句あれば楽あり ?

夏目漱石の俳句 一

至遊(しゆう)



 夏目漱石といえば言わずと知れた「我輩は猫である」に始まり「草枕」「こころ」まで幅広い作品を残した文豪である。この文豪も今回の「ゆとり教育」のあおりを食って、教科書から消えるらしい。何のための「ゆとり」なのか疑っている人も多かろう。

 漱石は生涯に約2,500句の俳句を詠んだといわれる。そして漱石俳句を書いた本も結構多い。手許にあるだけでも「漱石俳句を楽しむ−半藤一利」。これは半藤氏が漱石の血縁にあたることを差し引いても、漱石俳句の紹介に功績のあった人だと思う。

 次に「月は東に−森本哲郎」。これは漱石ファンが読むと頭に来るかもしれない。まるで漱石は蕪村の句を真似て詠んだと言わんばかりである。俳句だけでなく「草枕」は蕪村の俳句の世界をモデルにしたと言いたそうである。

 また小西甚一氏の「俳句の世界」、山本健吉氏の「俳句鑑賞歳時記」にも取り上げられている。その他の歳時記に目を通す時間はないが、多分いくつかずつは選ばれているだろう。勿論、漱石自身の作品の中に、例えば「思い出すことなど」の中には俳句が適当に散りばめられている。

 漱石は「坊ちゃん」の舞台となった松山に赴任したころ、子規に宛てて弟子入りの意志を伝えている。俳句でもやらないと、やることがないという程度の軽い決意だったらしい。ところが子規が身体をこわして、療養のために松山に戻ってきて、漱石の家に転がり込む。子規もやることがないから、毎日そこで句会をやる。1階に子規、2階に漱石という関係になって、1階では毎日俳句の議論が行われていては、漱石も義理にでも話に入って行かざるをえない。

 本格的に句作を始めたのは、子規が快復に向い、東京根岸へ帰ってからだという。それからせっせと子規に句を送り始める。その子規は蕪村を「発見」したとさえ言われる人物で、当然蕪村に陶酔している。だから漱石にもその影響は及ぶ。森本氏の書も謂れのないことではない。

 蕪村もそうだったが、漱石も漢詩を始めとする中国文学、日本文学に深い造詣を持っていた。日本政府によってイギリスへ英語教育の習得のために派遣されたが、実際には彼の興味は東洋文学にあった。イギリスでノイローゼ気味になったのも当然の文化ギャップだろう。

 明治28年、29年は松山時代である。この時代の作を先ず挙げてみよう。

   黄菊白菊酒中の天地貧ならず

 禅の言葉に「別に是れ一壺の天」という言葉があり、「後漢書」にも、漱石の愛読書だった「蒙求」にも出てくるし、「草枕」の中でも使っている。壺の中にも別の宇宙がある、というようなことだが、これを漱石は酒に置きかえた。黄菊も白菊もあり楽しいことが山ほどあるよと言っている。要するに「大いに飲め」と言っているんだが、本人は下戸で飲めなかったらしい。

 宣伝になるかどうかは分らないが、当時から「白菊」という銘柄はあったのだろうか。こんな面白さが俳諧の本質であり、最近は私も含めて深刻ぶって構え過ぎている。

   煩悩は百八減って今朝の春

 除夜の鐘は煩悩を追い払うために撞く。煩悩の数は百八と言われている。その計算式はあるが、長くなるので避ける。禅宗の経典に由来している。「今朝の春」は元日の朝だから、すっかり煩悩を追い出しきって、すがすがしい気持で元旦を迎えられたことだろう。ただ煩悩は次々に我々を襲ってくるので、「今朝の春」の一瞬だけが煩悩に苛まれないですむ時かもしれない。

   恋猫や主人は心地例ならず

 「猫の恋」は春である。気になり始めたらきりがないほど、うるさくかつ熱心に求愛の声を発する。当時漱石はまだ独身だったので、この心穏やかならざる主人とは、漱石自身のことと考える方が自然である。ましてその後「我輩は猫である」を書く人である。好き嫌いは別にして、猫に興味はあったであろう。

   不立文字白梅一本咲きにけり

 今の世の中、マニュアルやハウツー物に満ち溢れている。確かに無いと困ることもあるが、特にPL法以来、企業の自己防衛の色も濃くなった。「不立文字」とはそんな世の中とは逆に、文字や言葉に拠らないことである。これも禅の言葉である。半藤氏は白梅が凛と咲いたのを言葉には言い表わしがたいと漱石は思っただろうが、さりとて文学者として表せないというのも不甲斐ない。そこで「不立文字」と「逃げた」と書かれた。肉親だからこその悪口だろう。序に俳句も不立文字で「俳句入門」をいくら読んでも上手くなるものではないと付け加えられている。

