句あれば楽あり ?

夏目漱石の俳句 三

至遊(しゆう)



 熊本の後半を紹介する約束である。いわゆる有名な句はないが、そこそこ面白い。俳句としてはイマイチでも漱石という名前で何とかなる。

   行く年や猫うずくまる膝の上

 将来「我輩は猫である」を書く人の猫の観察だから確かなのだろう。それとは別に当時、芸者や遊女を指す言葉として「ネコ」という呼び名が使われていたという。確かに明治の俗謡に「ネコじゃネコじゃとおっしゃいますが、ネコが下駄はいて三味もって、絞りの浴衣で来るものか」というのがある。これが芸者なら急に色っぽくなるのだが。これは多分半藤氏の読みすぎ。

   旅にして申訳なく暮るる年

 明治30年の暮から31年の正月にかけて、熊本市郊外の小天(おあま)温泉でゆったりと過ごしたらしい。その前年に多くの客が訪ねてきて閉口したからだという。では何に「申し訳」ないかというと、どうも奥さんを置いてきたらしい。自分ひとりの逃避行なのであり、すでに新婚2年の奥さんを放ったらかしなのである。もっともこの旅が「草枕」の下敷きになっているらしい。許さなければ致し方ないか。

   温泉や水滑かに去年の垢

 これもその小天温泉での作である。「温泉水滑らかにして」と言えば白楽天の長恨歌である。「草枕」の中でも白楽天を登場させている。確かに物理的には漱石が去年の垢を落としているところだが、傍に楊貴妃か那美さんが居るのかも。もしかするとそれが前の句の「申訳なく」だったのかも知れない。

   胡児驕って驚きやすし雁の声

 胡児と言えば匈奴か何かの男であろう。しかし半藤氏はこれを日本に置き換える。平家である。富士川の合戦で鳥の羽音に驚いて総崩れになった話は有名である。平氏も驕り過ぎたからこんなことになったのだよと。こんな解釈をされて、天国の漱石先生は喜んでいるか怒っているか分らないが。

   相撲取の屈託顔や午の雨

 熊本へ相撲の巡業が回ってきた時の作らしい。「屈託なく」とはよく言うが「屈託」だけでは最近は仲々使わない。そこで広辞苑を引いてみると@くよくよすることA精気を失っていること(各々一部のみ引用)とあるが、Aの意味で「屈託した顔つき」という例語が載っている。雨で休みになったから喜んでいるのではなく、ぼんやりしているのである。巡業と知るまでは、黒星続きの相撲取かと思っていた。まだ下っ端で午頃にはもう取り組みを終え(勿論負け)て出て来てみたら外は雨という情景はいかが?

   逢う恋の打たでやみけり小夜砧

 砧の音はよく詩人の心を打ったらしい。李白の詩にも「万戸衣を打つの声」という一節がある。もっともこの漱石先生の句は、恋人に逢うために砧を打つ仕事を放ったらかして出かけてしまった娘を詠んでいるから、切々たる心情どころか開けっぴろげの明るさと面白さを持っている。古典の持つ意味を逆転させたもので、俳諧的と言えるかもしれない。

   秋の日のつれなく見えし別かな

 「あかあかと日は難面(つれなく)も秋の風」という芭蕉の句をすぐ思い浮かべる。ただ「秋の風」が無いだけ、救いもない。そこに別れとくる。誰と別れたかは知らないが、「つれなく」見えた程だから「じゃ、また明日!」という簡単な別れではないはずである。

   柳散り柳散りつつ細る恋

 柳は万葉の昔から男女の慕情を示すのによく使われる。それは京の都の大路が柳並木だったので、京に居る人を偲んでというところから来たらしい。とすれば「柳散り」を2回も繰り返したのは、度々振られたのか、それとも何年も都へ戻れずに、昂ぶっていた恋心も薄れてきたという意味か。でもどうしてこんな時期に恋だの別れだのを詠んだのか。新婚さん!

   払へども払へどもわが袖の雪

 実景は大分県の耶馬溪に遊んだ折の句である。日田の町に降りる時に大雪に悩まされたらしい。そこで下手な、習いたての謡曲を思い出す。「鉢の木」である。例の佐野源左衛門が時頼とは気づかずに、暖を取るために普段大切にしている鉢の木を燃やし、これが後の出世物語になるのだが、川柳の題材も多く提供している。雪に悩む旅の僧時頼の「袖なる雪を打ち払い打ち払い」に自分の身をなぞらえているのである。

   光琳の屏風に咲くや福寿草

 福寿草は旧正月に咲く花で北関東が有名だが、寒冷地に自生するものらしい。しかも東京では当時正月には福寿草を飾るのが常であったらしく、今のクリスマスのポインセチアのようなものだったのだろう。しかし熊本にはその風習はない。そこで東京を偲んで詠んだ句ということになる。ただ屏風に咲く福寿草が季語なの?と難癖をつける人にはもってこいの素材かも知れない。

