句あれば楽あり ?

夏目漱石の俳句 二

至遊(しゆう)


 漱石は熊本にはほぼ4年居た勘定になる。その頃の句を引っ張り出すとなるとやはり1回では足りない。以下は熊本時代の前半の句である。中には地方色の強く出た句もあったが、私が選んだ句にはあまりない。ただ大きく4つに分類してみた。第一は中国の故事に拠っているもの、第二は日本歴史、特に講談や平家物語的な興味から出たもの、第三は漱石の私的生活、そしてその他とでも言うべきものである。先ず漢文の知識から

   白壁や北に向ひて桐一葉

 「一葉落ちて天下の秋を知る」は中国の古書「淮南子」の中の詩である。この時点では「桐」である根拠はなかったらしい。桐にしたのは日本のセンスらしい。確かにあの葉は存在感がある。芭蕉の「我宿の淋しさおもへ桐一葉」で完全に一葉とくれば桐に定まったというが、責任は持てない。

いずれにしても桐の葉が落ちるさまに、日本では寂しさを重ね合わせている。白壁だから大きな家かも知れないが、貧富に関わらず秋は来る。理屈では桐の葉が「北に向う」のなら南風が吹いていることになるが、やはり「北」という言葉も寂しさに繋がる。

   累々と徳孤ならずの蜜柑哉

 出典は論語である。「徳は孤ならず必ず隣あり」で、徳ある者の周りには自然と人が集まってくることをいう。その意味では史記の「桃李もの言わず、下おのずから蹊を成す」に似ている。熊本の櫁柑山は余程印象に残ったのか、「草枕」の中でも何度か登場する。この句作の10年ばかり後のことである。確かに蜜柑は「孤」ではない。ただ蜜柑を見て漢文を思い起こすあたりが、我々世代とは違うところである。

   桃の花民天子の姓を知らず

 明治の世であることを思えば、明治天皇を思い出してもおかしくはない。言われてみれば、天皇家には姓がない。しかしこれは陶淵明の「桃源郷の記」にちなんでいる。桃源郷は一種の理想社会であり、天子が誰かなど知らなくてもいい。私も吟行で4月に山梨の桃源郷へ行ってきた。桃源郷公園より更に奥地に満開の桃の花があった。わずか半日の桃源郷経験であったから、これほどまでに世間知らずになる訳には行かない。

   醋熟して三聖顰す桃の花

 醋(さく)は酢のことである。三聖とは孔子、老子、釈迦のことである。熟した酢だから酸っぱくてたまらない。三聖と雖も顔を顰める、というユーモラスな光景である。これは漱石が思いついたものではなく、狩野派の画題にあるものである。儒教も道教も仏教も求めるところは一つということを画にしたものである。「顰す」という語の出典は「荘子」らしい。絶世の美女と言われた西施が咳をするたびに眉をひそめた。その真似を皆がし始めたのを「顰みに倣う」という。西施は例の芭蕉が「象潟や雨に西施がねぶの花」と詠んだ西施である。

   春寒し墓に懸けたる季子の剣

 忠孝や義理人情の輸出元は中国である。この話も人情ものであるが、中国が長くなり過ぎるので省く。実は鴻門の会を詠んだ句も入れたかったが、登場人物の名前が、今のMS Wordでは出ないので諦めた。
 次に日本の題材である。

   朝懸や霧の中より越後勢

   落ち延びて只一騎なり萩の原

 別に深みのある句ではない。上の句は川中島の合戦での謙信側の描写、下はどの戦を詠んだのかは分らない。しかし却ってどの戦にも当て嵌めることができる。大抵引き分けはなくて、敗者がいるからである。

   大将は五枚しころの寒さかな

   臣老いぬ白髪を染めて君が春

   白旗の源氏や木曽の冬木立

   時雨るるは平家につらし五家莊

 源平の合戦から取ったものである。第1句は一の谷の戦いに敗れた平敦盛である。この後、熊谷直実と組み合って、敦盛は最期を遂げる。能でも有名な場面である。第2句は斎藤別当実盛。木曽義仲の軍に倶利伽羅峠、加賀篠原と連敗。その平氏の中で1人勇戦する1人の武者を討ち取って首を洗ったら白髪だったという、70歳の実盛が若造りをして闘った話である。

第3句は逆に木曽義仲が兵を挙げた模様であり、第4句は平氏が敗れ去った後の生活である。この最後の句には、熊本で詠んだということもあって漱石先生も思い入れがあったことだろう。平家の落人伝説は日本中に山ほどあるが、熊本、宮崎でのひっそりとした生活は、民謡等でも伝わり有名である。

   水攻めの城落ちんとす五月雨

 秀吉がまだ羽柴筑前守だったころ、備中攻めをしたときに、高松城を水攻めにした話も有名である。まさに落ちんとしたとき、主の信長は本能寺で最後を遂げ、秀吉は急いで話を纏めて引き上げる。漱石は高松城の清水宗治の潔さがむしろ好きだったらしい。

   立籠る上田の城や冬木立

 時代は変わって秀吉が世を去った後の関ケ原の時である。上田と言えば真田昌幸、幸村父子が秀忠軍を釘付けにした場面である。本当は九月の出来事だが「冬木立」の方が似合うと思ったのであろう。

