句あれば楽あり ?

好きな俳句 四

至遊(しゆう)



 今回の好きな俳句シリーズはこれが最終回になるが、実際には紹介したい句は山ほどある。特に夏目漱石の句を紹介する機を逸した感があり、別の機会にまた何か書きたい。実際に漱石は優れた句をたくさん詠んでいる。

 最終回だから、私の一番好きで、自分でも作りたいと思っている傾向の句を紹介したい。

  海に出て木枯帰るところなし      山口誓子

  ばった跳ね島の端なること知らず    津田清子

  薔薇の園引き返さねば出口なし     津田清子

 この三句には共通した思いが感じられる。ひょいと思わずしてしまったことが、取り返しの付かない結果を招く、そんな自戒なのか、太平洋戦争批判とも取れるが、他人を批判しているのかはともかく、戻れない状況を示唆している。重信房子もそうだったのかなぁと思ったりする。ただ第三句だけは、それに気づいている。出口を見つけられるかどうかは分からないが。

  バスを待ち大路の春をうたがわず    石田波郷

 波郷は最近人気らしい。たしかに細やかな神経の行き届いた句が多いような気がする。最近80%と言われる女性の俳句愛好者には、モテる俳句かも知れない。この句の状況は、私が自ら毎年体験している。柴又街道に面したバス停の前は学校になっていて、先生に文学好きな人が居られると見えて、季節感あふれる植物を植えてあり、その説明も古典を引用しながら飽きさせない。尤も毎年「春は曙」だが。掲句の時期はまだ早春の筈である。まだコートを着ながらも、ベニカナメは赤い芽を吹き、芽柳が緑を帯びてくると、もう春を疑うわけには行かない。

  しんしんと肺碧きまで海の旅      篠原鳳作

 「こんな句のどこが良い!」と私の俳句仲間の一人がある所に文を載せたところ、「肺を病んだことのない貴方には分からないでしょうね」という指摘があったという。論客でもあるその仲間も、流石にはっとしたという。では鳳作の境涯を知らなければこの句は鑑賞出来ないかというとそうではない。今の都会の空気はどうみても濁っている。一度自分の肺を洗濯するような、こんな旅に出たいという憧れはある。

  山鳩よみればまわりに雪がふる     高屋窓秋

 いろいろと論議の的になった作でもある。「山鳩よ」と呼びかけになっているところがまず眼を引き、不思議な情景を描き出している。「みれば」というのは、誰が見るのか、山鳩なのか作者なのか。私は山鳩と考えたい。強いて言えば自分が山鳩になり切っているとも言える。窓秋の若いころの作で、芭蕉の「わび・さび・しおり」の世界からも、虚子の「花鳥諷詠」の世界からも離れている。完全に抒情詩である。

  悲しさの極みに誰か枯木折る      山口誓子

 人間何かの極みには無意識に何かをしていることがある。喜んだらガッツポーズが自然と出てくるかも知れないが、悲しみの極みではこんなワンパターンな行動は思い浮かばない。ここでは枯木だからなお良い。何かしないではいられない衝動が何の変哲も無い、枯木を折るという行動に走らせる。「誰か」が枯木を折っているのであり、自分ではない。多分集団全体が悲しみの極みにあったのだと思う。そのうちの一人が誰かであり、自分とも悲しみを共有している人である。

  寒卵二つ置きたり相寄らず       細見綾子

 私の前に紹介した「冬鴉呼び合いながら近づかず」と似ているのか似ていないのか、自分でも分からない。私の句はその気があれば近づけるのであるが、綾子の句の場合は物理学的には、他の力が加わらないと寄るはずの無いものである。寒卵は寒中に産み落とされた鶏卵で、栄養価が高く、長持ちするというので珍重されたという。この貴重なものを綾子はやはり人になぞらえたのだと思う。とすれば冷えた人間関係になり、世相を象徴したものと言える。

  紫陽花剪るなお美しきものあらば剪る  津田清子

 人の欲、美への憧れがないまぜになっている。剪れば自分のものになる。美しいものは全部一人占めにしないと気が済まない本性は、誰にでも潜んでいると思う。女性が紫陽花という派手な花に託してこう詠むと、一種艶っぽくかつ壮絶なものを感じる。

  千里飛び来て白鳥の争へる       津田清子

 時々、大恋愛の末に結ばれたと思ったらすぐ離婚してしまうカップルが居る。同じ苦労をしている時は戦友でも、その苦労がなくなると二人を結び付けていたものが無くなるのだろうか。この句も、何故ここまで千里を一緒に飛んできて、ここで争うの?という投げかけである。そう言えば政界でも若手の頃は同志でも、総理の座を争う頃になると、敵になったりすることがある。助け合ってこその二人だったのにと言いたくなることもある。

  自画像の背後の起伏黒揚羽       若泉真樹

 「自画像の背後の起伏」が、自分の隠された過去や心の軌跡を暗示する。先生は黒揚羽が好きである。ただこの場合の黒は、不幸をもたらす何かを象徴している気がする。肉親を続けて亡くされたころの作かも知れない。やはり俳句仲間に、書家も居て、先生のために腕を振るって書いてくれたこの句の書が、今は私の書斎にある。お宅にお伺いしたとき、句も字も一遍で気に入ったので褒めたら、下さったものである。その書家の方にも、額が移動した旨は礼儀上お伝えした。それにしても困った弟子である。