句あれば楽あり ?

テーマ別俳句 梅

至遊(しゆう)



 さあ春です。私にとっては花粉症に悩まされる春です。ある方が花粉症の症状が消えたそうです。友人に話したら「それは年のせいよ」と言われたとか。それでも治ればいいと思う今日このごろです。

   梅が香にのっと日の出る山路かな   松尾芭蕉

 この頃は梅はムメと読んだらしい。これもカナを振れば「ムメガカニ」である。「かるみ」の代表句と言われる。私には「かるみ」という概念そのものがちゃんと理解出来ていない。元禄6年の作だから晩年である。従って確かに芭蕉が「かるみ」を主張していたころではある。「のっと」という擬態語が何と言っても眼を引く。朝早く宿を出て旅を急ぐのに、山路だから目の前が開けたとき、急に日が出てきたように感じたのだろう。早春の朝まだき、梅の香の中でのこの情景は美しい。

   梅若菜鞠子の宿のとろゝ汁      松尾芭蕉

 乙州が江戸へ下るのに際して大津で贈った句である。挨拶句のきまりとして、眼前に見えるものを詠み込むということがあったらしい。とすると梅の花が近くにあり、若菜が食膳に上っていたのだろう。鞠子からは眼前ではない。和歌的な梅・若菜と鄙びたとろろ汁との取り合わせで俳諧になっている。今なら「季重なり!」と目くじらを立てるところだが、寿ぎの席だから許そう。

   むめ一輪一りんほどのあたたかさ   服部嵐雪

 人口に膾炙された句である。嵐雪は芭蕉の弟子。これも「梅」と「あたたかさ」という今の禁じ手を使っている。要するに当時はおおらかだったのである。季寄せと顔を突き合せてチェックする必要もなかった。この句は梅がどう人に愛されているかを良く表わしている。まだ一輪ほどでも、咲いたというだけで人の心は春めいてくる。日本画に描かれた梅は開ききったものは殆んどない。開き始めが梅の愛される時季なのである。

   二もとの梅に遅速を愛す哉      与謝蕪村

 これはよく見かける情景である。2本の梅の木の開花時期がずれていることがある。日当たりの関係なのか、それとも梅の木そのもののDNAによるものか、特に紅梅と白梅ではずれることが多い。単純に「愛す」と言ったところが蕪村らしく大らかでいい。人間にも早熟な者と晩熟の者がおり同時に早く老ける人といつまでも若い人がいる。そんな違いも同時に「愛す」のだろう。

   白梅や誰が昔より垣の外       与謝蕪村

 単純に、何時からとも知れず垣の外にあった梅が、今年も白い花を付けたと解釈していいだろう。勿論こんな散文にしてしまえば面白くも何ともない。「白梅や」という詠嘆に近い切れ字が入っているため、この梅に対する愛情が汲み取れる。そのせいか垣の外には昔の恋人が立っていると解釈する向きもあるようだ。何故恋人?それは漱石の項で述べよう。

   梅遠近南すべく北すべく       与謝蕪村

 「うめおちこちみんなみすべく」と読まなければならない。あちらにもこちらにも梅が咲き誇る時季になると、梅見と言ってもどちらへ行っていいか迷うほどである。風流を忙しがっているという変な情景である。私も俳句で忙し過ぎるきらいはあるので、他人事ではない。「句会遠近南すべく北すべく」の状態である。

   梅咲けど鶯啼けどひとり哉      小林一茶

 何時の作か知らない。しかし一茶が寂しい一生を送ったことは知っている。年老いてから恵まれた子供に次々に先立たれ、若い妻にさえ先立たれてしまう。季節は巡って活動的な春になったけど、やはり独りというのは身にしみる。こんなことを考えると多分晩年の作だろうと思う。

