句あれば楽あり ?

他人の句の添削

至遊(しゆう)



 推敲と添削はよく対にして語られる。推敲の例では芭蕉の例がよく挙げられる。例えば
最初は

   淋しさの岩にしみ込せみの声   次に

   さびしさや岩にしみ込蝉のこゑ  そして

   閑さや岩にしみ入蝉の声

となったと言われている。最初は「しみ込む」のは「淋しさ」だった訳である。次には「蝉のこゑ」がしみ込むことにはなるが、まだそこに「さびしさや」という主観的な感情が入っている。勿論「閑さや」と言っても、蝉の声の中だから本当に「静か」なのではなく、これも主観的ではある。しかし「閑さ」という言葉自体は客観的であり、感情ではない。

 「おくのほそ道」の中では

   五月雨を集めて凉し最上川 → 五月雨をあつめて早し最上川

   涼しさや海に入れたる最上川 → 暑き日を海に入れたり最上川

がありその他にも

   ほととぎす宿かる比の藤の花 → 草臥て宿かる比や藤の花

など有名な句の原句が分かっている。推敲は自分で自分の句を見直すのだから、これは誰でもやることで、芭蕉の場合はそれが徹底していたと言える。

 だけど添削となると、他人の句を直す訳だから話は違う。添削をする側は作者が何を主眼として、どういう状況で詠んだかをよく理解してからでないと、作者の意図を曲げてしまうことになる。最近読んだ例を「名句に学ぶ俳句の骨法(上)」から引いてみると。

   秋雨が料亭の芝生濡らしだす (辻田克巳) → 秋雨が料亭の芝濡らしそむ (山口誓子添削)

 辻田さんは料亭を語呂を合わせるために(タバン)とルビを振ったとのことだが、料亭はちゃんと字のごとく読ませて、芝生を芝にすればいいとの添削である。「濡らしそむ」にしたのは誓子の俳句がそうだったということもあるが、料亭とちゃんと読ませればこの方が味が出てくる。これは口語調で詠むことの多い私でも賛成できる。

   寒月や皿より棄てし魚の骨 (大串章) → 寒月や皿より棄つる魚の骨 (大野林火添削)

 「棄てし」という過去形を「棄つる」という現在進行形にしただけである。俳句は今という瞬間を詠むものとはよく言われるが、そうは言っても昔のことを詠みたくなることもある。ただこの場合は過去形にすることによって、魚の骨はもう棄てられていたのが、現在進行形にすることにより棄てているという動きが出て来る。

 これらは成功例として、失敗例としては

   樹の洞に託す卵や聖五月 () → 樹の洞にも託す卵や聖五月 (中村草田男添削)

が挙げられていた。勿論 鍵和田さんは失敗とは口が裂けても言わない。他の対談相手が、それは原句の方がいいと言い出したものである。「も」を入れることで、樹の洞にだけでなく、他にも卵はあることがはっきりする。しかし科学ではないし、その辺の推定は誰でもつくことだから、リズムを崩してまで「も」を入れる必要はないというのだ。私がもし「も」の入った方の句を出したら真樹先生はむしろ削られるだろう。他のどこにあるのかが曖昧なままより「樹の洞」に焦点を絞った方がいいからである。草田男という人の句には結構字余りが沢山ある。余りそれを気にしない人だったとみえる。自分がそうだから、そのように直してしまうということは、添削者としては気をつけないといけないことだろう。鍵和田さんにしても完全に納得したわけではなく、句集に原句で載せて先輩に怒られたりしたそうだ。怒る方も怒る方だが。

 句の善悪の判定も自分の力次第で変わってくる。この本を読んでから、昔気になった本を取り出して読みなおしてみた。鷹羽狩行氏の「俳句の上達法」という本で、初心のころ読んだら、添削後の方が殆んど改悪に見えたからだ。例えば

   出稼ぎの父に代わりて里神楽 → 出稼ぎの父に代わりて神楽笛

 里と付いていた方が田舎らしさが出ていいと当時は思っていた。でも出稼ぎで田舎であることは常識的に分かる。それより神楽に参加しているのか、見物しているだけなのかを明確にした方がいい、という理屈は今では分かる。ではこの本から他にいくつか取り上げて見る。

 先ず当時改悪として×を付けていたもので今もそう思うもの。これからは添削の難しさを味わっていただきたい。?