   あつきものむかし大阪夏御陣

 やがて豊臣家最後の日を迎える。本当にその日は暑かったらしい。熊本へ赴任した漱石は、熊本の暑さを、「何のこれしき」と強がっているのである。

 これらの歴史句に対しては、俳句の良し悪しは大して述べなかった。講談が大好きだったらしく、それに触発されて詠んだものも多いようだ。だから俳句の質としては高いとは言い難い。せいぜい「時雨るるは」の句が単なる物語だけでない、しっとりした情景を出してくれる。

 さて歴史を離れて、漱石の生活に入る。

   衣更へて京より嫁を貰ひけり

 漱石は熊本で結婚式を挙げた。六月の暑い日だったらしく、ささやかな結婚式が終ると、後は礼服なんか脱ぎ捨てて無礼講のようなお祝いになったらしい。それが「衣更へて」である。新婦軽視の結婚式だったようで、その後復讐でもするかのように、よく喧嘩になったという。犬も食わないだろうが。

   月に行く漱石妻を忘れたり

 半藤一利氏と山本健吉氏の話がここで少し食い違っているかも知れない。または結婚式は熊本で挙げたが、一度東京へ戻って、今度は一人で熊本に旅立ったのかも知れない。健吉氏は漱石が妻を遺して熊本五高へ単身赴任するときの句だという。前書きもあるから単身赴任には違いない。月の美しさにうっかり妻を忘れて旅立ってしまったような表現になっているが、それは本当ではなく、虚の世界を描いてみせたのである。

   菫程な小さき人に生れたし

 これは小西甚一氏が絶品だと褒めておられる。文人画精神の解説書とまで言われているが、可愛らしい上品な抒情で、作者の品位が高められて自然に出てくるもので俳句の腕を磨いただけでは駄目だという。

熊本にこの句碑が立っているらしく、半藤氏はこの句を選んでくれた熊本の人たちに感謝したいと言われる。漱石自身本当に慾のなかった人で、地位や名誉は全く度外視していた。だからこの句がわざとらしくなく響いてくる。

   枕辺や星別れんとする晨

 この時は妻鏡子は熊本に居たらしい。その新妻が病気になって看病している。「晨」は「あした」と読む。即ち七夕の夜が明けんとする頃である。彦星と織姫も別れて行く。もしかしてこの2人もか?との不安がよぎったことであろう。

   木瓜咲くや漱石拙を守るべく

 「拙を守る」は漱石が好んだ言葉であるばかりでなく、生き方の基本として守り続けたことだった。陶淵明や老子に見える語である。世渡り下手と言われようが、愚直なまでに節を曲げず、俗世に媚びることをしなかったのである。木瓜という茫洋とした花が、うまく漱石以下を引き立てている。自分に与えた標語だったかも知れない。

 以下は漱石の個人的なことを離れて「その他」の部に入る。

   ふるひ寄せて白魚崩れん許りなり

 「白魚のような手」というのは佳人の指の表現である。白魚が佳人だとすれば「抱き寄せて佳人崩れん許りなり」ということになる。当時は隅田川は白魚が沢山獲れたらしい。三人吉三にも落語の芝浜にも白魚が顔を出す。江戸っ子の自慢のものである。さて漱石先生は艶を詠みたかったのか、それとも江戸っ子気質か、その両方か、今となればわからない。

   降る雪よ今宵ばかりは積れかし

 これも意味深長な句である。何故今宵は雪に積って貰いたいのか、どう解釈するかによって、鑑賞者の人格が分るかも知れない。まあ大体同じところに結論は行くと思うが。

   凩や海に夕日を吹き落す

 元禄の俳人池西言水に「木殺風の果てはありけり海の音」がある。また季節は違うが芭蕉の「暑き日を海に入れたり最上川」をも連想させる。俳人は前にも言ったが凩(こがらし)が好きである。芭蕉と違って凩が夕日を海に吹き飛ばしてしまったら、さぞその後は寒かったことだろう。

   若竹や名も知らぬ人の墓の傍

 「名も知らぬ人の墓」は死の象徴であると同時に、世の中から忘れ去られて行く存在である。それに較べて若竹は、生命力旺盛である。まるで死者からエネルギーを吸い取ったかのように、すくすくと伸びている竹との対比が絶妙である。

   澁柿やあかの他人であるからは

 「あかの他人」とは「閼伽」すなわち仏に供える水のようなということから転じて、水のように冷たい縁もゆかりもない他人という意味になったらしい。例えばいくら尊敬している人でも、または異性なら憧れている人でも、「あかの他人」だと分れば甘柿ではない。澁柿であり、それがただ真赤に熟れているだけである。

   梁上の君子と語る夜寒かな

 「梁上の君子」とは昔は泥棒のことを言ったらしい。では漱石が鼠小僧を説得せんと寒い中で語っているのかというと、そうではないらしい。泥棒も地に落ちてこの頃は鼠のことを言ったらしい。昔はどこの家にもいた鼠と、眠れない夜寒の中で話し込んでいるのである。もっとも鼠の側にはそんな気は全くないだろうが。



Webmaster註:五家荘(ごかのしょう)熊本県八代郡泉村の地名。隠田集落の一つ。(広辞苑)