句あれば楽あり ?

テーマ別俳句 酒

至遊(しゆう)



 酒の句は我々の句会でもよく出てくる。私の句にも

  椅子の背にセーター投げて軽き酔い   福山至遊

というのがある。だけど

  酒好きに酒の佳句なしどぜう鍋    秋元不死男

という句がある。私には酒の佳句は出来ないと宣告されたようなものである。確かに私に限らず、酒を詠んだ句で佳句と言い切れるのは少ない。この不死男の句からして、単なる茶化しである。
最近はそうでもないが、一般に女性は大酒を飲まない。その意味では女性に佳句があるかも知れない。そこで先ず女性の句から。

  菊の酒人の心をくみて酌        星野立子

 ご存知、高濱虚子の二女である。最近人の気も知らないで、話の乗って来たところへ割り込んで来て酌をするなど、無礼なのが多いと怒っている人の文を読んだ。この句は気に入る筈である。「心を汲む」と「酒を酌む」と両方にかけた「くみて」になっているのだろうが、「心を汲む」の方に重さが行っているのがいい。

  飲み干せるビールの泡の口笑う     星野立子

 ところがこの人もビールは苦手だったと見えて、この句には余情がない。第一ビールを思わせる「飲み干す」「泡」など無駄の連続である。虚子の孫にあたる稲畑汀子氏にも酒の佳句は見出せなかった。酒好きかも知れない。

  ビールほろ苦し女傑となりきれず    桂 信子

 この人はもっといい句を詠む人である。席題にでも出たのであろうか、これにも彼女らしいピリッとしたところがない。気持は分る。女性がリーダーである句会では、やはり酒の席でもお付き合い程度には頑張らないと、という肩に力の入る部分があるのであろう。ただこの人はビールを飲まなくても、すでに立派な女傑である。

  たわいなき年酒の酔ひを見られけり   速水草女

 この人は余りお酒が飲めないらしい。従ってたわいなく酔ったのであるが、そこに一種の羞らいを見せている。年酒とは新年の屠蘇のことであるから、沢山飲む筈はない。ただ客が来る度に勧めると自分も受ける羽目になることはあるだろう。自分の心を覗かせているところが佳句。

  ビール酌む男ごころを灯に曝し     三橋鷹女

 珍しく女が男を詠んでいる。この灯はそんなに明るい灯ではなく、屋台の赤提灯程度に思いたい。そこで「曝す」とはオーバーだが、本当に曝せるのはそんなところである。周囲に守ってくれる何物もないが、そんなところで却って周囲を無視できるのである。多分そんな場に同席して、句会とはまた違った男の言動に驚いたのだろう。

  酔いながら酒酌む白鳥に逢いたいと   若泉真樹

 これは私の先生だけに生態をよく知っているから、酔っているのは先生ではなく同行した仲間だと判る。何しろ先生は白鳥が黒揚羽以上に好きである。白鳥を見に仲間とどこまでも出かけて行く。そこで見つからないと来るまで待つ。寒さを紛らすために、大抵の人はちびりちびりと飲みながら待つ。少しはそれにも付き合っている、そんな時の句の筈である。本当は下戸の人の句である。

  おでん酒酌むや肝胆相照らし      山口誓子

 愈々男の出番である。先ずは大家の誓子からと思ったが、やはり平凡である。特に「肝胆相照らし」などという既成の言葉を、不用意に使っていて生きていない。先ず失格。

  熱燗の一杯だけは妻のもの       湯田芳洋

 上手い俳句とは言えないが、まだ情景は見え、そこにしっとりとした情愛がある。多分奥さんは飲めない人だが、作者が付き合えというものだから「じゃぁ一杯だけよ」という程度のものであろう。同じ「俗」っぽさの中でもまだこの方が許せる。

  ある時は新酒に酔うて悔多き      夏目漱石

 新酒は秋の季語。あの千円札の漱石が酔っている。悔いが多いから酔っているのか、酔ったことを悔いているのか、読み方次第でどうにも取れるが、多分前者である。イギリス留学にしても、人気作家になってからの大病にしても、悔いは残ることだろう。漱石にしては、必ずしも出来のいい方ではないと思うが、私の知り合いに「漱石命」の人が居るのでこの辺で。

  濁酒や酔うて掌をやるぼんのくぼ    石田波郷

 川柳的に言えば「うがち」の句である。この句は男の酒の句にしては良く出来ている。掌をぼんのくぼに当てているのは自分だろうが、それを外の自分が観察している趣がある。

  矢の如くビアガーデンへ昇降機    後藤比奈夫

 名句「瀧の上に水現れて落ちにけり」を残した、後藤夜半の息子である。「矢の如く」は多分エレベーターではなく、自分の気持の方が逸っているのである。飲兵衛にだけ判る心境である。こう取らないと全く面白みのない句になってしまう。

  玉子酒神父在日四十年         影山筍吉

 玉子酒だから酔うために飲んでいるものではない。風邪の早期の手当てである。神父は外国人。もう四十年も日本に居るので、日本の風習にはすっかり溶け込んで、「風邪かな?」と思ったらすぐ「玉子酒」と来るまでになった。やはり「ワイン」ではこうは行かない。

  息づかひしづかに父の年の酒     滝沢伊代次

 もう父も歳である。すべてが静かになる。挙措動作は勿論息づかいまで。そしてその態度は一番の「ハレ」の行事である、年賀の屠蘇を酌むときにも微動だにしない。はしゃぐでなし、訓辞を垂れるでなし、家長としての権威だけは保ったままの静けさである。男の酒の句では好きと言える句である。

  冷酒に澄む二三字や猪口の底      日野草城

 本当の酒好きは燗などしないで、良い冷酒を飲む。夏の季語だが実際には夏には限らない。冷酒を杯に移してみると、きれいな水より澄んでいるように感じる。そして何故か安物の猪口の底には何か書いてあるものが多い。それが酒の銘柄だったりすると興ざめだが、字のようでもあり、模様のようでもありというブルーの色が見えるとき、幸せなのである。

  焼酎に慣れし左遷の島教師      夏井やすを

 ちょっとひがみっぽい男である。菅原道真以来、ちょっと都を離れたところへ行くと、左遷だと思っている。左遷でなくても島にも教師は必要なのだから、その事実を受け入れて、自分の天職ぐらいに思えばもっとこの焼酎は旨い筈である。焼酎に失礼である。慣れなくてもいいから辞表でも出して辞めて行って貰いたい、と私が怒る必要はない。