句あれば楽あり ?

テーマ別俳句 冬 一

至遊(しゆう)


 「冬」という文字を使った句は意外に多かった。そこで2回に分けることにする。冬は俳句としては詠み易いのかも知れない。他にも「雪」や「木枯し(凩)」など多く詠まれている季語は多い。中でも冬と付くのが多いのは「冬XX」という季語が多いからだろう。

   冬枯れや平等院の庭の面       上島鬼貫

 蕉風が出来上がる前の俳諧師である。それにしては良い句を詠んでいる。前書きに「宇治にて」とある。宇治と言えば歴史的には色んなことが思い出されるが、平等院はかつて藤原氏が栄華を誇った象徴である。それも古びて侘びしい歴史の影を残すのみである。人生の無常を詠んだ句とすれば、芭蕉の「夏草や兵共がゆめの跡」を彷彿させる、等と書いてきて小西甚一氏の本で始めて知ったが、「冬枯れや」に続く部分はそっくり謡曲「頼政」の中の一節であるらしい。だとすればここでは平家物語の悲運の将、源頼政をも念頭に置いていることになる。上手く組み合わせたものである。

   冬籠りまたよりそはん此はしら    松尾芭蕉

 いつ詠まれてどこに記されているかも知らなかった芭蕉の句である。阿羅野の巻之五に収録されていることを突き止めた。元禄元年ごろの作と見られている。元禄に変わったのが九月で、この年は芭蕉は忙しく旅をしている。そして冬は深川の芭蕉庵で越したらしい。翌元禄2年が「奥の細道」への出発の年で、充実していた頃のはずである。久しぶりに戻ってきた庵で、寄りかかるものといえば柱ぐらいしか無い。その柱に「この冬も世話になるよ」と囁いている気分である。

   冬菊のまとふはおのがひかりのみ  水原秋桜子

 いきなり「俳句」になってからの句に行く。一茶には「冬」とつく句が少しはあるが、蕪村には見当たらなかったのでこういう結果になった。掲句は耽美主義的な句である。外からの光ではなく自分が発するように見える光をまとっている白菊(でないと感じが出ない)という発想がいい。ちなみに冬菊は寒菊とは違い大ぶりの菊だという。そうでないとやはり感じが出ない。一種印象派の絵を彷彿とさせるものがある。

   大仏の冬日は山に移りけり      星野立子

 さっきまで大仏に当たっていた冬日が、もう高い山しか照らさなくなっている。鎌倉だろうから、山と言ってもそんな高いものではない。それでも大仏が翳ってしまったことに軽い驚きを見せている。立子の中では好きな句である。

   冬晴の青潮もよし石蕗もよし     中村三山

 山本健吉氏の歳時記に見つけた句だが、大した鑑賞文は載っていない。京大事件以後句を詠まなかったので「遺句集」が初めての句集になった。空の青、海の青の中に一点の黄色の石蕗を置いた。心憎いばかりの構成美である。この後急激に句風を変えて行ったというが、その句は手許にはない。

   冬麗の微塵となりて去らんとす    相馬遷子

 これは辞世の句らしい。そう言われて読むとなるほど辞世の句としてぴったりの句になっている。ここまで覚悟が出来た上で去ることが出来れば思い残すことはあるまい。

   思はずもヒヨコ生れぬ冬薔薇    河東碧梧桐

   堕落したのだ我が手冬瓜      河東碧梧桐

 わざと2つ並べてみた。ヒヨコの方がまともな句を詠んでいたころの作で、以後自由律の世界へ入って行ってから詠んだ句が冬瓜の句である。句の内容自体にも、前の句に生活への慶びのような気分が溢れているのに対し、後の句にはもう諦めに近い自虐的な匂いが満ちている。そしてこの天才は俳句界から去って行くのである。

   初冬や竹切る山の鉈の音       夏目漱石

 漱石は蕪村流の佳句を沢山詠んでいる。そのために森本哲郎氏の「月は東に」という本では、まるで漱石が盗作をしたかのような印象を与えてしまう。確かに蕪村を勉強したには違いない。盟友の子規が蕪村の句を高く評価したのだから。この鉈の音は冬だから良い。多分山いっぱいに谺しているのであろうが、それも乾いた音で響いてくる。

   大石や二つに割れて冬ざるる     村上鬼城

 冬の寒さを表すのに、大石が二つに割れるという表現を持って来たところが感覚が新しい。直喩的な象徴句の多い鬼城だが、これは少し趣を異にしている。夏が蝉の声が岩にしみ入るのなら、冬は岩が割れるということか。冬ざるるとは冬に風物が荒れさびれた様を言う。

   冬蜂の死にどころなく歩きけり    村上鬼城

   ふたたび見ず柩の上の冬の蜂     山田みずえ

 上の句は何度も紹介したので解説は入れないが、みずえさんの句も象徴という意味では同じような発想であろう。柩の中の人も「ふたたび見」なかったのであろう。冬の蜂は沢山詠まれているが、冬の蝶という表現では少ない。殆んどが凍蝶になっている。

   何求めて冬帽行くや切通し      角川源義

 多分他人の歩いていく様を詠んだものであろう。だから何を求めて歩いているかの答は分らない。切通しというところから鎌倉だと思われるが、我々も横浜・鎌倉への吟行を終えたばかりなので、親しみを感じてしまう。これも目的の分らない(と詠み手は思っている)事務的な歩きには冬が似合う。散歩は立派な目的を持っており、散歩というと冬らしくなくなる。

   鷺とんで白を彩とす冬の海      山口誓子

 これを見てはっとした。白はモノクロではないのである。「白を彩とす」とは上手い。これは鷺が青い海へ出たのだから、色彩的にははっきりする。私が今苦心していたのが、雪景色の中の白い墓石を見た印象をどう表現しようかということだった。どちらも白だが白が違う。白にも色んな白があるということを言いたかった。さて今から出来るかどうか。

   人間(ジンカン)にまだ未練あり冬薔薇   福山至遊

 「葦−第1集」、つまり6年前に出した句集の中に収録した句である。この6年余りの間に成長したものやらと、つい愚痴が出てくる。全部自己責任だが。