   鞭って牛動かざる日永かな

 馬は曳くが牛は追うというのが常識である。しかし鞭打って動かない牛には人間の力ではどうしようもない。でも幸い日永である。焦る必要もない、という牛とゆっくり格闘している光景である。半藤氏はここから牛肉の話にまで飛ばされるが、これは無理があろう。確かに「坊ちゃん」「三四郎」で牛肉は出てくるが。むしろこれこそ蕪村の文人画の世界と考えたい。

   粗略ならぬ服紗さばきや梅の主

 茶の湯という以外には半藤氏の解説は全くない句である。だけど好きな句である。「粗略ならぬ」という否定形で、苦虫を噛み潰したような、厳格一辺倒の主でもないことを表わしている。すなわちにこやかに、ただし礼に叶ったやり方で主は客をもてなしているのである。その主が梅の主なのである。前にも梅の本意(ほい)として述べたことがあるが、梅からその主をゆかしく思いやるというところがあり、絶対に悪人や業突く張りではないという前提がある。

   梅の詩を得たりと叩く月の門

 推敲という言葉の元となった賈島の漢詩の「僧は推す月下の門」と「僧は敲く月下の門」のどちらがいいかという話が下敷きであることはピンと来るであろう。芭蕉は「三井寺の門叩かばやけふの月」と詠み、蕪村は「寒月や門をたたけば沓の音」と詠んだので、漱石先生も詠んでみた。ただ梅は春、月は秋である。ちゃんとした梅なら春の句と皆が認める。でも「梅の詩」である。一寸季感が弱い。「春眠る漱石の「門」開け放し」という鎌倉佐弓氏の句があるらしい。

   其愚には及ぶべからず木瓜(ぼけ)の花

 「草枕」に前に書いた「拙を守る」という漱石の信条とともに語られるのが木瓜である。「余も木瓜になりたい」とまで言っている。その愚を愛した漱石も木瓜には及ばないというのだから、木瓜としては愚の極に持って来られたことを喜ぶべきか、悲しむべきか?

   行けど萩行けど薄の原広し

 漱石は阿蘇に登って暴風雨に遭い、後に「二百十日」として小説にすることになる。その阿蘇登山の時の句だという。そう言われてみると、今まで何とも思っていなかった句が生きてくる。私の育ちも九州で阿蘇にも登っているからである。もっとも二百十日に登るような真似はしなかったが。今でも漱石の文学碑があるらしい。

   喪を秘して軍を返すや星月夜

 「三国志」の中の諸葛孔明が陣中で亡くなったときの話である。単に粛々と引き返すだけではなく、時には死んだ孔明の車を見せて逆襲する振りを見せながらの必死の退却である。「死せる孔明、生ける仲達を走らす」こともある程怖れられていたことになっている。私は仲達は蜀の国なぞは目になかったのだと思っている。でも物語としてはそれでは面白くない。この句は信長が死んだ時に備中攻めから引き返して来た秀吉としても、意味は通ると思う。

   蛤とならざるをいたみ菊の露

 「雀蛤となる」という言葉がある。「礼記」に「季秋の月、雀大水に入りて蛤となる」とあり、大蛤のことを蜃と言うらしい。その蜃がよく気を吐いて楼を作る。すなわち蜃気楼である。蜃気楼は蛤が作っているという話である。漱石は叢の中に死んだ雀を見つけ菊の根元に葬ってやったらしい。こんな優しい面があるのである。そこで蛤になる前に死んだ雀を悼んで詠んだ句である。ちなみに子規に「三皇五帝雀蛤となりにけり」という句がある。中国の皇帝はいつも力で決っているから、初代はすべて大化けして皇帝になった人たちなのである。

   安々と海鼠の如き子を生めり

 「長女出生」の前書きがある。生まれたのは筆子。ここで散々お世話になっている半藤氏の奥さんの母上である。平成元年に亡くなられ、それまでは半藤氏夫妻と一緒に暮らしていらっしゃったらしい。「海鼠(なまこ)とは何だ!」と眼を剥く向きもあるだろうが、男にとっては捉えどころのないものである。それを海鼠と言ったのは言いえて妙かも知れない。今も熊本に漱石記念館になって家は残っており、「筆子産湯の井戸」というのもあるらしい。半藤氏の奥さん曰く「まるでキリスト」。

   新しき畳に寐たり宵の春

 熊本では5回引っ越したらしい。その6番目の家での句である。新しい畳に寝転がって大の字になると、側には古女房が居る、とまでは言っていないが、そんな趣である。まだ新婚4年だからこれは「虚」の方であろう。「宵の春」が珍しい使い方で「春の宵」ではない。「暮の春」ならまだ分るが、気分は同じ晩春という感じか?