句あれば楽あり 2

俳句の楽しみ方

至遊(しゆう)


 俳句の楽しみは何と言っても仲間の楽しさである。いい仲間を得れば、喩え自分の俳句がけなされようが、その考え方を闘わせるのが楽しい。しかも1句で何度も楽しめる。

1.推敲する楽しみ
  これが前回も述べた、退屈なんてどこの世界?と言わせる、自分との格闘である。次々に新しい言葉が浮かんでは消える。その中から一番いい出来だと思うものを選び出すのも結構 な知的遊びである。例えば曼珠沙華ひとつをとってみても、今年だけで24句詠んだ。

   川に向かい坐れば誓子曼珠沙華
     誓子の「つきぬけて天上の紺曼珠沙華」の句に触発されて土手まで見に行った。
   曼珠沙華神代のままの形して
     そんな気がしませんか?丁度古事記を読んでいたので。今の所俳句としては沒。
   苛立ちは秘めしままにて曼珠沙華
     唯我独尊で他人にはイメージが伝わらない種類の句。再考を要す。

2.句会の楽しみ
  愈々、自分で選んだ句を人に披露する場である。と同時に人の句の選もしなければならない。ただ、この句会のシステムは非常にフェアなシステムで、選をする時点では誰の句か全く解らないようになっている。そのシステムの内容については、スペースの関係で説明はしない。今は、3ヶ所で毎月句会に参加している。ここで仲間ができるので、先ずはどこかの句会に顔を出すことである。どうしても時間の都合がつかない時は投句という手がある。

   分針のカチリと動く木の芽どき  竹橋葦の会にて(勉強会仲間)
   秋深む星の大きなゴッホの絵   船橋千葉研究会にて(道場荒し?)
   秋霖や匂いのしない防虫剤    大森鈴の会にて(元の職場仲間)

3.吟行句会の楽しみ
  句会には違いないが、旅行つき句会である。遠近とりまぜて、あちこちに行く。吟行のいい所は、日常とは違う経験ができ、従って発想も違ってくる所である。やはり毎日の通勤路では刺激に乏しい。また吟行句は旅行記代わりになる。不思議と句を詠んだ情景は頭に残るものである。ただし皆が同じ経験をするので、多少点が甘くなりがちである。旅を終えてからじっくり見直す必要がある。

   海鳴りやテトラポットの下は冬   伊豆高原八幡野漁港にて
   高原の空気の固さ朝の萩      八が岳山麓にて
   柿熟す小さき墓の香絶えず     京都落柿舎(去来墓前)にて
   黍飯の美味し戦中過去になる    吾妻渓谷にて

4.活字にする楽しみ
  至遊という俳号を持ったのも、葦の会で第1号の合同句集を出そうということになったのがきっかけである。それ以来俳句仲間は誰も福山とも秀雄とも呼んでくれない。至遊さんである。この会の合同句集もすでに第3号まで発行した。俳句の質はともかく、本になるというのは嬉しいものである。必ず誰かに送り付けたくなる。

  2000年に入ってから、葦の会で「パスカル」という季刊の俳誌も発行するようになった。「葦」だからパスカルという単純な洒落である。提案者が私なので、今のところ編集責任も負っている。ここには遠隔地からも投句や投稿が来る。仲間の輪が広がると同時に、資料が整理され一石二鳥である。

    竹の秋薄いページの同人誌   申牛(葦)