句あれば楽あり ?

選句の難しさ 二

至遊(しゆう)



 前回、正岡子規の「病牀六尺」について書きましたが、その書き出しはこうなっています。

○病床六尺、これが我世界である。しかもこの六尺の病床が余には広過ぎるのである。

 この書き出しの部分を口述筆記したのが、虚子だと「解説」で知りました。虚子の選句にケチをつけている部分は、当然別の人の筆記でしょう。何しろ虚子にしても碧梧桐にしても、その頃は売れっ子だった筈ですから、そうそう子規に付き合ってばかりは居られなかったでしょう。死の約20日前にも虚子の俳句について議論し、批判的なことを書いています。そして子規が厭味と感じるところを虚子は得意としており、ここから脱するのは難しいとまで言っています。

 その翌日には、子規の俳句について碧梧桐が書いたことについて、半ば反論してはいますが、半ばは「確かに舌足らずだった」という風に認めてしまっています。確かに碧梧桐の短所も責めてはいますが、何となく虚子に対するのに比べると舌鋒が弱いのです。それだけ碧梧桐を認めていたのかも知れません。中に有名な

   柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺

の句に対しても、碧梧桐は、何故「柿食ふて居れば鐘鳴る法隆寺」とは言われなかったのだろうと言っています。それに対して「これは尤もの説である」と子規は言っています。ただこれだと句法が少し弱くなるとも付け加えているが。下手に子規が碧梧桐に脱帽したら、この名句が無くなるところでした。

 確かに子規の句は形式的には三段切れっぽくなり、「柿食へば」で意味は切れているのに、文法的には「鐘が鳴るなり」でも切れてしまいます。しかし碧梧桐の直した句では、逆に「居れば」と「鐘鳴る」も繋がっているし、「鐘鳴る」と「法隆寺」も繋がっています。即ち、ちゃんとした切れがなく、間延びしてしまうのです。何よりも「居れば」は冗長です。ある一瞬を詠むのが俳句には一番似合っています。「居れば」を入れると、そこに時間的経過が感じられてしまいます。やはり軍配は子規の原句に挙げざるを得ません。

 なのに、あの気だけは強い子規が、あっさり「尤も」と認めたのが不思議です。他の例として

   秋風や侍町は塀ばかり

というのを碧梧桐は維新前の江戸の景色で、塀が沢山目立つ情景と解釈しています。子規はそうではなく、郷里の松山で侍が職を失い、侍町は荒れ果て、塀ばかりが崩れかけて残っているところを詠んだのだと言い訳しています。「秋風や」というところから、我々でも賑やかな情景ではなく、何か静まり返った、あまり生活臭のない情景を思い描きます。でも「前書きをつけて置かなかったのが悪かった」と子規は反省しているのです。

 このように俳句の良し悪しを決める基準は簡単なものではなく、各人が持っている尺度による部分がかなりあります。それでも全く無い訳ではなさそうです。

 今年の始めに、中村苑子さんが亡くなられました。そこで多くの句誌で、中村苑子特集をやっています。その中で圧倒的に多いのが

   黄泉に来てまだ髪梳くは寂しけれ

   わが墓を止り木とせよ春の鳥

の2句のファンです。確かに作者の死に臨んでは、挙げたくなる句かも知れません。しかしこれほど、いわゆる一流の俳人の選が集中した例を知りません。選句が難しいとはいえ、やはり何か基準はあるんだなと感じました。