句あれば楽あり ?

俳句と社会問題

至遊(しゆう)




 以前、同じ句会に出ていた先輩が「俳句は季語によって生きている。だから俳人は自然破壊のような動向に対しては敏感に反応し、警告を発すべきだ」と言われていた。でも「どうやって?」となるとそんなに発表の機会のない、我々平凡な俳人にとってはかなり制限される。その先輩にしても、我々には長い手紙を書いて来られるが、世の中に向けてその意見が公表され、認められているというのは見たことがない。

 だけど今回の米英によるイラク攻撃や、日本政府の対応については、やはり一言言いたくなるのか20日過ぎの色々な句会でそれらしいものが出てくるようになった。

   正義とは度し難きかな春の雷   篠原申牛

   空しかり「正義」の言葉春予報   遠塚青嵐

 会田雄次氏の著書「逆説の論理」の中に次のような一節がある。
 −やくざの縄張り争いが馬鹿馬鹿しいように、非信者の目から見れば十字軍のような宗教戦争もイデオロギー戦争も、当事者たちが「信仰」に燃え、正義の大旆(たいはい)を掲げて生命がけで行っていればいるほど、その戦いが激烈なものになればなるほど、その愚劣さがやり切れないものになる。(中略) イデオロギーの信者の戦いを、第三者がそれを全くの正義の戦いとして援助するのは、世にも愚かな出しゃばりとなる。−

 「正義」はややもすると国を滅ぼすことがある。第二次大戦においても、枢軸国側にも連合国側にもそれなりの「正義」があった。「正義」には反対し難いところが「度し難い」ところである。

   熟慮して断行はせず春スキー   篠原申牛

 皆、小泉首相のことだと思った。実際にはそんな意図は全くなく、本当に春スキーに誘われたらしい。それもアメリカでのスキーに。ツアーの値段は安かったようだが、色々なことを考慮した上で(だから多分危険度も入っていると思うが)、行くのは止めた、という句らしい。

   風見鶏の動きせわしや万愚節   福山至遊

 これは私の作だから推定ではなくはっきり言えるが、日本政府の動きを意識して詠んだ。風見鶏といえば中曽根首相の専売特許だったが、今回、米国の動きを見ながら完全に追随した小泉首相にも献上していいニックネームである。断っておくが、私は反小泉ではなく、是々非々であり、むしろ過去の大抵の首相に較べれば、買っている方である。ちなみに万愚節とはエプリールフールのこと、すなわち4月1日のことであり、時点的には早すぎた。でもこれが一番ぴったりくるので、それを承知で使った。

   大西洋海嶺が噴くカーニバル   樋口愚童

 作者はこれは今回の騒動のことを詠んだものだという。誰もそうは思わなかったので、何を言っているのか分からず、点も入らなかった。要するにアメリカとフランス、ドイツの間に亀裂が入ったのが、大西洋を挟んでいることから「大西洋海嶺が噴く」となったらしい。戦争にカーニバルを合わせるのもどうかとは思うが、季語を入れるとするとこれが作者にはぴったりだったのであろう。謝肉祭は季語に入れるかどうか意見が分かれている季語である。

 紛争に入る前に、国連の決議に従うかどうかで揉めていた、2月の句会でも

   踏絵もて神を私する荒野     福山至遊

という句を詠んでいる。踏絵が季語になっている。今お互いが神のご加護を祈りながら、半ば神の代理戦争のようになっているのを、今後のために非常に怖れる。イデオロギーがある程度理性に訴えるものであるのに較べ、信仰は心の問題であり、より「度し難い」ものだからである。

 加藤楸邨が「鰯雲ひとに告ぐべきことならず」「蟇(ひきがえる)誰かもの言え声かぎり」と詠んだのも、1940年刊の句集にあるところから、当時の世相に投げつけた言葉だと思う。やはり何か起ると俳人も何か言っているのである。だから「京大事件」などの俳句弾圧も起っている。今回のように分り易い事件というか紛争に限らず、社会の隅に忘れられているような問題も取り上げる。ただ俳句という形の制約から、言いたいことを全部言えるわけではない。だから同じ俳句に関しても、色々の解釈がされる。俳句のいいところでもあり、限界でもある。