句あれば楽あり ?

 テーマ別俳句 木枯らし

至遊(しゆう)



 木枯らしは寒さのほかに人生の逆風に喩えられたりして、どうしてもハッピーな状況には使われない。それだけに俳句にはなり易い。過去の例にも多い。

   
木枯の果てはありけり海の音     池西言水

   
海に出て木枯帰るところなし     山口誓子

 この2句は何となしに似ている。池西言水は江戸初期の談林派の人で、芭蕉とそれ程時代は違わないが、いわゆる蕉風が確立させる前の人である。木枯らしも海に出てしまえば、喩え荒れ狂っていたにしても、漁師でもない普通の人々からみれば消え去ったも同じことである。だから海で音をさせるようになったら、木枯らしとしての威風も効かない。無いのと同然である。ただ17世紀にこんな句を詠むとは、感覚的に凄い人だったと思う。
 一方誓子は平成まで生きた現代人である。「帰るところなし」と否定形で捕らえているが、こちらは動いているもの生きているものに安住の地はないと言っているような気がする。人間なら死、木枯らしなら海の果に行かない限り。そこへ行ったら戻れないのだ。そこまで抽象化して考えていいと思う。

   
木枯に塔は鎧うて立ちにけり     夜半亭巴人

 塔には蔦が生い茂り、周りは森が囲んでいるかもしれない。塔はそんなものを鎧代わりにして木枯らしと戦っている。逆に鎧がなければ立ち向かえない古い塔なのであろう。何となく「どっこい生きている」という感じに取れる。

   
凩や焦土の金庫吹きならす      加藤楸邨

 楸邨は東京大空襲で新築の自宅を焼かれた。自分のではないかも知れないが空っぽの金庫が焦土の跡に転がっている。遮るものの何も無い焦土には、木枯らしも好きなだけ暴れ回れる。その金庫にも風が当たってひゅーというような音を立てている。形あるものがいかに空しいか、先ほどの誓子と似たような無常観が漂う。

   
木がらしの吹行うしろすがた哉    服部嵐雪

 嵐雪は芭蕉の弟子だから、当時の俳句(発句)はもっと単純だが、それなりに無常観を表している。うしろ姿そのものが、立ち去る者の姿なので一種の哀れを誘うが、そこに木枯らしが吹き付ける。まるで木枯らしに運ばれて行ってしまうような淋しい光景である。

   
木がらしや目刺にのこる海のいろ   芥川龍之介

 龍之介の名句と言っていいだろう。目刺と言えども出自は海の生き物である。たとえ目刺になって、姿形は変わり果てても、海の色(多分それに香りも)止めておかずにはいない。その痩せこけたような目刺と木枯らしである。どちらも儚い運命しか持ち合わせていない。ただ最後まで郷愁を漂わせる目刺が、むしろ清々しさを感じさせる。

   
こがらしや何に世わたる家五軒    与謝蕪村

 「さみだれや大河を前に家二軒」と似た構図である。木枯らしの吹く中に貧しそうな五軒の家が並んでいる。一体何をして生計を立てている家なんだろう、というところだろうが、画家でもある蕪村だけに墨絵の構図を考えているようでもある。写生であるとは思えない。「私には関係ないけれど」という続きが聞こえてきそうな突き離しかたである。

   
こがらしやひたとつまづく戻り馬   与謝蕪村

 これも見たとは思えない。よく佐野源左衛門の飼っている痩せ馬が、戸塚の坂あたりで転んだはずだという、鉢の木を材料にした手合いの川柳があるが、その想像と似ているような気がする。確かに背中に荷を積んだ馬に、横風でも当たれば、馬もバランスを崩すかも知れない。そんな風な一種の戯画と映る。

   
凩や自在に釜のきしる音       正岡子規

 今でも隙間風は寒い。子規の当時の家ならサッシがあるわけではなし、木枯らしが吹けば家の中にも遠慮なく入ってきただろう。そして囲炉裏の自在鉤に掛けた釜がその風に揺られて、きしみながら揺れているのである。写生を唱えた子規だけにその写生の範囲に止めている。しかしそこには古びた家と家ごと揺れているような様子までが見えてくる。

   
凩や海に夕日を吹き落す       夏目漱石

 別に木枯らしが夕日を早く落としたということはないが、夕日の沈む夕方に吹き始めた木枯らしは、まるで弱い光しか発していない太陽を西の海の下へ追いやったような気がしたのだろう。どうということはないが、気宇壮大な風景描写になっている。

   
吾子そろひ凩の夜の炉がもゆる    橋本多佳子

 いつもは大きな子は別に寝ていたのかも知れない。しかし木枯らしの吹く夜は、寒さと音の怖さで全部の子が母親の傍に寄ってきたのであろう。そこだけは母の温もりの他に暖炉もあり子供たちも安心して、むしろ喜んで固まっていたのかも知れない。思いがけない一家団欒の時間が過ごせている。汀女、しずの女にも子供を詠んだ句があるが、この辺は父親では詠めない世界である。

   
ひゅうと鳴る木枯らし謂れなき不安  福山至遊

 私の合同句集の第一集に載せた句である。だから初心の時だし今みると直したい部分もある。しかし当時はその句集の中でも好きな句の一つだった。別に木枯らしが吹いたからと言って具体的に被害がでるような住宅事情ではないが、あの電線の鳴る音などをを聞いていると何かが起こりそうな気がして不安になる。勿論「木枯らし」で切れているので、不安は別のところにあってもいい。

   
受話器置く木枯がまた胸中に     若泉真樹

 何か悪い報せか、そこは測り知れないが胸の中に木枯らしが吹くようでは、いい報せとは言えない。私の先生だがこの句が出来たころはまだ私は俳句を始めていなかった。だから句会でこの句の話を聞くというようなことも勿論ないし、推定で鑑賞するしかない。失礼ながら最初これは失恋の句だと取った。この後だと思うが肉親のご不幸が続いて、もしかしたらその兆候が見えていての「木枯」だったかも知れない。そんな家庭の事情など全く知らない私にはそう読めただけである。


040307