   梅も一枝死者の仰臥の正しさよ    石田波郷

 清瀬の病院に入院してからの句である。まさに荒療治としか言いようのない胸部整形の手術を受けた頃の句集に入っている。肋骨を開いたというから自分も動きは取れなかったかも知れない。だからこれが自分を詠んだ句かどうかは分らない。多分自分も肉体的には死者同然だとは思っただろう。だけど句作の意欲は衰えていず、壮絶な句集に結集されていく。

   紅くあかく海のほとりに梅を干す   山口誓子

 計算された美しさである。紅い梅干を一面に干した海岸。その側の海の色との対比を意識的に入れている。「紅くあかく」と繰り返したところにも、またその強調が入る。ただ技巧が勝ち過ぎていると何となく心に響いてくる強さが無くなる。

   梅の奥にたれやら住んでかすかな灯  夏目漱石

 蕪村の項で約束したことを言わねばならない。これは短歌の世界での「梅」の本意(ほい)を心得た句である。梅は本来垣根の内側にある梅の花をみて、そこに住む人のゆかしさを思いやるという概念がある。上に挙げた蕪村の句は、ある意味ではそれを逆手に取った句とも言える。「外に佇つ人のゆかしさ」と取ると恋人説とも繋がる。梅とそこに住む人とを配すると、不思議なことに悪人は思い浮かばない。男女を問わず名誉欲のない、ひっそりとした生活を送っている人が思い浮かぶ。「梅」という季語の効能だろう。

   勇気こそ地の塩なれや梅真白    中村草田男

 難解句が多い草田男の句の代表格である。こんなに分り難い句が何故そんなに受け入れられたのか。小西甚一氏は当時の人が人間臭さに飢えていたためだと言う。盆栽的ホトトギス、美を誇る秋桜子、知性的誓子にない血の流れている人間を感じさせるからである。「地の塩」とは新約聖書マタイ伝第5章に出てくる。「地の塩」がある限りそこにある物は新鮮に保たれる。要するに勇気を持たないと社会は腐りきってしまうという、自己主張そのものである。「梅真白」が無かったら救いようのない標語のようになってしまっただろう。白い塩と白い梅、これを近すぎると見るか、だからいいと見るかは意見が分かれるだろうが、紅梅では駄目である。

   梅咲きぬ温泉(いでゆ)は爪の伸び易き 梶井基次郎

 確かに暖かいと爪は早く伸びるような気がする。春を迎え、まして温泉に浸っているのである。作者はこれを発見したのだろう。真理かどうかの証明は要らない。詩の世界では本人がそう思えばそれが真理なのである。

   傍に人無きごとく梅にあり      高濱虚子

 「朝顔につるべ取られて」という千代女の句(と言われている)に似た作為がある。俺はこんなに梅の花を愛でているんだよ、傍らの人も忘れてしまうほどにと。風流人振ったがために却って嫌味になってしまうことがある。要注意。

   梅挿してマリアの白は奥深し     平畑静塔

 梅はどこに挿したかは示されていない。マリアの白も肌なのか衣類なのかを言っていない。それでも「マリアの白」が「奥深い」と言われると納得する部分がある。多分マリアの心も含めた白さがそうさせるのだろう。この場合の梅は白と見る。そうでないとこの静寂感は出て来ない。

   天地のひかりしづかに梅咲きぬ    桂 信子

 初春の天からの柔らかい陽射し、それを受ける大地。その両方が共鳴しての光である。その柔らかさは静かさにも通じる。まるで秋桜子や初期の波郷にタイムスリップしたかのような句である。彼女の20台から30台前半にかけての句集の中に見つけた。特にパンチ力がある訳でもない。だけどどこか落ち着く句である。

   紅梅やすさまじき老手鏡に     田川飛旅子

 この句は前に出したが、これは先ほどのマリアと反対に紅梅がよく効いている。ただ一般に紅梅の句は白梅の句ほど多くないし、内容的にも負けているという気がする。芭蕉にも蕪村にも紅梅の句はあるが、今ひとつ感心しなかった。あのモノクロの世界に鮮やかな色をもたらす紅梅は決して嫌いではないが、いい句にならない。だから私の句を載せるのもやめた。