句あれば楽あり ?

俳句における省略

至遊(しゆう)



 今回はテーマ別俳句をひと休みして、俳句をやっていない人にはちょっと面倒なことを書く。興味がなければ読み飛ばして頂きたい。

 先日、ペンネーム永井裕子さんという方の本の出版に関わった。本のタイトルは「ボーダーレス時代に−生き残れる人・生き残れない人」(文芸社、1,000円)という誠に長いタイトルである。著者も含めて本の題名をどうしようかと頭を悩ましていた。

 こへ編集者からのこのタイトルの提案。先ず「ボーダーレス時代」というのが気に入った。この本ではいわゆる国境を意識したようなボーダー、そこから必然的に出てくる人種、言語、考え方等の違いについては勿論だが、男女間や世代間のボーダーにも触れてある。流石プロは違うと感心したものだ。

 しかしその後が何となく落ち着かない。「生き」が2回出てくるが、後の方の「生き」は無くても、すなわち「生き残れる人・残れない人」でもいいのでは?という提案をした。だけど「ボーダーレス時代」が気に入って、やはりプロ任せにしようという気分になっていたところなので、「面倒くさいからこのまま行こう」となってしまった。

 「面倒くさい」がこの場合は曲者である。我々俳句を詠む人間にも時間がなかったりすると、十分な推敲をしないで句会に出してしまい、後悔することがある。「生き」を削ろうとしたのは俳句をかじった者としては本能的なものだったかも知れない。わずか2文字と馬鹿には出来ない。1文字たりともおろそかにすべからず、というのは芭蕉の教えである。

 「名句に学ぶ俳句の骨法」という本を読んだ。下巻に省略のことが書いてある。対談集なので掘り下げ方は今一つだが、多岐に亘って話題にしている。
中で万葉集の柿本人麻呂の

  東の野に炎の立つ見えてかへり見すれば月傾きぬ

と、蕪村の

  菜の花や月は東に日は西に

を、鍵和田さんが比較し短歌と俳句の違いについて述べたた論文を書いたという記述があった。中味については触れていないので、私の見解を勝手に述べたい。

  この2つの韻文は朝か夕方かの違いはあるが、発想は似ている。ただ人麻呂の短歌は、蕪村で言えば「月は東に日は西に」しか言っていない。そこに多くの修飾の辞が入っているだけである。誤解のないように言えば、俳句が短歌より優れていると言っているのではない。短歌は言いたいことをほとんどすべて言える「おしゃべりな文学」である。それに反し、俳句は出来るだけ言わない「寡黙の文学」である。短歌が言葉を読みながら鑑賞できるのに対し、俳句の場合は書かれていないこと、すなわち行間を連想しなければならないから、一歩遅れて理解が進む。そのどちらを面白いと思うかで評価は違ってくる。

 「月は東に日は西に」では余分なことは何も言っていない。月の様子、入日の様子等についての描写がないのである。俳句の場合は、日本人にはある程度言葉に伴う共通したイメージがあり、それを共有できることが前提になる。だからこんな簡素な表現に止めていいのである。春の月が昇る時には、潤んだような黄色をした、大きな月に見えるはずである。太陽は沈みかけのころだから、赤い弱い光を発しながらこれまた大きく見え、ご苦労さんと言いたくなる。これが砂漠の民になると太陽は敵で月は恵みであるから、我々と同じ意識を共有することはできない。

 春だということは「菜の花や」で分かる。人麻呂の歌でそれに相当するものは炎(かぎろい)である。ただ蕪村は月と日の他に菜の花を持ってきた。他には何もないから、地面一杯の菜の花をイメージしてしまう。すると東の空と西の空、その中間の黄色い一面の菜の花畑という、とてつもないスケールを17文字で表したことになる。月と日に関する修飾語を省略出来たからこそ、菜の花畑まで描けたのだ。人麻呂の短歌では地上の描写はない。

 他に村野四郎という人の「さんたんたる鮟鱇」という鮟鱇が料理される過程を描いた詩と楸邨の

  鮟鱇の骨まで凍ててぶち切らる

の比較を平井照敏さんが書かれたらしい。面白いことにその村野氏も楸邨も照敏さんの各々の分野での先生である。照敏さんの結論は、詩の方では皆が分っていることを書いており、楸邨に軍配を上げている。やはり詩もしゃべり過ぎになるらしい。

釈超空の

  葛の花踏みしだかれて色あたらしこの山道を行きし人あり

の最後の7・7は俳句なら言わないと言っている。確かにこんな答を明かすようなことは俳句では嫌う。そこに余情がなくなるからである。

また俳句でも省略の効いた例としていくつか挙げていた。原石鼎の

  頂上やことに野菊の吹かれおり

が、野菊に焦点を当て、他を捨象した点はお手柄だと皆が言っていたが、私は多少異論がある。気になるのは「ことに」である。「ことに」ということは他にもあったということを言っていて、捨てきってはいない。野菊が咲く程の山頂だから、大して高い山ではない。だから少なくともより背の低い草くらいは生えているはずである。それらの中で「ことに」である。別にこの句が嫌いな訳ではないが、省略の参考例として挙げるのはどうかと思う。

例えば飯田龍太の

  一月の川一月の谷の中

と較べてみるといい。他にも色々なものが目に入ったはずなのに、これだけに焦点を絞っている。これ以上省略できる言葉がない。

 何故そんなに省略が必用かというと、先ずは俳句が短いからである。捨てるということは逆に言いたいことを選ぶということである。言いたいことだけを選んで残りは空白にしておく。キャンバスの白い部分は、鑑賞者の勝手な想像を許す、または想像を強いるもので、必用な余白なのである。この読み手による解釈の追加は省略があるからこそ可能であり、これが俳句に省略が求められる最大の理由である。こうして読み手を通してやっと俳句が意味をなす。そこでは書かれていることの数倍の意味が付け加えられている。

 こう見て来ると「ことに」同様「生き」の2文字が余分だったという気がしてならない。俳句をやる者の性なのだろうか。