   仏壇の奥へもこぼれ小米花 → 仏壇の奥にこぼれて小米花

 一般に「も」という言葉は状況を曖昧にする。だから余りお薦めは出来ないし、作句の注意事項の一つと考えてもいい。しかしこの場合は狭い仏壇である。小米花をそんなに奥まったところに活けてあった訳ではないだろうから、「奥」以外のところにも当然こぼれただろうと推定できる。もし奥にこぼれたものだけを詠みたければ「奥にこぼれし」だろう。

   段畑の風をつなぎて蕎麦の花 → 段畑の風でつながり蕎麦の花

 理屈は添削の通りである。でも理屈では詩は面白くない。風は次々に吹いてくる。その度ごとに蕎麦の花が揺れる。段畑には第一、第二、第三の風による波がリズムよく繋がって見える。風という眼に見えないものを、蕎麦の花が繋いでいるという風に、視覚で捉えた面白さを生かすべきだろう。添削句では蕎麦の花が受身の状態になってしまう。

   猫の子の眼にみつめられ捨てきれず → 猫の子にみつめられゐて捨てられず

 「捨てきれず」の方が感情が伝わるだろう。確かに「眼に」は余分ではある。重複の表現を嫌った結果、下五まで変えてしまうのはどうかと思う。「猫の子にみつめられゐて捨てきれず」ならいい。

   川風に頬をひやして雛流し → 風に頬ひやして戻る雛流し

 原句では今雛流しをやっているところである。それが流し終わって戻るときの句になっている。原作者の原風景を変えてしまってはいけないと思う。

   毛虫焼く心中強きもの失せて → 身のうちの強きもの失せ毛虫焼く

 毛虫を焼き始める時には「強きもの」があったと見たい。焼いているうちに何か張りつめていたものがなくなってきたのである。毛虫を焼くには一種の残酷さが必要である。「強きもの失せ」てから毛虫は焼けないと思うのは独断か?

   網棚にリュック満載夏来る → 網棚にリュック満載終戦日

 「終戦日」と入れたことで、我々の世代には急に食料品買出しの光景に変わってしまう。作者は多分夏山登山を詠みたいのである。季語を変えるのは細心の注意が必要。

   足す水にしなを作りて水中花 → 注ぐ水にしなを作りて水中花

 「足す」と「注ぐ」の違いは、もとは水があるところに追加するのか、ゼロから入れるのかの違いだとみた。水中花がしなを作るには水がなければならない。少しの水を足すだけでも、水中花は揺れる。その様を原作者は詠んだとみた。だからわざわざ字余りにしてまで「注ぐ」にした意図が分からない。

 次にやはり前に読んだ時には改悪だと思ったが、今みると良くなっていると思える例を並べてみる。自分が力がついたと言える部分もあるが、「俳句の常識」に嵌っている危険性もある。

   みちのくの粘り強さのとろろ汁 → みちのくの粘りの強きとろろ汁

 原句では「粘り強さの」がどちらに付くのか不明瞭。添削後でははっきり「とろろ汁」に付いている。作者は両方に掛けたいのだろうが、当然読者も「みちのく」とも連想を働かせて読む。その連想を引き出すところが大事なのだ。

   辛党の父へも供へ笹粽 → 辛党の父に供へて笹粽

 これも「も」の問題である。他に供える相手は居なさそうである。多分自分も食べたがと言いたいのだろうが「供へ」の前に「も」が来ると、別にも供える相手が居ることになる。甘党の母にも?という連想には無理がある。ここでは「も」がない方が情景がはっきりする。

   落着かぬ高さに風船かづら揺れ → 落着かぬ高さ風船かづら揺れ

 「高さに」とすることにより、色んな高さに風船かずらが(まるで風船のように)動き回れる印象を与えてしまう。実際には固定された高さで揺れるはずなので、「高さ」と切った方がいい。切ることにより「落ち着かぬ高さ」に居るのは実は作者かも知れないという想像もできる。

 私も時々初心者の句に頼まれて手を加えることがある。心せねばならない。