生き方を改めて考えさせられた『「超」文章法』


03.1.1 茶谷 達雄

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人生の生き方を改めて考えさせられる本があるが、本書はまさにそれだ。おもしろく勇気も与えてくれる。思わず吹き出してしまうところもあるほどだ。

文章の書き方にいたっては、オーバーにいえば、ラブレターから学術論文まで、一貫した共通の考え方で説明されており、応用範囲はまことに広い。桃太郎の童話と学術論文とを同一の土俵で論ずるなど、「目から鱗が取れる」とはこのことかと思わせてくれる。

この本を最初、書店での平置きの場で見たとき、「またか」と思った。これまで文章の書き方の本は、実にたくさん出ているからだ。その場は通り抜けたが、待てよ「超整理法」以来の野口悠紀雄先生のなら、何かあるだろう。文庫本だし値段も手頃のようだ。拾い読みでもして、少しでも得ることがあれは良いかな程度で手に入れたものだ。しかし、結果は案に相違して、精読2回もしてしまった。

本書のなかで、力をこめて述べられておられる点は、文章執筆者の態度として、謙虚でなければならないということだ。事大主義と権威主義こそ、文章の最大の敵としている。「私の考えが正しいことを、どうか理解してほしい」という気持ちが必要だ。しかし、それも場合によるという。あなたの訴えたい内容が、編集者や読者の興味を惹かないことも多い。この乖離は、まことに悩ましい問題だという。全く同感である。

この点では、囲み記事での「歴史的業績に対する最初の評価」の事例がおもしろい。そのうちの一つを紹介すると、「お気の毒ですが、英語の文章がなっていませんな。アマチュアじゃ困るんですよ、キップリングさん」:これは、ノーベル文学賞を得たイギリスの作家キップリングの作品に対する雑誌編集者のコメントだったという。

文章執筆者の論述が受け入れられるかどうかは、ひとえに適切な「メッセージ」の明確化にあるという。「メッセージ」とは、どうしても読者に伝えたい内容である。それは「ひとことで言えるもの」でなければならないという。

このメッセージを見つけるには、「考え抜く」しかない。すると、あるとき啓示がある。メッセージを見出せるかどうかは、好奇心の強さによる。しかし、これは必ずしも生まれつきの性癖ではない。必要性があれば、好奇心は強まる。

メッセージの多くは、対話の過程で見つかる。「考え抜く」のは自分の内面のプロセスだが、それが異質なものとぶつかったとき、何かが生まれるのであるという。こうなるとKJ法の精神と共通になる。

文章の骨組みについては、「ドラマテックに始め、印象深く終えよ」と説く。「始めは客引き」が大事だともいう。現代は忙しい時代だ。書き出しがつまらないと、読者は逃げてしまう。そのためには、最初に結論やクライマックスを述べてしまうことだ。

「学術論文では客引きは必要あるまい」と考えるだろう。しかし、事実は逆である。学術論文においてこそ必要なのだ。科学論文にも人の気をひくタイトルが必要だと。キャベンディッシュは、「重力の測定」でもなく、「定数gの値」でもなく「地球の重さを測る」としたのであるという。

パソコン時代になり、文章の書き方が大きく変わった。まず、「とにかく書き始めることだ」という。あとで順序も含め、いくらでも修正が可能である。「始めれば完成する」というのが、パソコン時代の文章執筆の極意なのだと説かれている。

サブタイトルは「伝えたいことをどう書くか」となっている。本書の内容は単に文章の作成のみに役立つものでなく、コミュニケーション全般について共通して求められるものである。人間はコミュニケーションなしには生きられない。まして、IT時代は、コミュニケーション革命の時代である。この書に述べられた文章の作成のあり方をとおして、人生に対する「ものの見方・考え方」を改めて考えさせられた本であった。

野口悠紀雄著『「超」文章法』中央公論新社刊、2002年10月25日発行
(初出「参出遠」80号)


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