。
 また、翌年(1982年)には『続 悪魔の飽食』も出版されました。これは『悪魔の飽食』に対して、誤りがある、調査が杜撰(ずさん)だといった反論がでてきたことに対する「反撃の書」でした。
 前者では本多勝一が、〈 綿密な取材と膨大な資料発掘によって決定的な記録とせしめた本書は、中性子爆弾などで「発展的絶滅」の危機へと近づきつつあるたそがれの今、戦争体験のない若い層にこそ読んでほしいと思う。平和勢力が虐殺勢力に打ち勝つために。 〉と推薦の言葉を寄せ、
 続編では筑紫哲也(朝日新聞編集委員)が、〈 『続 悪魔の飽食』はそうした動きに対する果敢な反撃の書である。前者の描写をさらに厳密化させた著述、そして動かしがたい記録、写真の数々はどちらが真実であるかを伝えてあますところがない。〉との賛辞を寄せています。
 731部隊について詳しいことを知りませんので、正面から何か書くことはできませんが、『悪魔の飽食』に関する論争について、要点を書いておこうと思っています(予定)。
『決定版 南京大虐殺』  次に「南京大虐殺」ですが、実に多くの関連本がでています。詳しくは本論を読んでいただければと思いますが、「大虐殺」の先駆となった『決定版 南京大虐殺』(洞 富雄・元早稲田大学教授、徳間書店、1982年)のみを掲げておきます。
 この本だけを読んだ人は、確実に「30万人大虐殺」説に引き寄せられるでしょう。資料、証言も豊富ですので。でも、反論の本を手に取れば、この大虐殺説が揺らいでくるのではと思います。この「決定的な一冊」についても、異説本を合わせ読むことによって、正確なところは分からないにしても、間違いの幅を縮めることはできると思います。

「日本鬼子」  さらに映画もあります。中国抑留者だけが証言者として出演する「日本鬼子」(リーベンクイズ、中国人が使う日本人の蔑称)なども、見た人に強烈な印象を与えたはずで、「決定的な一本」 になったことでしょう。
 左写真は同映画のパンフレットの表紙ですが、「実に憎むべき、わたくしであります」と書いてありますから、ある程度、内容は想像がつくでしょう。また、このような表現は、中国抑留者の「手記」などで見られる独特の言い回しであることにお気づきの人もおいででしょう。
 ここまで紹介した本や映画を一度でも読むなり見るなりすれば、ほとんどの人は冷酷かつ無慈悲な日本軍の所業を知って、身の縮む思いを味わわされたはずです。その帰結として、かつての日本軍、日本という国家に対して激しい嫌悪感、拒絶感へと凝縮していったに違いありません。
 また教室で、これらを教材に教師から解説つきで教えられれば、「日本軍のバカやろう、同じ日本人として恥ずかしい」といった感想が、生徒からでてくるのも当然と思いますし、「なにもかも悪かった日本」というイメージが成人になった後もついて回るのは避けられないでしょう。

 新聞、テレビは日本軍の悪行となれば競うように報じてきましたし、「中国抑留者」の証言を後押しした記事、番組が数多く私たちの目に入りました。こういった状況が、30年、40年とつづいてきましたし、現在も進行中ですから、日本人の歴史イメージがもはや回復不能状態 に入っているのかもしれません。
 ですから、このようなウイルスにかかった人に対して、特効薬となるようなワクチンがあるはずもなく、あらたな感染者を防ぐ方法もなかなか難しく、まあ地道に進めていくしかないのかなと思います。
 ただ、尖閣諸島沖での中国漁船衝突事件に対する中国の「黒を白といい、白を黒という」高圧的、一方的対応などをわたしたち日本人は目の当たりしました。これらが原因となって、中国への信頼性は急低下しています。あるいは、歴史問題に対しても風向きが変わってくるかもしれません。私たちの歴史イメージを変えるに足るだけの風向きの変化かどうか、よくわかりませんが。


― 2006年 7月29日から掲載 ―
― 2011年3月4日、加筆の上掲載 ―


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