句あれば楽あり ?

テーマ別俳句 春

至遊(しゆう)


 前回の梅もすでに春だが、やはり何か寒さを伴っている。一寸範囲を広げて「春」という文字を使った句を紹介しよう。ただし「竹の春」のように明らかに春でないものは除く。

   春や来し年や行きけん小晦日     松尾芭蕉

 おっ!芭蕉にもこの程度の句があるのか、と思わせる句である。饗庭孝男氏によれば、これは文献に出てくる芭蕉の初めての句である。当時芭蕉19歳。北村季吟の孫弟子のような形で、名もまだ宗房である。節分の日を詠んでいるが、感心するほどの句ではない。やはり天才ではなく、努力の人だったのだろう。

   行春を近江の人とおしみける     松尾芭蕉

 有名な句でしかも「近江の人」でなければならないのかという論争を当時呼んだ句である。尚白が丹波でもいいと言ったのに、去来が近江でなければならないと言っている。実際近江の人と詠んだ句だろうから一種の挨拶句とも言える。行春と言えば琵琶湖の情景が浮かび、もう近江以外にはあり得ないという。ただ芭蕉はそれに更に古典を載せた注釈を加える。近江の春を詠んだ古歌にまで思いを馳せているのである。

   春の海ひねもすのたりのたりかな   与謝蕪村

 意味だけでなく音ものどかそうである。多分遠景には霞がかかって、空と海の区別もつかない。とすると景としてはとてつもなく大きい。「のたりのたり」にいきなり「かな」をつけて終らせる、こんな手法も神業に近い。

   春すでに高嶺未婚のつばくらめ    飯田龍太

 「春すでに高嶺」で切るのかと思っていた。もう春も高嶺まで来ているという意味で。しかし山本健吉氏の解釈は「高嶺未婚」であり、最初人に仲々寄って来ず、高嶺を飛んでいる燕のことだという。多分彼らは未婚だろう。巣づくりは今からだ。それを「だろう」ではなく「未婚」と言い切ってしまったところが良いという。

   春暁のあまたの瀬音村を出づ     飯田龍太

 この句は龍太の住いを知らないと趣が違ってくる。山梨県境川村で、多くの川が笛吹川に流れ込む。「暁」は厳密に言えば「曙」より早い。まだ物の見分けが付くか付かないかという段階らしい。そこで視覚ではなく聴覚を持って来たのが効いてくる。瀬音と一緒に自分も村を出たのであろう。

   春寒に入れり迷路に又入れり    相生垣瓜人

 「馬酔木」に載った「遺稿」から。作者は米寿で病状も一進一退だったらしい。三寒四温の頃、春も迷っているようだが、病気の方も迷っているようだと、自分のことを飄々と詠んだ句である。これだけのユーモアがあれば、多分これは遺稿にはなっていない。

   草よりも影に春めく色を見し     高木晴子

 影に色を見たという、ちょっと虚を突いた句である。その影の色が春めいて見えたというのだからなお更である。陽射しが強くなって影も濃さを増したのかも知れないが、そこまで理屈で考えなくても、詩としては分る。

   春昼の指とどまれば琴もやむ     野沢節子

 普通、「こうしたからこうなった」というのは説明になる。一番俳句としては嫌う結果になる。形はこの句もそうなっている。しかし不思議にそう感じない。私が最初に感じたのは「逆でしょう?」という感じだった。琴を聞いていてその音が止んだ。見ると弾き手の指も止まっている。それを逆にしたのだと思った。もし自分が弾いているとすれば、これも又自分の意志とは関係ないような表現である。だから説明になっていない。「やむ」からいいので、「始まった」ら春昼を壊してしまう。

   紺絣春月重くいでしかな       飯田龍太

   外にも出よ触るゝばかりに春の月   中村汀女

 下の汀女の句は前にも紹介した。これが女性らしい表現だとすれば、龍太の方はやはり男の句だなと思う。良いとか悪いとかではなく、硬く重々しいのと、動的で感情を表に出した句として較べれば面白い。景としては多分似たような情景だろう。

   春雪三日祭のごとく過ぎにけり    石田波郷

 「雪」の稿で「力なく降る雪なればなぐさまず」を紹介した。それとは逆に祭のように降ったというから、慰められたことだろう。それも三日間も降るとは東京では珍しい。彼が自分で出した最後の句集「酒中花」の中の句だが、11年間の集大成とはいえ、やはりベッドの上である。よく見ると波郷には雪の句が結構多い。春の雪なのでいくら「祭りのごとく」降ってもすぐに溶け去ったはずである。「過ぎにけり」にその儚さが顕われている。

   春惜しむおんすがたこそとこしなへ 水原秋桜子

 仏像に対しての句だろうが、秋桜子独特の美の表現である。晩春の時期だからこそ、このひらがなを並べた表現が柔らかくて似合う。意味的には何ということはない。「とこしなへ」などという言葉は先ず使うことはないが、永く変わらないことであり、その祈りでもあろう。

   机置きかへて春色うごきけり   久保田万太郎

 私の部屋は狭い上に机だけは大きい。だから簡単に「置きかえ」ることは出来ない。しかし妻は何かと模様替えが好きで、殆んど意味の無い模様替えを毎日やっている。万太郎の句から思い浮かぶ机は小さな坐り机である。ダイニングテーブルさえ向きを変えれば、何となく雰囲気が違ってくる。まして春の光が降りそそぐ位置での仕事のための机である。昨日と少し春の色が変わって見えても不思議ではない。

   まっしろな猫に睨まれ春の風邪    桂 信子

 前回の梅の句で、梅の香を詠んだものが少ないという意見を青木さんに頂いた。そこで信子さんの句を一つ送ったが、後で考えてみれば、梅はそのもので香を含んでいる。だから余程香りを強調したい時や、香りしかないときに「香」という言葉が必要になる。さて揚句「まっしろな猫」は、すでに夏の気配さえ持っている。「何だ!今時分風邪をひいて!」なんて怒られているように感じることもあろう。実際仲々春風邪は抜けない。周囲から見ると間抜けな風邪かも知れない。

   この道しかない春の雪ふる      種田山頭火

   春の山のうしろから煙が出だした   尾崎放哉

 この2句は、いわゆる自由律の句である。この2人は碧梧桐の流れを汲んでいる。一般にすたれて行った自由律だが、この2人は今でも人気がある。俳句としてというより、短詩としてみれば、よく短い言葉でいい面を切り取り、しかも余韻も残る。いい詩人である。
 下の句は好きだが前に出したので、載せるだけに留める。

   ゆく春やおもたき琵琶の抱きごゝろ  与謝蕪村


2002.03.17