   時鳥折しも月のあらはるる

 百人一首の中に「ほととぎす鳴きつる方をながむればただ有明の月ぞのこれる」がある。だから時鳥(ホトトギス、杜鵑、不如帰、子規等各種の文字あり)も月も俳味のある材料というより、古来の和歌の材料である。ただ大抵が有明の月があり、そこに不如帰が都合よく鳴くのだが、この場合は逆で不如帰が鳴いた時に都合よく月があらわれたのである。不如帰は突然鳴いたりするが、月は暦通りに動いている。これを逆転させたところにユーモアがある。

   弁慶に五条の月の寒さ哉

 勿論実景ではありえない。京の五条の橋の上で弁慶が「あと1本で千本だ」などと言って、通行人を困らせている図は絵本や童謡の世界で有名である。その豪傑の弁慶でも寒さは身に堪えるだろうという、つい肩透かしを食った感じにさせられる句である。我々はあまり真似をしない方がいいかも知れない。川柳とどっちつかずになってしまう。

   三十六峰我も我もと時雨けり

 言わずと知れた京都は東山三十六峰である。原句では「我も我も」ではなく、例の「く」の字を2文字分引っ張った繰り返しの記号になっている。しかし今のワープロでは難しいし、横書きならなお更である。そんな積りで読んでいただきたい。時雨がさっと過ぎていく。三十六峰すべてが、多少の時差はありながら、皆濡れていく。山が時雨を呼んでいるような気配が、何とも言えず楽しい。流石文豪でかつ蕪村の文人画に影響されている図である。

   細き手の卯の花ごしや豆腐売り

 「細き手」はお妾さんだと、半藤氏は言う。その半藤氏は私と同じく無類の豆腐好きらしく、豆腐屋が売るときの切り方に5種類あったと解説されている。その1つが賽の目である。そんなことは何も書いてないのに、お妾さんが「賽の目にして下さいな」と卯の花の垣根の向うから手を伸ばしたところだという。事ほど左様に俳句の鑑賞は勝手になされる。漱石は「違う!」と言っているかも知れない。序ながら「おから」は「卯の花」というから、ここにも言葉の遊びが隠されている。

   凩や真赤になって仁王尊

 「仁王尊」は金剛力士の通称で、仁王さんの方が親しめる。その仁王さんもまさか凩(木枯しともいう)が寒くて赤くなっているのではない。本来仏法を護持する神だから、凩からも寺を守るべく力んでいるのだろうが、漱石も含めた江戸っ子のやせ我慢という人間に近い像が浮かんでしまう。俳人は凩が好きである。漱石も28句詠んだらしい。

   屑買に此髭売らん大晦日

 髭はくちひげ、鬚はあごひげ、髯はほおひげである。屑買とはいえ、口ひげでは買いはしまい。一番立派になりうるのは、髯であろう。大晦日に支払に困って髭でも売ろうという話だが、多分こんな商売は江戸時代と雖も無かっただろう。多分これは中国の話のもじりである。その話を書くと長いが、母親が髪を切って売り、息子の出世のきっかけを作った故事が似ている。それでは単なる家族愛・出世物語の話になってしまうので、こうデフォルメしてしまったのだろう。

   叩かれて昼の蚊を吐く木魚哉

 結構有名な句だと思っていた。昔は場所を問わず、蚊は多かった。だから木魚の中に隠れていてもおかしくない。ところが江戸時代の太田南畝(蜀山人)に「叩かれて蚊を吐く昼の木魚かな」があるらしい。絶対に漱石は蜀山人には年代では追いつけない。後で詠んだ方が負けである。遊んでもいいが、発表してはならない。

   朧故に行衛も知らぬ恋をする

 口直しに、これまた百人一首の「由良の門をわたる舟人楫を絶え行方も知らぬ恋のみちかも」を踏まえた句を紹介する。百人一首では一枚札ではないが、上の句も下の句も「ゆ」で始まるので、割と取り易い歌だが、意味はというとストレートには行かない。しかし言いたいことは七七の「行方も知らぬ恋のみちかも」だけである。それを漱石は春の朧だから、心浮き立つ春だからと加えて本歌取りながら、本歌以上の「季節感」を付加したものである。

 このように和歌・中国の故事・禅の言葉等を自由自在に操りながら、漱石は句を詠んでいる。しかもここで紹介するのは、明治28年・29年という若いときの作である。漱石の場合、明治の年数と年齢が一致するので数え易い。すなわちまだ20台のころの作である。レトリックやユーモアに満ちた作なので紹介を始めたら、仲々落すのが惜しい句にぶっつかる。

 若い時代の句は半藤氏の解説を参考にしながら書いて行こうと思っている。他では仲々取り上げてくれていないからである。こんなことをしていると何回書くことになるのか、一寸心配ではあるが。