句あれば楽あり ?

テーマ別俳句 艶

至遊(しゆう)



 前回、愛の句を書いたがそのとき「愛」とは言えなくても「艶」のある句がいくつか見つかった。これは愛より俳句の句材としては合うのかも知れない。

  行く女袷着なすやにくきまで    炭 太祗

 太祗は京都の人である。今でこそ着物を着る女の人が少なくなったので、その着こなしの上手・下手は嫌でも眼についてしまうが、江戸時代の京都で眼を引いた「にくきまで」着こなしている女性は、多分すばらしい人だったのだろう。ちなみに袷の女は京都で、これが浴衣の男となると江戸だそうである。

  七夕や髪ぬれしまゝ人に逢う   橋本多佳子

 別に大したことは言っていない。しかし多佳子が詠んだ句と思うと、逢った人を詮索してみたくなる。七夕だから想っていても滅多に逢えない人かも知れないと、余計なことまで考えてしまう。やはり女の人の濡れた髪は色気を感じさせる。最近のような朝シャンでは駄目だが。

  花衣ぬぐやまつわる紐いろいろ   杉田久女

 この句は以前紹介した。着物の時代は面倒でもあったろうが、その分情緒もあった。この句も女性が詠んだからいいので、むしろ男には詠めない。勿論、花見から戻っての単なる着替えだろう。しかし何か思わせ振りなところで叙述が終ってしまうのが、俳句のいいところである。「いろいろ」も多分「多種」であり「多色」であろう。

  炎ゆる間がいのち女と唐辛子    三橋鷹女

 秋の季語を見ていたら唐辛子の項にこの句があった。唐辛子と女の命とを並列に並べるとは思わなかった。確かに唐辛子も情熱的な色で、しかも見方によっては炎の形である。言い過ぎの嫌いはある。これは女の人が詠んだのでこうなってしまったのかも知れないが、男から見るとしっとり落ち着いた情緒が、艶という意味では勝っていると思う。

  ひとづまにえんどうやはらかく煮えぬ 桂信子

 ひらがなを並べたところが、本当に柔らかそうだ。人妻が豌豆を煮た筈だが、「ひとづまに」と来ると、人妻のために豌豆が柔らかく煮えてくれたというイメージになる。こんなささいなことにも、自分が人妻であることを意識しているところに、まだ初々しい艶っぽさが覗いている。

  すすき野に肌あつきわれ昏れむとす  桂信子

 愛(恋愛)の部に持って行きたかった句である。「すすき野」と言っても勿論札幌ではない。あそこは季語にはならない。肌あつきまま昏れようとしているのだから、今からどうなるのか分らない。この分らなさが俳句の佳さでもある。この作者の若い頃の作品にはこの種の句が多い。捨てるのに勿体無いので一部を連記しておくと、

  湯上りの肌の匂へり夕ざくら     桂信子

  衣をぬぎし闇のあなたにあやめ咲く  桂信子

  逢ひし衣を脱ぐや秋風にも匂ふ    桂信子

等々である。女流の句をそう沢山鑑賞した訳ではないので、もしかするとこんな句がごろごろしているのかも知れない。

  香水を噴く一瞬のこの栄華     三好潤子

 これは艶と言えるかどうかは分らない。女性の香水に寄せる並々ならぬ夢を感じる。多分男はそれ程敏感に感じてくれないので、香水で男の気を引くというのは確率が低い。しかしそうではなく、香水を振り掛ける行為そのものが、女性に満足感・贅沢感を与えているのである。手段が目的化した例とでも言えるが、十分それで満足なのである。「香水」が夏の季語。

  汝が胸の谷間の汗や巴里祭     楠本憲吉

 楠本憲吉はさまざまな俳句評で活躍した、俳句研究家でもある。胸の谷間はいつも男の眼を惹きつけるが、誰かが「女の胸は男のためにあるのではない」と言った。なる程そうであるが、女性のシンボルであるには違いない。この句は全く嫌らしさがない。共に巴里祭を騒いで過ごして、汗ばんでいる状態である(と思う)。巴里祭も汗も夏の季語。自分の句を評したらこの人は何と書いただろうか。

  朝顔やおもひを遂げしごとしぼむ  日野草城

 情景は朝顔である。しかし何となくエロティックな表現である。翌朝にはまた元気な花を咲かせているとは思うが。女は自分を詠んでも艶っぽくなり得るが、男はそうは行かない。だから朝顔を借りて来たのか、ただ純粋に朝顔を詠みたかっただけとは思えない。

  女来と帯纏き出づる百日紅     石田波郷

 百日紅だから当然夏である。「よくぞ男に生まれける」と言った人が居るように、男は結構家の中ではだらしない格好をしている。そこへ突然の女客。慌てて帯を巻きながら出て行く波郷の姿が見える。正直言って私は男だから「男の色気」と言われても、女性がどんなところに色気を感じているのかさっぱり分らない。だから「艶」として取り上げると、どうしても女性を詠んだ句が多くなる。これが艶に当たるかどうか分らないが、バランスを少しでも保とうと取り上げてみた。