句あれば楽あり ?

夏目漱石の俳句(名句編)

至遊(しゆう)



 先ず森本哲郎氏が挙げられている句をいくつか取り上げてみる。やはり私とは感覚が違うので、同意できないものが多く、従って数も少なくまた完全に感服という出来でもない。また森本氏はことさらに俳句に関しては解説や感想を述べておられない。作句の時期も私には分からないものが多いが、勝手に解釈する。

   秋風や屠られに行く牛の尻

 牛も何かを感じて嫌がっていることだろうと思う。そんな図が浮かんでくる。やはりこれは「尻」だから良いのだろう。「眼」では情が面に出すぎる。

   何事ぞ手向けし花に狂う蝶

 蝶にしてみれば当たり前の行動をしただけである。人が勝手に、これは亡くなった人のための花という意味付けをしてしまっただけである。男から見ると、眠っている人は生前よほどの美人で、男を狂わせたのではないかとの推定をしてしまう。

   作らねど菊咲きにけり折りにけり

 菊は強い植物である。伸びすぎて倒れたりもするが、それでも咲き続ける。その生命力に感動したのだろうが、私に言わせると「折りにけり」は無い方がいい。目的もなく実際には折ってしまったのかも知れないが、「菊咲きにけり」の感動がそれだけ薄れてしまう。まだ初心のころ、29歳の時の作と聞く。

   罪もうれし二人にかかる朧月

 蕪村に「御手討の夫婦なりしを更衣」がある。私はこの蕪村の句が好きである。本来なら御手討にされても仕方のなかった、今流に言えば「不倫」を許されて、ひっそりとつましく夫婦として暮らしている2人。そんな2人にも季節は分け隔てなく巡ってくる。更衣も人並みにする。勿論更衣は1つの象徴であり、何とか人並みに暮らしているのである。しかも幸せに。たった17文字で映画のストーリーができあがるほどの連想を誘う句である。これに漱石も感動したに違いない。更衣を朧月に置きかえてみたが、やはり蕪村には敵わないか。

 よく見ると「作らねど」の句が一茶調に近い他は、蕪村から抜けきっていない。森本氏の意図が漱石と蕪村の関係の解明であったことを思うと、まあ仕方がないかも知れない。

 ここからは自分で選んだ句である。すべて大病後の句であることは、別に偶然ではなく、自分の人生観に響く何物かを持っているからだと思う。

   ある程の菊抛げ入れよ棺の中

 親交のあった大塚保治の夫人楠緒子さんの死を悼んだもので、自分も修善寺で生死の境を彷徨ってやっと東京に帰ってきての作である。生に対する思いは、自分の体験を通して強いものになっていたと思われる。「思い出す事など」に入っているし、山本健吉氏も漱石の代表句の1つとして挙げている。私も父が逝ったときに「寒菊も入れつくしなお父軽し」と詠んだ。この漱石の句の影響が無いとは言えない。

   腸に春滴るや粥の味

 これも「思い出す事など」に載っている。小西甚一氏の高い評価を得ている。この句と大塚夫人を悼む前の句と、どちらが先に出来ていたかは分らないが、「思い出す事など」ではこの句が後に出てくる。ただし、情景は勿論、修善寺で入院中のことのはずだ。粥を許されて「世の中にこんな旨いものがあったか」というほど感激している。同じ思いまではしなくても、似たような経験は皆あるだろう。だから我々にもこの気持が痛いほどよく分るのである。実際には秋に詠んだ句だが、やはり春が似合う。

   別るるや夢一筋の天の川

 何を詠んだのだか漱石本人にも定かでないらしい。吐血したとき、たまたま松根東洋城が同じ宿に宿泊していて、その後も度々見舞ってくれたので、そのときの別れのことが連想として湧き上がって来たのかも知れないという、他人ごとのような説明(「思い出す事など」)である。「天の川」と「別れ」や「一筋の」は付き過ぎかも知れないが、この大病の折、人と別れるのはかなり心細かったことだと思う。その心情はよく出ている。

   秋の江に打ち込む杭の響かな

 「生き返って」十日ばかりたって、ふと心に湧いた句だという(「思い出す事など」)。秋の空、広き江、それに杭を打ち込む響きが呼応したのを憶えているとのこと。修善寺では広き江も無いと思うが、まだ朦朧とした意識の中で、杭を打つ響きは腹にこたえたことだと思う。実景はともかく、秋の空とそこに吸い込まれるような響きを取り合わせたのがいい。

   肩に来て人懐かしや赤蜻蛉

 半藤一利氏が前2句とともに挙げておられる句。同じ明治43年の句である。命あるものが側に来たのがよほど嬉しかったに違いない。松山や熊本時代に較べ、知識をひけらかすでもなく、感じたままを嬉しげに詠んでいる。句境の変化より先に心境・人生観の変化があったはずだ。

   朝寒や生きたる骨を動かさず

 この句は以前取り上げた。「余は、生まれて以来、この時ほどに吾が骨の硬さを自覚したことがない。その朝、眼が覚めたときの第一記憶は、実にわが全身に満ちわたる骨の痛みの声であった」(「思い出す事など」)という。生きた骨だが、それを観察している自分がいる。勿論吐血後、意識を取り戻して間もなくの作。生きていることを筋肉ではなく、骨で感じているところが、常人とは違う。

   逝く人にとどまる人に来たる雁

 修善寺から東京の掛り付けの胃腸科病院へ戻ってきて、始めて院長が亡くなっていることを知らされる。治るのが当たり前と思うのは生きているからの悪度胸で、天幸に恵まれて生きて帰れたことを痛感する。自分のありがたさと、人の気の毒さを同時に知る。院長への追悼と同時に自分が生きて戻れたことへの感謝の気持を出そうとしたのかも知れないが、その背景を知らないと、無常観の表明に見える。まさにこの世は「来て」「留まって」「行く」仮の宿りだから。

   風に聞けいずれかさきに散る木の葉

 死というものを嫌が応でも感じざるを得なかった大病のせいもあるだろうが、実は修善寺で入院している間に、大水害があったのである。そのため見舞いに来る人も一時は来れずにいたことを後になって知る。本郷の知り合いががけ崩れで、軽傷で済んだものの命からがら逃げ出したことも知る。自分はその間何も知らずに、修善寺でのうのうとしていた。本当に運命は分からない。ひょっとすれば、元気なくせに自分より先に散る木の葉があったのだと痛感する。

 漱石の俳句に意外に嵌ってしまった。これほど前半と後半で俳句の質の変わった人も珍しいのではないだろうか。考えてみると小説も同じ径を辿っている。だから小説、俳句を問わず自分のその時の気持を正直に写した人なのだということを痛感する。要するに人生経験を積むと同時に人が変わって来たのだが、それが大吐血という事件で極端な変わりようをしたのだと言える。

 結局私の選んだ好きな句は、この大吐血後の「思い出す事など」に載っている句ばかりになってしまったが、実際には若い頃の句にも好きな句はある。重複を避けながら私の手持ちの中から選ぶと、こんなことになってしまった。

 もうひとつ、この吐血後の句には、蕪村色がない。若い頃は頭で詠んでいた俳句が、自分の大病以後は自分の五感で捉えた句に変わっている。オリジナリティーが出てきたと言える。私もまだ頭で詠んでいると先生によく言われる。大病していないから仕方ないか。

以上