句あれば楽あり ?

夏目漱石の俳句 四
(蕪村との関係)

至遊(しゆう)



 ここは主として先述した森本哲郎氏の「月は東に」から取り上げる。従って漱石ファンには怒られるかも知れない。しかし本当のファンはこんな本には動じないとみえて、従妹の漱石命とでもいうべき、元文学少女にこの本を紹介したところ、「あ!あれね。読んだよ。あれはこじつけよ」と何も気にしていない。

 もっともこの本の狙いは、「草枕」が蕪村の世界であることを証明しようとしている。そして皮肉なことにこの本の解説者に選ばれたのが前号まで徹底的にお世話になった半藤氏である。その半藤氏に言わせると、漱石俳句の2/3までは小説家になる前、すなわち熊本時代までに詠まれており、その頃蕪村に限らず、古典趣味と言える句を沢山詠んでおり、それらをまた「草枕」の中で使っている(必ずしも俳句という形でなくても)というのである。

 先ず森本氏が挙げている類似性を俳句の面から述べると

   春雨や暮なんとしてけふも有   蕪村

   春色や暮れなんとして水深み   漱石(雨を水に替えた?)

   
牡丹散てうちかさなりぬ二三片  蕪村

   二三片山茶花散りぬ床の上    漱石(牡丹を山茶花にし、床に散らせた)

 数ある蕪村の名句の中でも有名な句であり、これでは相手が悪い。蕪村以上の句にはなりようがない。

   
絶頂の城たのもしき若葉かな   蕪村

   絶頂に敵の城あり玉霰      漱石(漱石好みの講談調に)

   
能(よく)きけば桶に音を啼田螺哉 蕪村

   よく聞けば田螺鳴くなり鍋の中  漱石(桶を鍋に置きかえ)

 これらは、並べてみるとなる程漱石は蕪村に題材を借りているとしか言いようがない。この他にも嫌になるほど例が挙げてある。でもそれらの中には

   痩脛の毛に微風あり更衣     蕪村

   更衣て弟の脛何ぞ太き      漱石

   
秋風や酒肆に詩うたふ漁者樵者  蕪村

   春もうし東楼西家何歌ふ     漱石

などになると、従妹のいう森本氏の「こじつけ」に似たところもある。しかし全般に似た句が多いことも確かである。前に書いたように、子規を通じて漱石が蕪村を知ったとして、何しろこの2人は漢籍に強かったり、日本の古典に興味があったりと、元々似ているところが多い人物である。漱石としてはそこに蕪村の句を紹介されたら、免疫力のない人のように容易に蕪村病に罹ったとしても不思議ではない。

 ただ半藤氏としては血縁の関係上100%参ったという訳には行かない。そこで何も蕪村に限らず、色んなものを詠んでいるよという抵抗がある。例えば

   短夜を君と寝ようか二千石とらうか

というのは俗謡から来ているし、中国古典は今までも挙げてきたようにきりが無いほどある。

   ものいはぬ案山子に鳥の近寄らず

は「老子」の中の「知者不言、言者不知」を踏まえている。更に

   払へども払へどもわが袖の雪 (前回紹介)

のように謡曲に発想を求めたものもある。そして俳人では

   涼風の曲りくねって来りけり   一茶

   凩のまがりくねって響きけり   漱石

他数句を挙げておられる。要するに俳諧は遊びでありアイデアとレトリックに尽きるという俳句観に従って、「芸の限りを駆使して奔放に無頼に遊んだ」ということになる。蕪村への比重は確かに大きかったけれども、広範囲に遊んでいるのであり、漱石=蕪村ではないという趣旨になろう。

 ただ現代では、古歌や漢詩ならともかく、同じ俳句という世界でこれだけ「ふまえた」句を発表することは出来ないだろう。類句・類想はまるで特許権を侵害したごとく非難される時代である。たった17文字で、誰にも詠まれたことのない句を果たして我々は詠んでいるか、正直のところ分らない。時には過去の自分の句と類句になってしまうことさえある。先生には「遠景」という言葉を使っただけで「これ至遊さんじゃない?」と言われたことがある。憶えている限りでは2回しか使ったことが無いのに。

   遠景の白鷺歴史の人柱 (信州別所温泉への吟行の折、数多い溜池にまつわる話を聞いて)

   遠景の船動かざり草紅葉 (紀州吟行で本州最南端の地に立って)

 やはり「遠景」に接するのは吟行の時ということか。これらは全く発想も違うが、私の句とすぐ読まれるのはまずい。仲々遊び難くなったものである。

 漱石の場合は俳句の古典も漢詩と同様に、それを一ひねりして句にしてやろうという気があったに違いない。本歌取りの手法である。言うならば熊本時代までの漱石は天真爛漫なのである。いわゆる漱石の名句と呼ばれるものは、小説家として名をなしてからのものに多い。特に修善寺での大吐血以降、人生を見詰める目が深くなっている。次回は漱石の最終回として、それらを紹介したい。