句あれば楽あり ?

テーマ別俳句 雪 一

至遊(しゆう)



 さて今回は雪である。今年はよく雪に遭った。というのも諏訪湖や飛騨へ出かけたからで、東京ではまだ遭っていない。

 まずは古い人から始めよう。

   雪ながら山もと霞むゆふべかな   宗祗法師

 宗祗は連歌の神様と言われている。この句(というのも変だが)も当然連歌である限り付句がある。これには「行く水遠く梅にほふ里」と付けられている。それから芭蕉がやったような俳諧(の連歌)へと変わって行く。何が違うかは説明すると長くなるが、簡単に言えば連歌は短歌を2人で合作する一種の遊びである。だから発想は短歌的であり、従来の価値観である雅の世界に居り、大和言葉しか使わない。とはいえ立春の頃の情景を雅に表わしている。俳味はないが美しい句ではある。

   下京や雪つむ上の夜の雨      野沢凡兆

 この句は「猿蓑」にある句である。上五が仲々決まらなかったらしい。そこに「下京や」しかない、と言ったのは芭蕉である。その意味では芭蕉との合作である。芭蕉は「下京や」以上の上五があれば自分は句をやめるとまで言ったらしい(去来抄)。確かに山際ではまずいし、田舎でもまずい。今ならそんなところは沢山あるかも知れないが、やはり京都も下町だろう。

   僧は敲く月ならねども雪の門    横井也有

 「推敲」という言葉の謂れをご存知の方は「はは〜ん」と頷かれるだろう。中国の故事が下敷きになっている。ただそれに頼り切った嫌いがあり、風景描写のように見せながら、理が勝ちすぎている。「月ならねども」が出典まで見せすぎ。

   是がまあつひの栖か雪五尺     小林一茶

 最近、一茶の生涯がテレビで放映された。全部は見ていないが、藤沢周平の小説では読んだ。一茶の頃の価値観が分らないと何とも言えないが、今の我々が見ると随分わがままなことを弟に対してはしたものだ。自分で望んで信州に戻り、「是がまあ」と言われたら弟も立つ瀬がない。

   鳥落ちず深雪がかくす飛騨の国   前田普羅

 今年のお正月は飛騨で迎えた。やはり雪だったので雪を詠んだ句はいくつか出来た。だけどここで披露できるようなものはない。「飛騨の里」は旧家の群を「深雪がかくす」状態で雪国らしい情緒を味わってきた。住んでいる人はそれどころではないだろうが。上五を「鳥落ちず」とするか「鳥飛ぶや」とするかでは大分迷ったらしい。最後は「鳥飛ぶや」に落ち着いたようだが、山本健吉氏はこれを改悪だと断定する。「鳥落ちず」なら渡り鳥が飛騨を無視して南へ飛んでいく様と解釈した。「鳥飛ぶや」なら雀でも鴉でもいいという。確かに「落ちず」の方が印象は強い。

   更けゆくや雨降り変はる夜の雪   小沢碧童

 凡兆とは逆に雨から雪に変わるのである。この句は河東碧梧桐の通夜に詠んだ句らしい。雨が雪に変わり、段々寒くなって行く様が、師を失った者の寂しさを表わすにはいい。

   ゆきふるといひしばかりの人しずか 室生犀星

 犀星らしい。まずひらがな主体で柔らか味を出している。口数の少ない女の人(この柔かさは女と断定してもいいだろう)と同席していると見えて、「雪になりました」と言ったきりまた黙ってしまうという状態なのだろう。雪だから余計に静かさを増している。

   しんしんと雪降る空に鳶の笛    川端茅舎

 実景かどうかは疑う。今まで雪空に鳶の舞うのを見たことがないからである。しかし「鳶の笛」という言葉はここで生れたらしい。私の句には詩的な要素が足りない。その意味ではこんな言葉を創り出せる茅舎の詩心は羨ましい。

   力なく降る雪なればなぐさまず   石田波郷

 どの時期の作かは知らない。ただ滅多に雪の降らない東京近辺では、雪は風流の道具立てにもなりうる。元気な時なら「積れ!積れ!」という感じでよく見ていたもので、小降りになるとがっかりしたものである。また病気中なら適度な目の慰みである。それに力がない、というと自分をそこに重ねているように見える。どんな状態でも理解できる句である。

   雪はしづかにゆたかにはやし屍室  石田波郷

 この句は死が間近に迫っていた時の句らしい。別の人の死を客観的に描いたのか、自分の死を想定したかは分らない。雪を「ゆたかにはやし」は珍しい。もっとも最初は「はげし」だったらしい。「しづかに」との相性から言えば「はやし」が勝つだろう。

   雪と雪の相剋かぎりなく白し    津田清子

 灰色の空から白い雪が降る。それも高みにある時はやはり灰色に見え、屋根等の風景がある高さに来ると白く見える。これは自分で詠みたかった情景だが、この津田清子の句でもそこまでは表わせていない。ただ白だけである。これは上五を六にしても「の」を入れる大事さを、鷹羽狩行さんが紹介するために引いていた句である。余り五七五にこだわり過ぎると関係をあやふやにしたり、三段切れにしてしまったりする。言葉を削るのも場合によりけりである。

   限りなく降る雪何をもたらすや   西東三鬼

 これも前に述べた私の詠みたい情景を、半分言ってくれている。限りなく灰色の雲から湧き出るように落ちてくるところである。「何をもたらすや」とまでは期待しない。これは豪雪地帯では詠んでも点の入らない句だろう。作者は「何かが私の心に降って来る」と言っている。もたらされたものはその「何か」なのか。

   雪吊りの雪待つ姿甘き菓子     若泉真樹

 よく兼六園の雪吊りなどはテレビにも映る。そして大抵そんなとき雪はない。本当は雪吊りが雪を待つ筈はないのだが、見ている側からすると雪吊りが無駄に見えてくる。無用の長物に自らならないように「待って」いるのかも知れない。その寒い時期、炬燵に入りながらの甘い菓子は、下戸で寒がりの先生には最高の贅沢だろう。まして目の前に雪吊りのある庭でもあれば。

 以下、以前紹介したことのある句を並べておく。そして「雪」も(その2)まで続けることにする。

   降る雪や明治は遠くなりにけり  中村草田男

   山鳩よみればまはりに雪がふる   高屋窓秋

   いくたびも雪の深さを尋ねけり   正岡子規

 重ねての説明は要らないと思うが「山鳩よ」の句は何度見ても不思議な魅力を持った句である。