句あれば楽あり ?

卯の花腐(くだ)

至遊(しゆう)



 俳句を齧ったことのある方なら今更だろうが、「卯の花腐し」という季語がある。卯の花は旧暦の卯月に咲く花だから、今なら五月の花である。大野林火監修の「入門歳時記」には、「陰暦の四月を卯月、卯の花月といい、このころに降り続く雨をいう。その陰鬱な感じからか、卯の花を腐らせる雨としたものであろう。(以下略)」とある。

 確かに卯という季節が入るので、他の季には使い難いだろう。ただこの卯の花は花期が長い。7月から8月になっても咲いている。特に今年は長梅雨のせいか温度が上がらなかったので、長持ちしているのかも知れない。そこにこの長雨である。ただでさえあまりいい香りを発する花ではない。それが濡れ続けると、本当に腐ったかと思いたくなる。

 俳句では季語がはっきり定められているが、それに合わない現象がよく起る。例えば「蝶」と言えば春の季語だが、夏にモンシロチョウを見かけることもある。そんな場合、「夏の蝶」と逃げる。勿論、揚羽蝶のように種類の違う蝶は、夏の季語として厳然とあり、この場合はそんな逃げは打たなくても「揚羽蝶」「黒揚羽」等で問題ない。また今年の場合、八月八日は立秋だが、その頃鳴いている油蝉も当然居る。「秋の蝉」と言うしかない。

 話は「卯の花腐し」に戻るが、こんな晩夏の長雨の現象を「晩夏の卯の花腐し」と言ってはいけないかとふと思った。そして句会に、

  刻止まる晩夏の卯の花腐しかな   至遊

という句を出した。評価は散々だった。初夏の季語である「卯の花腐し」に晩夏をつけたのだから、季ずれである、というのが大部分の人の意見であった。また「晩夏」と「卯の花腐し」との夏の季語の季重なりだという人もいた。ただ一人採ってくれた人も、この季重なりはひどいが「刻止まる晩夏」というフレーズが気に入ったから採ったという。

 そこで「夏の蝶」や「秋の蚊」と同じ意味合いで詠んだと言ってはみたが、やはり「卯の花腐し」という季語の力は絶大である。この梅雨(五月雨)に濡れるのと、菜種梅雨(晩春)に近い初夏の雨では季感が大いに違うのだという。まぁそれを逆手に取って詠んだような句ではあるが、一体どこまでが「XX(季節を表す言葉)のYY」という本来の季でないものを詠む表現は許されるのだろう。

 例えば滝なら「冬の滝」は許される。これは本来滝が夏の季語としての季語性が弱いから、「秋の滝」でも「春の滝」でも、季節が付けばそちらに引きずられる。「夏の蝶」や「秋の蝉」になると、本来の春の蝶や、夏の蝉とは種類が違ってくるのだとも言われる。多分「冬薔薇」もそうだろうが、我が家では春に一度咲いた薔薇が晩夏になってまた咲き始めた。多分秋まで持つだろう。我が家の薔薇は本来春から初夏にかけての花であり、今けなげに蕾をつけているのを見ると困ってしまう。やはり違う種類の薔薇と思われようが「秋の薔薇」と詠まざるを得ない。

 蝉は特に季節感の強い季語である。やはり秋の蝉というと、蜩や法師蝉というイメージになってしまうのだろうか。季寄せには「秋の蝉」は「残る蝉」を含めて使ってあり、「蜩」や「法師蝉」とははっきりと分けてある。

 晩夏に卯の花が長雨に濡れて、初夏の卯の花腐しと同じことを感じたとしたら、「晩夏の卯の花腐し」も許されていいと思うのだが。ただ俳句の良し悪しは(俳句に限らず芸術一般にそうだが)自分で判断するものではない。だから誰か「許す!」と言ってくれても、この句に評価の価値がなければ全く意味はないことは承知している。単に自分の意図を表現してみるためだけに「試作」されたこの句への、鎮魂歌の積りでこの文を書いているのかも知れない。


030824