句あれば楽あり ?

新春の句

至遊(しゆう)



 歳時記では四季すなわち、春夏秋冬の他に新春を別立てで分類するものが多くなった。旧暦から新暦に変わったおかげで、実際には新春=冬である。また新春=1月ではない。例えば

  一月の川一月の谷の中        飯田龍太

という有名な句にしても、新春とは言い難い。冬の句である。

 淑気という言葉がある。俳句を始めてから覚えた言葉だが、好きな言葉である。正月を伊勢神宮で迎えたり、犬吠崎で初日の出を見るとき、何とも言えない厳かで身体が洗われるような気分になる。地球が1回自転をしただけで、大晦日とは大違いである。

  淑気満つ殊に庫裏には男客      早坂澄子

 「麦」の同人の方だが個人的には全く知らない。この淑気も暖冬だと半減する。やはり身が引き締まるような寒さが必要だろう。だから庫裏が似合う。では女客ではどうかとウーマンリブ(ちょっと古いか?)の人からは文句が来るかも知れない。しかしこの作者は男客が見えたことで緊張しているのである。それが淑気を増幅させている。残念ながら私には淑気を詠んだいい句はない。

  淑気満つビル一階に祠あり      福山至遊

 日本橋の七福神詣でをした時の感想である。やはりビル街も、人の装いも違うし、いつもとは歩いている人そのものが違うせいか、わずかながらも淑気を漂わせる。ただ神様もとうとうビルの中に入ってしまったのが、時勢かつ地勢というものか。

 では新春を詠んだ句をいくつかランダムに紹介する。

  去年今年貫く棒のごときもの     高濱虚子

 去年今年(こぞことし)とは、丁度年が変わる瞬間を言う。句を詠むのは新年になってからになるのでこれは新年の季語である。客観写生を主張していた虚子の、完全な心象描写である。とは言え名句である。去年と今年を2つに分けて

  去年に寄せ今年に返す波の音     福山至遊

という句を詠んだことがある。犬吠崎での句で、旅館の部屋ではひっきりなしに波の音が聞こえている。一定のリズムがあるが、寄せてきた波が返す時には年が改まっていたという瞬間を詠んだ積りだったが、余り評判は良くなかった。

  元日や手を洗ひをる夕ごころ    芥川龍之介

 元日は朝を詠むことが多い。「夕ごころ」が憎いほど上手い。蕪村に「行く春や重たき琵琶の抱きごころ」があるが、この「ごころ」は少し違う。蕪村には触覚的な趣があるが、龍之介の場合は完全に気持の問題である。多分いい元日だったのだろうと思う。華やいだ元日が幕を下ろそうとしている。半分名残惜しいような、またほっとしたような気分が出ている。

  初富士のかなしきまでに遠きかな   山口青邨

 私の家からも富士が見える。本当に悲しいほど遠い。その上最近は高層ビルのお蔭で、その富士さえもビルの上に乗っかったような風景になってしまった。こうなると茶化してしまいたくもなるが、青邨が詠んだ頃は本当にただただ遠く見えたのであろう。

  膝に来て模様に満ちて春著かな   中村草田男

 「春著」は「春着」で新春の季語である。子供が晴れ着を着て膝に寄って来る。子供の晴れ着だから、子供の喜びそうな模様がいっぱい入っている。天真爛漫な子供の甘えようが目に見えてくる。

  羽子板の重きが嬉し突かで立つ  長谷川かな女

 子供の頃の思い出か、または子供の観察をした結果なのかは分からないが、羽子板は役者の押し絵か何かをした豪勢なものなのだろう。解説は要らないが、虚子門に集まった女流俳人のはしりの1人がかな女である。

  人日の厨に暗き独言         角川源義

 人日(じんじつ)とは陰暦正月七日、七草粥を祝う日である。もう正月気分も殆んど抜けている。まして厨で仕事をする主婦となると、正直毎日が仕事になってしまう。お節料理がなくなればなお更である。何となく言う独り言も、余り明るいものではあるまい。主婦以外はまだ浮かれ気分が残っているだけに、「どうして私だけが・・・」とでも言いたくなるだろう。今ならコンビニで買ってくるか、ファミレスに出かけるかで済んでしまうところだが。

  繭玉やそよろと影もさだまらず   長谷川春草

 繭玉は餅花とも言われ、正月十四日に柳の枝などに紅白の餅を刺し、神前に供えたり、床の間に飾ったりするのが本来である。最近は「繭玉もどき」が商店街の飾りに使われることが多い。またそれが何とも心もとないもので、ふらふらと揺れる。だから影も定まらないのは実感として分る。

  玉の緒のがくりと絶ゆる傀儡かな   西島麦南

 玉の緒というと弁慶草の一種の「みせばや」の別名でもある。こうなると秋の季語だが、ここでは百人一首の「玉の緒よ絶えなば絶えね」の玉の緒、すなわち「命」である。だから季語ではなく、傀儡が正月の季語である。操り人形だから「がくりと絶え」るのも頷ける。昔は傀儡回しと言って人形使いが正月に門付けをして回っていたらしい。今では季語から外してもいいような気もする。

  つぎつぎに子等が家を去り鏡餅    加藤楸邨

 子は去って行くものである。段々家族が減り、夫婦だけの生活になっても、仲々生活習慣は変わらないもので、2人には似合わない程の大きい鏡餅が依然として家の正月を監視しているような図である。去って行く子を淋しく見つめているのか、それとも頼もしく見ているかは、鑑賞者次第であろう。

  大木に負独楽の子の凭れをり     上野 泰

 独楽に負けた位ではそんなにしょんぼりはしなかったものだが、やはり気落ちしたのであろう。その気持は分るが、かなり情に訴える描写をしている。何時の頃の作かは知らないが、独楽だからそんなに最近ではないだろう。昔の子供は強かった、と昔の子供であった自分は思っている。

 最初に初日のことに少し触れながら、句としては全く紹介していないことに気付いた。あまり良い句が見つからなかったのだ。そこで僭越ながら自分の句を紹介する。

  球形の海従えて初日かな       福山至遊

 確か安房白浜で正月を迎えた時の作だと思う。太平洋しか見えないから水面は水平ではない。球形の一部である。その海の上に初日が上がってきた時には、その初日に引っ張られて海面がカーブしているように見えた。実は先生には直されたが、この方が気に入って未だに使っている。

  初日の出わが心にも神栖めり     福山至遊

 普段は信心の気配さえ見せていないのに、初日に感動する自分を見てしまった。これは犬吠崎での句だが、海面を低く雲が覆っていて、仲々初日も顔を出さなかった。数分後、むしろ色鮮やかな初日が上がってきた時、こんな気分になったものだ。

 初日の出は目出度いばかりで、そこに翳りがない。そこが人情の機微を写し取るには向いていないのかも知れない。でも今年も挑戦はしようと思っている。