句あれば楽あり ?

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至遊(しゆう)



 私の句を引用して、ご紹介頂いてありがとうございます。それにしても、東さんはただものではないですね。「不老不死も渡海も望まず冬支度」で背筋に何か走るとは。多分2年前の私なら、この句を見せられても「?」だけだったでしょう。渡海というのを知りませんでしたから。熊野に行く前に、和歌山出身の俳句仲間(別の句会ですが)に資料を貰ったりして、補陀落信仰は勿論、熊野を舞台にした物語の類まで、一生懸命勉強しました。

 でも、この句どう解釈しましたか?句会の席で2通りの解釈が出ました。渡海は観音浄土を目指す渡海なので、渡海=浄土と解釈した人と、渡海=自殺行為と解釈した人に分かれたのです。浄土と解釈すると「世の中では将来の希望で生きている人もいるけど、私はただ今の生活に満足して、普通の生活を送ります」となります。また一方渡海=自殺行為と解釈すると「極端に良いことも悪いことも考えずただ淡々と生きて行きます」という感じになります。

 東さん、それにおしゃべり相手のTさんは、どちらがピンと来ますか?自分の勝手な解釈で構わないのです。もうこの句は、私の手を離れて、1人歩きをしています。私がどっちをイメージして詠んだかは、紀行文から大体推察は出来ると思いますが、正解は後のお楽しみ。

 Tさんに取り上げて頂いた「霧立つや」の句は紀行文の中でも書きましたが、「滝」が夏の季語なので、それを避けて苦労して詠んだ句です。本当はそれほどまでにこだわる必要はないと思いますが、ちょっとこだわってみたのです。「霧」と「滝」と同居すれば、季語性としては「霧」の方が強いので、誰でも秋の句だと思ってくれるでしょう。実際他の人は「滝」という文字を詠み込んでいました。その意味ではTさんからは敢闘賞を頂いた気分です。

 それから、冬鴉の句、これも千葉の仲間でちょっとした議論を呼んでいる句です。「呼び合いながら近づかず」というところに、「現代の人間関係の希薄になったことを表わしている」と解釈した人が居て、リーダー格の人が「俳句は文字通り読むべきで、そこまで意味を付け加えるべきではない」と言ったからです。

 きっかけは護国寺の裏の林で見た実景です。しかしそれを「呼び合いながら近づかず」と表現するからには、何らかの世相を詠み込もうという意図があったことは確かです。リーダー格の人の意見ではありましたが、納得しない人も数人居て議論になりました。ちなみにこの句会では、こんな議論をしている時点では、誰の句かは分らずにやっています。最後になって、この句は自分の句だと明かす訳ですが、公正な議論が出来る反面、自分の意見は言いにくいものです。作者がバレますから。

 だから句会が終わってから、いくつかのメールを貰いました。リーダーがああ言ったけど、自分はそう思わないという人ばかりでした。私は元々人間臭い俳句を目指していますから、自然だけを詠んだ句はあまり作りません。でも他人が詠んだ句では、そういう句にも好きなものが沢山あります。